令和3年度企画展示「渋沢栄一と一橋大学」5

商業道徳と商業大学必要論

 『論語』を座右の書とした渋沢が、自らの経験も踏まえて導き出した理念が、道徳経済合一説(道徳と経済の並立)である。当時の商人には道徳を軽んじる風潮があったので、経済人の地位を向上させるためにも、商業教育が必要不可欠だったのである。渋沢の「商業道徳」は、狭い意味での商人の道徳といったものではなく、高いモラルを有した自律的経済人の出現とそれによる商業界の地位向上を強く期待したのである。渋沢が他の誰よりもはやく東京高商の大学昇格を訴えたのもそのためであろう。
 しかしながら、「商科大学」設立の運動は決して順調に進んだわけではなかった。商業教育軽視の風潮は民間レベルでも国のレベルでも依然として根強く、大学昇格までには幾多の紆余曲折を経なければならなかったのである。
大学昇格運動の本格化を促した「商科大学の必要性」という渋沢の演説は、如水会の前身である東京高商同窓会における渋沢翁還暦並びに叙爵祝賀会でのものだった。
 先ず、本学の同窓会が、1900(明治33)年10月27日の大会で「商業大学必要論」を大きく取り上げた。次に、民間では渋沢らの実業家が、東京高商の組織を拡張して、これを商科大学とすべしとの主張を説いて回った。
 この間も渋沢(当時、㈱第一銀行頭取)は、1920(大正9)年4月に大学昇格するまでの、1884(明治17)年から1919(大正8)年の35年間、筆頭商議委員として学園に係る重要事項を審議し、運営面で支援に尽力した。また、如水会の名付け親であることも良く知られている。
 1920(大正9)年4月1日、東京高等商業学校は、約20年に及ぶ大学昇格運動が実を結び、東京商科大学としてスタートすることとなった。
 渋沢は同年4月24日、大学昇格の記念式典において『商科大学の使命』と題して講演を行った。この時、渋沢が1900(明治33)年に初めて本学の大学昇格を公に訴えてからちょうど20年の歳月が経っていた。


教育事業の重視-商業に関する高等教育-
渋沢栄一述「商科大学設置の急務 上」『日本教育 第50号』5面, 日本教育社, 1907年
【一橋大学学園史資料室蔵 請求記号 し-1:1】

渋沢栄一は教育文化の整備にも尽力したが、特に力を入れたのが実業・商業教育だった。当時の商人には道徳を軽んじる風潮があったので、経済人の地位を向上させるためにも、教育が必要不可欠だったのである。

渋沢は1907(明治40)年6月1日発行の『日本教育』第50号で、実業・商業教育の重要性を「商科大学設置の急務 上」と題して説いている。

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「商議委員」として35年間本学の運営に尽力

 渋沢栄一(当時、㈱第一銀行頭取)は、1920(大正9)年4月に大学昇格するまでの、1884(明治17)年から1919(大正8)年の35年間、東京商業学校・東京高等商業学校で筆頭商議委員として本学の運営に深く関与するとともに、大学昇格にも奔走した。
 また、渋沢は当時の卒業アルバムにも「商議委員」として、毎年掲載されていた。                                      

卒業アルバム』1909(明治42)年
【一橋大学学園史資料室蔵 請求記号 B10-1】

『東京高等商業学校一覧 従明治三十九年至明治四十年』15頁, 1907年
【一橋大学学園史資料室蔵 請求記号 A04-2】


渋沢栄一先生胸像
堀 進二制作, 1927年
【オリジナルの所在:附属図書館2階大閲覧室】

 商法講習所に始まる東京商科大学の創立50周年を記念し、同窓会である如水会が渋沢の胸像を建立し、同校に寄贈した。除幕式は1927(昭和2)年11月14日に同校講堂で行われた。ちょうど一年前にも、同じ講堂で如水会による除幕式が行われたが、さらに新たな胸像を加えたのは、神田一ツ橋から国立への移転を見越してのことであった。その後、1930(昭和5)年に開館した附属図書館に設置され、今日に至っている。
 堀進二による如水会館像を原型とするが、堀自身が修正を加え、こうした銅像には珍しい笑顔が表現されている。

表 渋沢栄一銅像一覧
平井雄一郎・高田知和編『記憶と記録のなかの渋沢栄一』122頁,法政大学出版局, 2014年
【請求記号 2800:2377】

 堀進二氏が制作した渋沢栄一の洋装胸像は、「如水会館像」、「東京商科大学図書館像」、「渋沢史料館像」の三体であるが、笑顔の渋沢は「東京商科大学図書館像」にのみ表現されている。現在、この胸像は附属図書館2階の大閲覧室に展示されている。

靑淵先生胸像除幕式に隣席の澁澤翁
野依秀市編, 『靑淵澁澤榮一翁寫眞傳』107頁, 1941年
【一橋大学学園史資料室蔵 請求記号 A04:5】

 1927(昭和2)年11月14日、東京商科大学に於ける青淵先生胸像除幕式に臨席の渋沢と御令孫栄子嬢。
 胸像は同校卒業生によって組織される如水会が主催となり米寿記念として建設したもの。


