令和4年度企画展示「棭斎EKISAI ―実事求是を追究した江戸の学者 : 梅谷文庫を中心に」10


賀茂真淵の江戸版『冠辞考(かんじこう)』-梅谷文庫より-

江戸版『冠辞考』

 『冠辞考』は、江戸時代中期の枕詞の辞書。10巻。賀茂真淵著。宝暦7(1757)年刊。『古事記』『日本書記』『万葉集』に使われる枕詞326語を挙げ、五十音順に並べてその意義・出典・解説をつけたもの。解釈を付けた辞典。
 『冠辞考』の版本は、江戸版と上方版とに大別される。今回紹介するのは、真淵の生前に出版された諸版である。
 江戸版は、真淵61歳の宝暦8(1758)年3月に、江戸の書物屋仲間の行事割印(出版許可)をうけ、初版刊行後も、真淵の意志により、たびたび改訂された本である。通説では、改訂は明和2(1765)年と明和4(1767)年に行われたとされてきたが、新たに明和6(1769)年夏にも改訂が行われていたことが明らかになった。また、明和4(1767)年11月18日付宣長宛真淵書簡に、「冠辞考に不宣事有之それも当年両度に大分改候而判も為直候」とあり、じつはこの年、2度にわたって改訂が行われていることが判明する。したがって『冠辞考』の内容に関する改訂は少なくとも4度行われていることになる。
 なお、本学所蔵の梅谷文庫には、賀茂真淵の江戸版『冠辞考』が出版前の献上本からその後の修訂本もあわせて5種類すべてがそろっている。

〇賀茂真淵<元禄10(1697)年~明和6(1769)年>
江戸時代中期の国学者、歌人。遠江(とおとうみ)の人。賀茂神社の三男として生まれた。享保18(1733)年、荷田春満(かだのあずままろ)の門に入り、師の没後、江戸に出て『万葉集』の「ますらをぶり」を説いた万葉研究、国学の樹立、唱導に努めた。

〇本居宣長<享保15(1730)年~享和元(1801)年>
江戸時代後期の国学者、歌人。国学を学問として完成させた。伊勢松坂生。23歳のときに上京して医学を学んだ。このとき京都で契沖(けいちゅう)の古典研究の本を読んで国学を志し、11年後(34歳)に伊勢松坂で敬慕する国学者賀茂真淵(67歳)に会うことができた。宣長は「もののあはれ」という日本固有の情緒こそ文学の本質であると提唱した。


賀茂真淵 [著]『冠辞考』,  [出版者不明], [1757年]
【Umetani/C:53:1~10】

江戸版『冠辞考かんじこう
初版~6版までの5種類

 初版には「特製本」と「並製本」があり、「特製本」の表紙は、香色の料紙に墨流しの技法で薄墨・薄藍2色の流紋を染め付け、さらに金泥で補筆。左肩に書題簽、金紙に、真淵の直筆で「冠辞考 あいうゑ遠(~やいゆえよ/王ゐ宇ゑ於)」とある。綴じ糸は絹製。「田藩文庫」の印記があり、田安家旧蔵本と知られる。無刊記(奥付のない本)。
 「並製本」の表紙は、薄縹(うすはなだ)(いろ)、銀泥で花菱と四つ花菱を縦横交互に配して摺り付け、左肩に摺題簽、白地に「冠辞考 あいうゑ遠(~やいゆえよ/王ゐ宇ゑ於)」とある。押捺による修正あり。
 「再版」の表紙は、薄縹色に植物文様を白色で摺り付けたものに替わっている。初版と同様、無刊記である。
 以下、版を重ねるごとに表紙が変化していく。

初版 特製本
初版 並製本
再版
5版
6版

江戸版『冠辞考(かんじこう)
5版Ⅰ類と5版Ⅱ類

矢印の「神代文字」が刻されているか否かの違いのみ

5版I類
5版II類

江戸版『冠辞考(かんじこう)
初版と再版

矢印の「あめなる」の下部の割注にある墨で抹消した 箇所が再版では削除されている。

初版
再版(梅谷直筆の再版の付箋)

江戸版『冠辞考(かんじこう)
3版と6版

矢印の「〇ひなハ云々」の部分が学説の変化によって 修正されている。

3版
6版

「松坂の一夜(ひとよ)」の図
深澤 清(1905-1959) 油彩画
昭和31年8月27日 牧戸正平 奉納
本居宣長ノ宮 所蔵

 京都から帰京した頃に宣長は、借覧した『冠辞考』で初めて賀茂真淵の学問に触れ、その偉大さを知る。
 戦前の『尋常小学国語読本』に採録されていた「松坂の一夜」は、真淵と宣長、二人の国学の巨人の劇的な出会いを描き、国民誰もが知る物語だった。真淵に私淑していた宣長は、真淵が関西方面に旅をしていることを知って、松坂で宿願の対面を遂げた。真淵の著書『冠辞考』を携えて面会にきた若い宣長(34歳)は、松坂の新上屋しんじょうや(旅館)で、大先輩賀茂真淵(67歳)から学問の志を受け継ぐ。以後、江戸の真淵と松坂の宣長は頻繁に書簡の遣り取りを続け、真淵の薫陶を受けた宣長は、やがて『古事記伝』を著し、国学の大成者として敬仰される存在となる。

 宣長学と斎学の違い

 斎は2度目の上方旅行の帰路、松坂鈴屋(すずのや)に本居宣長を訪ねている。この時、宣長は68歳で『古事記伝』の完成目前であった。しかし、この鈴屋訪問は、賀茂真淵と宣長の「松坂の一夜」のようにはならなかった。宣長の行く道と棭斎が求めた道は、あまりにも異なっていた。梅谷は著書『狩谷棭斎』のなかで、「『古事記伝』は、上代人が、上代社会の成り立ち、言いかえれば、上代社会の形成原理をどのように意識していたか、上代人の意識構造「古道」を総合的に解明することを目的として著わされたものである。「(こころ)(こと)(ことば)とは、みな相称(あひかな)へる物」という認識を根本として、宣長が自己の研究を組織しているのも、上代人の「こころ」の原理を解明することを目的としていたからである。これに対して、当時の棭斎は律令時代の日本の制度の解明に取り組んでいた。内面の原理ではなく、外面の原理の究明を目的として、自己の研究を組織しようとしていたのである。」と宣長学と棭斎学の違いを明らかにしている。

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