令和4年度企画展示「棭斎EKISAI ―実事求是を追究した江戸の学者 : 梅谷文庫を中心に」9

校勘学的手法の実践2

 次に、棭斎の後世への影響についても紹介する。棭斎の名前は決して万人の知るところではないかもしれない。しかし、真摯に事実だけを追い求めた棭斎の学問的姿勢は、当時の学友のみならず、後世の研究者をも魅了した。校訂とは「古書などの本文を、諸本と比べ合わせて正すこと」だが、当時の学者の中には、「単純に本文の誤字・脱字・衍字*を訂正すること」だと認識している者もいた。しかし梅谷が言うには、棭斎は「校訂の目的は原型の復元」であり、訂正は「伝写の間に生じた本文の変化に限られるべき」であると考えていた。そして原作者の誤りまで訂正することは「歴史的事実を抹消する行為」であるとし、一見明瞭な誤字に対しても、原作者の誤りか、あるいは伝写の過程での変化か、あらゆる証拠を積み上げて検証している。こうした研究手法をもとに、棭斎が心血を注いで研究したと言われる『上宮聖徳法王帝説証注』に対する後の校訂者や研究者からの評価は非常に高い。 *誤って入った不要な文字


塙保己一集 羣書類從本『上宮聖徳法皇帝説』, [出版者不明],[出版年不明]
【Umetani/F:81】

 『羣書類從』は、江戸時代後期に塙保己一によって編まれた古文献の叢書で、その第64巻に『上宮聖徳法皇帝説』が校訂・翻刻されている。『上宮聖徳法皇帝説』は、聖徳太子の事績を伝える最古の伝記資料で、その資料的価値を強く認識した棭斎は、この研究に心血を注ぎ、『上宮聖徳法皇帝説証注』を書き上げた。梅谷文庫本『羣書類從』第64巻の『上宮聖徳法皇帝説』には、棭斎の識語があり、考察の手法の一端を知ることができる。

狩谷望之注上宮聖徳法皇帝説證注』, [書写者不明], [書写年不明]
【Umetani/F:61】

 書写者は不明だが、「明治一八年七月古記古文書等取調ノ際雑経ノ内ヨリ探リ得タリ」とあり、用紙の柱に「奈良県」と印刷されているので、役所関係の人物によって書き写されたものではないかと推測される。1910年(明治43年)に活字本として出版される以前は、この本のように書写によって伝えられてきた結果、多くの写本が存在している。

狩谷棭斎證注 ; 長田権次郎校訂『上宮聖徳法王帝説』, 裳華房 , 1910年
【Umetani/F:18】

 棭斎の證注は、成立後国学者や考証学者らの伝写によって受け継がれてきたが、長田権次郎により、1910年(明治43年)に初めて、活字本として出版されている。巻末には「狩谷棭斎著す所の證注、考据頗る詳確。」とあり、棭斎の證注が高く評価されていたことがわかる。

家永三郎『上宮聖徳法王帝説の研究』, 三省堂,1970年
【2800:3060】

 上宮聖徳法王帝説の研究は、棭斎に始まり、家永三郎の『上宮聖徳法王帝説の研究』によって、ほぼ完成されたと言われている。家永は、「棭斎の證注は何等の先行研究を俟つことなく、一代の努力によりて権威ある注釈を完成し、爾後その地位を凌駕するものの出現を困難ならしめたる点、恰も宣長の古事記傳の古事記に於けるが如き地位を有す」と評している。


藤原忠平等奉勅撰『延喜式』, 出雲寺,[1723年]
【Umetani/G:86】

 『延喜式』は、律令の施行細則を記した平安中期の法典である。後表紙見返しに「得一本校合了寛政甲寅年五月二六日夜 真末」と「文政十一年九月八日一校」の二つの識語があり、1794(寛政6)年に一度校合し、1828(文政11)年に再度校合したことがわかる。

伊勢貞丈述『諸鞍日記考註』, [書写者不明],[江戸後期]
【Umetani/E:39】

 『諸安日記』は、公家の馬具に関する記述を中心とした有職故実の書で、江戸時代後期に伊勢貞丈によって書写され、『諸鞍日記考註』と題された。巻末に「若ノ字棭斎自筆校本ニナシ」と「此書 昭和二十九年甲午七月 於無窮会神習文庫 得比対棭斎自筆校本 梅谷文夫」の2つの書入れがあり、梅谷が本書と棭斎自筆校本を詳細に見比べたであろう痕跡を見ることができる。


棭斎とその文事1 棭斎とその文事2 棭斎とその文事3 能書家としての一面 棭斎と江戸の学者たち1 棭斎と江戸の学者たち2

校勘学的手法の実践1 校勘学的手法の実践2 賀茂真淵の江戸版『冠辞考』-梅谷文庫より-