渋沢栄一の上田貞次郎宛書簡
【一橋大学学園史資料室蔵 請求記号 A06:45-1】

 この書簡は、1923(大正12)年4月21日に渋沢栄一が、当時、東京商科大学の教授であった上田貞次郎宛てに書いた手紙である。
 上田貞次郎(うえだていじろう:1879-1940)は、東京商科大学の第3代学長であり、新自由主義を提唱した経営学者・経済学者である。大学昇格運動や大学昇格後の東京商科大学の発展に多大な貢献を与えた。
 一橋大学学園史資料室はこの上田に宛てた書簡のコレクションを所蔵している。
 上田の長男である上田正一氏が1981(昭和56)年10月21日に一橋大学の学園史資料室に来室し、上田貞次郎宛書簡の寄贈を申し入れた。この「上田貞次郎宛書簡コレクション」346通のうちの一通が渋沢(実業界)からの書簡であった。
 上田貞次郎全集の栞№1(1975(昭和50)年5月)に正一氏が書いた「渋沢栄一翁の書翰-『株式会社の起源』について-」が掲載されており、これによると、この手紙は、渋沢の自筆によるもので、「日本における株式会社の起源」(『商学研究』第二巻第三号,1923(大正12)年)を上田が渋沢に贈呈したことに対する返信で当時、渋沢はすでに84歳の高齢であった。
  また、上田は『株式会社経済論』(1913(大正2)年)を執筆するにあたって渋沢からはいろいろ教示を受けており、渋沢の没後、「青淵先生とアダム・スミス」(1931(昭和6)年12月、『白雲去来』p128-p133所収)を書いている。(「青淵」は渋沢の雅号。)

芳翰拝読 賢臺益々御
清適之条奉賀候 過日ハ     清適:よく使われる言葉
貴著株式會社之起源
一部御恵贈被下 御心入之
来示拝承仕候 御著書も  来示:相手を敬い書状の内容をいう
早々ニ読過いたし候も 特ニ
愚見申上げ候点も心附け不申候   
唯当時創業之際 時ニ
意外之困難事 前
途ニ積り候義有之 今日
之を回想すれバ 能くも
是まてニ進展致し候と相考
候程ニ有之候 右等之苦辛
談 其之御好ニ候ハバ 一日緩々
開陳可仕と存候 老生義
数日前より少々所労
にて 今以平臥罷在候も 不
取敢尊書ニ對する拝
答旁 匆々如此御座候
       敬具
四月二十一日
      澁澤栄一
上田賢契         賢契:「賢臺」との使い分けは不明
     拝復


靑淵(渋沢栄一)書

 本学の前身である商法講習所設立に尽力し、東京商業学校発展の礎を築いた渋沢栄一の書が附属図書館に所蔵されている。
 揮毫されているのは、岡村繁著『白氏文集 九』新釈漢文大系105(明治書院 2005)のP316~317に掲載されている白居易の七言律詩「池上竹下作」の一部分(頸聯:第五句、第六句)。
 また、この書の箱の裏書きには「三井家所蔵」となっているが、来歴等は不明。

<原文>水能性淡為吾友。竹解心虚即我師。
<読み下し文>水能く性淡吾が友為り。竹解く心虚即ち我が師。
<意味>水は性格が淡白なのでよい友である。竹は心にわだかまりがないので我が師である。

書の箱の表書
書の箱の裏書

渋沢栄一が関(はじめ)のために揮毫した扁額()

 「安分以養福」(ぶんをあんじ もって ふくをやしなう)と記されており、蘇軾(そしょく)の文集『東坡志林』の一節を引き、「自分が何であるかを知り、この世に於ける自分の為すべきことをわきまえていれば、道が開けて幸福になる」と伝えている。また、為書には「辛亥七月為 関雅兄請嘱」とあり、「雅兄」は男性に対する敬称で、「請嘱」は求められて書いたという意味。
 2014(平成26)年10月に関一の孫で元大阪市長の関淳一氏から本学に寄贈され、学長室に掲げられている。

 この扁額は、1908(明治41)年から翌年にかけて起きた(しん)(ゆう)事件の終息後、東京高等商業学校の大学昇格運動における中心人物の一人であった関一のために、1911(明治44)年7月に渋沢が揮毫し、贈ったもの。同年、関一は東京高商に復職したが、文部省との度重なる折衝にウンザリしていたのか、誘いもあって教授を辞めて大阪市政に進出する意向を示した。ベルギー、ドイツで都市財政論、都市交通論を学んだこの気鋭の学者は、学生や福田徳三等の同僚教授たち、後援者の渋沢栄一の強い引き止めを振り切り、学問の実践を志し、1914(大正3)年大阪市助役、1923(大正12)年大阪市長となった。
 大学昇格は1920(大正9)年に実現し、東京商科大学は4月1日に発足した。

※申酉事件(1908年~1909年)…当時大学昇格を目指し、専攻部を設置した東京高等商業学校(一橋大学の前身)に対し、この専攻部を廃止し、東京帝国大学法科大学内にあらたに経済、商科を設立した文部省との間に起きた紛争事件。東京高等商業学校の昇格の望みを絶たれ、関一ら教授陣が辞表を提出し、文部省の方針に反発した学生が総退学意志を示すまでに至った。事件は近代日本財界の立役者である渋沢栄一が調停役を務めることで終息。専攻部の存続が決まり、関一、佐野善作の二名は1911年の1月に教授に復職した。


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