令和4年度企画展示「棭斎EKISAI ―実事求是を追究した江戸の学者 : 梅谷文庫を中心に」7

棭斎と江戸の学者たち2

伊澤信階 [写]『考経』, [書写地不明] ,  [1789年]
【Umetani/Ybi:12】

『孝経』(こうきょうは、中国の経書のひとつ。孝道を説いた書。一巻18章。撰者不詳。戦国末に成立したとされる。日本では古くから『孝経』が重視された。養老令には学生が『論語』と『孝経』を学ぶべきことを述べている。
 本学所蔵の『孝経』は、江戸時代後期に蘭軒の父(のぶ)(しな)が書き写した古文(こぶん)(こう)(きょう)(こぶんこうきょうで、蘭軒が所蔵していたことを示す蔵書印「伊澤氏酌源堂圖書記」がある。
 高橋家の家督を継ぎ与惣(よそう)()を襲名した寛政2(1790)年、斎は上方へ旅行し京都の書肆(しょし)竹苞楼(ちくほうろう)銭屋惣四郎を訪問している。この最初の上方訪問の時に永仁五年写『古文孝経』を披見していることが『好古目録』に残された「寛政二年京師書肆竹苞楼にて(みる)」という書入によって判明している。

 

『孝経』に典拠をもつ言葉

開宗明義章第一より

 冒頭の開宗明義章の「身体髪膚、受之父母。不敢毀傷、孝之始也。立身行道、揚名於後世、以顕父母、孝之終也。」はとくに有名であり、前半は『(せん)()(もん)』(書道の学習や文字を覚えるために作られた千字から構成された韻文)の「蓋此身髪、四大五常。恭惟鞠養、豈敢毀傷。」に、後半は「身を立て名を揚げ」という「仰げば尊し」の文句に使われている。

三才章第八より

 また、「博愛」は『孝経』を出典とする言葉である。ただし、キリスト教社会にあるような、すべての者を平等に愛する普遍的な愛とは意味が異なり、儒教的には、まず自分に最も近い親を愛することに始まり、近き者から遠き者へと、しだいに自然と愛を広げてゆくことをいう。その愛は無限ではなく有限である。

[玄宗注] ; 狩谷望之 [校]『御注考経』,  狩谷氏求古樓, [江戸後期]
【Umetani/Ybi:10】

 『御注(ぎょちゅう)(こう)(きょう)(』は、唐の玄宗によって撰述された『孝経』の注釈書。全1巻。
 江戸時代には『御注孝経』が重んじられるようになり、『孝経』の講義・解釈はこれに従うようになり、棭斎も玄宗注をとるべきと考え、文政9(1826)年、北宋刊『御注孝経』を模刻して、広く学者の利用に供している。
 棭斎が所蔵していたことを示す蔵書印「狩谷望之審定宋本」も模刻されている。 のちに、伊澤蘭軒は、伊澤家で用いるのは『古文孝経』から『御注孝経』に改めた。

伊藤仁斎『語孟字義』,出版者不明,[1705年]
Umetani/B:102:下

 『()(もう)字義(じぎ)』は、巻之上,下の2巻。『論語』と『孟子』の用語について自説を説くことを通して、自らの学問を構築した書。天道、天命、道、理、徳、心、性、情、誠など30ヶ条から成る。本学は下巻のみ所蔵している。
 棭斎の親友松崎慊堂こうどうが所蔵していたことを示す蔵書印「翺仙」と「辛卯明復」がある。棭斎と慊堂の交流は30年に及んだという。

松崎

 松崎堂(1771~1844)は、江戸時代後期の儒学者。名は密、字は退蔵。昌平黌に学ぶ。
 市野迷庵を介して棭斎を知り、以後その学問に私淑した。
 慊堂は、自分よりも先に亡くなった二人の親友のために『迷庵市野先生碣銘』と『棭斎狩谷先生墓碣銘』の碑文を遺している。
 慊堂の日記である『慊堂日暦』文政13(1830)年6月7日の条には「余(慊堂)の翁(棭斎)における、翁の有するところ、余、必ずしも有せず、翁の無しとするところ、必ずしも無しとせず、有無通共し、(/rp>まこと)に心に逆らふことなきなり」と記され、水魚の交わりというべき二人の関係をうかがわせる。
 『慊堂日暦』天保6(1835)年5月29日の条には、棭斎の病状について「体頗る痩せたけれども神は平生のごとし」と記す。その後も慊堂は度々見舞うが、その甲斐むなしく閏7月4日の夜に棭斎は永眠した。その前日、最後の別れに際して慊堂は「晩に向かい手を握り別る、暗に泣くこと三声、余もまた断腸」と悲痛な想いを綴っている。
 墓碑の文章は、棭斎の長男懐之(/rp>ちかゆき)の要請をうけて慊堂が亡き親友棭斎のために草したものであり、その生涯、学業や人となりを余すところなく伝えている。

画像:松崎慊堂像稿
 松崎慊堂像稿(晩年)
渡辺崋山筆



  

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