令和3年度企画展示「渋沢栄一と一橋大学」4

東京商科大学への昇格

 申酉事件以降も、渋沢は商業大学の必要性を訴えた。1913(大正2)年に文部大臣は渋沢を介して商議員の意見を聴取し、東京帝国大学の商科と合併して商科大学とする案を作成した。しかし東京高商側の単独大学昇格案と相いれず、不調に終わった。その後、第一次世界大戦を契機に日本経済は飛躍的に拡大し、より高い見識と専門的知識をもった人材を求める社会的背景も圧力となり、1920(大正9)年4月1日、東京商科大学への昇格を果たした。

 大学には、大学令に基づく本科・予科と、改正高等学校令に基づき東京高商の教育を引き継ぐ附属商学専門部(及び附属商業教員養成所)が設置された。この3科体制は戦後の新制一橋大学の成立まで続いた。しかし、東京高商では直線的に配置されていた予科-本科-専攻部という課程が、予科-大学及び専門部-大学という複線的配置となって、職業教育と学問研究が別制度となり、従来からの教育理念をめぐる問題が顕在化し、大学教育の充実を図り職業教育を分離するという専門部問題を底流にはらんでいた。

 1923(大正12)年5月に、佐野善作学長から専門部廃止案が示された。これに対して専門部学生が反対運動を起こしたが、渋沢や如水会幹部らの尽力によって専門部の存続が決定した。1927(昭和2)年には専門部学生による独立期成委員会が組織され、1929(昭和4)年には大学当局・如水会・学生は各方面で専門部独立のため運動したが、政府の財政緊縮政策のため実現することはなかった。

 関東大震災、昭和金融恐慌などの影響で、昭和に入ると日本経済は疲弊し、いっそうの財政緊縮策として、1931(昭和6)年に予科と専門部・養成所廃止が企図された。これに抗議して発生したのが籠城事件である。10月2日、3科連合教授会は2科の廃止案に「絶対反対」を決議し、翌3日、如水会理事長と専門部主事ら3教授が渋沢邸を訪問し応援を求めた。病身の渋沢は、自身にかわって高商卒業生である中島久万吉に、政府当局その他の各要路に対する阻止の運動を依頼した。3科の学生は神田一ツ橋の旧校舎に集結し籠城を決行。学生・教員・卒業生ら大学をあげての猛反対に、16日文部省は予科及び専門部の存続を正式に決定した。こうして3科体制は戦後の新制一橋大学発足まで温存されることになったが、その後も1935(昭和10)年の白票事件など、商業教育・職業教育と大学教育をめぐる対立・相克がたびたび現れた。

 籠城事件決着から僅か40日後の11月11日、渋沢は逝去した。満91歳であった。入学式、卒業式に列席し、厳しくも優しく本学を見守り、幾たびもの存亡の危機を乗り越えての発展を支えたかけがえのない大恩人の死を、全一橋人が惜しんだ。


本學創立五十年記念式典(三枚ノ内其一)
工藤写真館撮影, 1925(大正14)年9月22日
【請求記号 Az:12】

東京商科大学創立50周年記念式

創立50周年記念式に寄せる祝辞
『東京商科大學創立五十周年記念講演集』附同記念式記事22-25頁,東京商科大學, 1925年
【請求記号 Az:23】

東京商科大学創立50年記念式に寄せる渋沢子爵祝辞

 1925(大正14)年9月に挙行された創立五十周年式典に渋沢は病を押して出席し、「商科大学として商業教育の最高学府に至れるは真に欣快の至りなり」「学成りて後実業界に活動せらるる諸士は飽くまで道徳経済合一の主義を拡張し実業界に生ずる随時の濁流を清められん」と祝辞を述べた。
(嫡孫の渋沢敬三が祝辞を代読)

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籠城事件を報じる東京朝日新聞
『東京朝日新聞縮刷版 第148号(昭和6年10月号)』昭和6年10月6日夕刊2面,東京朝日新聞発行所, [1931年]
【請求記号 ZZ:5】

籠城事件を報じる東京朝日新聞

「事件に対する渋沢子爵の意見が明らかになったことは、その後の如水会の運動に大きな影響を与え、… こぞって反対運動に邁進することのできる絶大な精神的背景となった」(依光良馨著『辛酉籠城事件史』辛酉籠城事件記念事業実行委員会, 1991)

 渋沢家には、教授会決議や如水会、学生らからの支援請願書などが残されている。


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