令和4年度企画展示「棭斎EKISAI ―実事求是を追究した江戸の学者 : 梅谷文庫を中心に」2

棭斎とその文事1 校合(きょうごう)・校勘・考証による原型の復元

 棭斎の学問における特徴のひとつは、原典復元のために徹底した本文批判(諸本の本文を比較研究して、正しい本文を定めること)を行ったことであった。
 あらゆる諸本や関連資料を比較しながら校訂を行い、その妥当性を検証していくというその作業において徹底されたのは、客観的な事実のみを根拠とするということである。原典を復元するためのそのような手法と厳しい態度は、残された多くの資料に見ることができる。

狩谷棭斎著『箋注倭名類聚抄』印刷局,1883年
【Umetani/B:112】

 その最も大きな業績というべきものは、『箋注倭名類聚抄(せんちゅうわみょうるいじゅうしょう)』(『和名類聚抄箋注』とも)である。平安時代中期の学者源(したごう)が編纂した辞書『和名類聚抄』の詳細な注で、その凡例たる「校例提要」(文政10(1827)年)には、本文批判の目的が「今、之れを挍する所は、専ら伝写の誤りを正して源君の旧に復するに在り」(原漢文、梅谷訳)と述べられている。順が引用した書物について、その本文の妥当性を検証するという手法によって、『和名類聚抄』を源順の編纂した当時の状態に戻すことを目的とするとされる。ただし、そこで問題にするのは、ただ伝写の過程で生じた誤りを正すことのみである、と明言しており、残された資料のみを根拠として客観的に原典復元を試みようとする強い意志があらわれている。

 純粋な原典の復旧作業として客観的視点による本文批判を行うという手法は、そのほか多くの著作にも見ることができる。


狩谷望之學日本國善惡現報靈異記攷證』[出版者不明] , [江戸後期]
【Umetani/D:132】

 『日本國善惡現報靈異記攷證(にほんこくぜんあくげんぽうりょういきこうしょう)』(文政3(1820)年頃。『日本霊異記攷証』とも)では、同じ説話を収載する『扶桑略記』との比較によって『日本霊異記』本文の復元を行っている。
 その卷上・第二「狐を妻として子を生ましめし縁」の説話は、欽明天皇の時代を舞台に、女に化けた狐と結婚した男の話であり、歴史書である『扶桑(ふそう)略記(りゃっき)』欽明天皇・卅二年条にも収載される著名な説話である。それゆえ、その注には『扶桑略記』が多く引かれており、『日本霊異記』の本文を復元するには、『扶桑略記』との比較が不可欠であった。 このように、『日本霊異記』の本文批判や考証を行う過程で、おのずと関連資料である『扶桑略記』に対する理解も深めていくこととなり、その成果は『扶桑略記校譌(ふそうりゃっきこうか)』として著されることになるのである。

狩谷棭斎著『扶桑略記校譌』狩谷棭斎 (自筆), [江戸後期]
【Umetani/F:78】

 『扶桑略記校譌』は、棭斎が『扶桑略記』の本文について考証したもの。
 『日本霊異記』卷上・第二「狐を妻として子を生ましめし縁」と同じ説話を収載する、欽明天皇・卅二年条の校異を示す部分には、『日本國善惡現報靈異記攷證』の「追犬」に対応する箇所として「退吠」に言及がある。
 棭斎が「原」とする真福寺(しんぷくじ)本『扶桑略記』では「退吹」とするが、それを棭斎は「誤字ナルベシ」とする。その一方で、本文の「吹」を「吠」に改めることについては、「据(※根拠)アリヤオボツカナシ」としており、結果「据ナクハ(しばら)ク舊ノマヽニテアルベキナリ」としている。不審があったとしても、根拠がなければ本文を改めるべきではない、という棭斎の姿勢は、たった一文字に対しても徹底されたものであった。
 なお本書は棭斎自筆稿本であり、渋江抽斎・安田文庫旧蔵。

『扶桑略記』(經濟雜誌社編『國史大系 第6巻』)經濟雜誌社,1897年
【QAe:14:6】

欽明天皇・卅二年
該当箇所

 『日本國善惡現報靈異記攷證』卷上・第二「狐を妻として子を生ましめし縁」と同じ説話を載せる、欽明天皇・卅二年の該当箇所末尾には、「已上(いじょう)靈異記」と出典が示されている。
 また、「退吠」に対する頭注には、『扶桑略記校譌』において棭斎が「原」とする真福寺本は「退吹」としている旨が注されている。


衣笠内大臣 [ほか] 作『新撰六帖題和歌』 中野五郎左衛門,萬治3 (1660)年
【Umetani/D:141】

第二帖・をか(岡)※冒頭の5首
奥書
該当箇所

 以上に見てきたような、本文復元のための棭斎の冷静な視線は、自身の著作に限ったことではない。

 藤原家良・藤原為家・藤原知家・藤原信実・藤原光俊による、寛元2(1243)年ごろ成立した歌集『新撰六帖題和歌』には、計三度に渡って校合を行っており、歌そのものや細かな詞の異同が丹念に書入れられている。棭斎によるカラフルな書入れの所々に見られる「イ」は、異本との校合結果を示す。
 第二帖・をか(岡)では、まず冒頭に「我庵のうはての岡にたちいてゝ都の春をなかめやるかな」の一首が朱で書入れられている。奥書によれば、この朱書は棭斎家蔵の古写本および『夫木和歌抄』との校合結果とされる。第二首「御幸せしふるききたのゝみこし岡哀むかしはさそなこひしき」の歌頭に「イニナシ」と傍書されていること、(きょう)(かく)外の「夫」の朱書は『夫木和歌抄』所収歌であることを示すものと思われることを考えると、棭斎家蔵の古写本には、「御幸せし…」がなく「我庵の…」の歌が存在したのであろう。 奥書などには、文化2(1805)年以降、合計三度に渡って校合を行った旨が記されている。藍・紫・朱の三色の書入れがあるのは、校合の度に墨の色を変えているためであり、和歌という文学作品に対しても変わらぬ態度で繰り返し校合を行っていたことがわかる。なお本書は安田文庫旧蔵。

[狩谷棭斎著]『文教温故糾繆』[狩谷棭斎 (自筆)],[江戸後期]
【Umetani/D:142】

 『文教温故糾繆(ぶんきょうおんこきゅうびゅう)』は、日本の学問・教育制度の起源や沿革を概説した山崎美成(よししげ)著『文教温故』(文政11(1828)年刊)の誤謬を正したもの。『文教温故』本文を該当する丁数と共に一字下げで引用し、それに続いて自説を述べる。
 たとえば十七条憲法について、聖徳太子の作だとする山崎説に対し、棭斎は根拠を示しつつ、『日本書紀』作者の創作であるという説を唱える。十七条憲法が『日本書紀』作者の創作であるか否かについては、現在でも決着を見ないが、その議論はこの棭斎の指摘によって始まったとされる。本文批判によって正しい原典を追い求めたように、根拠の示されない学説に対しても、客観的な証拠によって誤りを正そうとする姿を見ることができる。
 なお、本書は棭斎自筆稿本であり、伊澤蘭軒・安田文庫旧蔵。


棭斎とその文事1 棭斎とその文事2 棭斎とその文事3 能書家としての一面 棭斎と江戸の学者たち1 棭斎と江戸の学者たち2

校勘学的手法の実践1 校勘学的手法の実践2 賀茂真淵の江戸版『冠辞考』-梅谷文庫より-