令和4年度企画展示「棭斎EKISAI ―実事求是を追究した江戸の学者 : 梅谷文庫を中心に」3

棭斎とその文事2 文物に関する研究

 棭斎の学問の特徴をもうひとつあげるならば、その対象が文献資料にとどまらないことであるといえる。
 古銭や金石文といった、歴史的文物を"蒐集の対象"にとどめず、学問の対象として高めていった点に棭斎の功績がある。ここでも棭斎は、客観的な事実をもとに考察することに徹していた。


狩谷懐之 [著]『新校正孔方圖鑑 (正刻本)』 英屋平吉 [ほか],文化12 (1815) 例言 【Umetani/G:90】
『新校正孔方圖鑑 (贋刻本)』  [出版者不明],文化13(1816)後序 【Umetani/G:8】

正刻本
贋刻本

 『新校正孔方圖鑑』は、古銭に関する先行諸書の誤りを校正したもの。正刻本例言には「文化十二年嘉平月二日」(1815年12月)という日付と共に棭斎の息子懐之(ちかゆき)の名が記されているが、実質は棭斎による著作であるとされる。なお正刻本には、ひょうたん型の「棭斎」印および「求古楼」印がある。
 正刻本末尾の、近刊広告である「嗣出書物」の『新校正珍貨圖鑑』に「余家ノ稿本ニ依テ贋本ヲ作ルモノアリ」とあるように、棭斎の指導のもと、懐之に作らせた古銭の著は、稿本が無断で版行され度々贋刻本が作られた。正刻本『新校正孔方圖鑑』に先んじて刊行された贋刻本『新校正孔方圖鑑』には、贋刻本を製作した張本人である大村成富による後序が付されている。そこには「狩谷棭斎主人古銭ヲ愛スルコト他ニ異ニシテ鑑賞最勝レタリ」とあって、棭斎の卓越した見識を称賛はするが、棭斎父子に贋刻の行為は許されるものではなかった。

狩谷望之纂『古京遺文』[書写者不明], [江戸後期]
【Umetani/E:32】

 『古京遺文』は、当時学問的に重視されていなかった金石文(金属や石材に刻まれた文字)を集めて考証したもの。棭斎の実地調査の結果を反映して度々の増補・改訂が行われおり、冒頭「観世音菩薩像記」も増補された記述のひとつ。そこには、碑文の内容に関する注のあと、「客歳西遊(昨年の西遊)」でこの碑文に出会う機会を得たと述べられている。
 ここにある「客歳西遊」とは、文政2(1819)年4月上旬に親友の市野迷庵・松崎慊堂(こうどう)とともに法隆寺を訪れた際のことといわれる。棭斎が関西を訪れたのはこれが三度目で、道中でも積極的に多くの古典籍を披閲し、ときにはかなり苦心してその貴重な機会を得たようである。“自分の目で直接確かめること”を、「亦何の幸なるや」(原漢文)と詠嘆する姿には、実事求是の学者としての素直な喜びをうかがうことができる。


狩谷望之著『本朝度量權衡考』[書写者不明],[江戸期]
【Umetani/G:41】

 以上のような文物に関する知見を生かした成果に、『本朝度考』『本朝量考』『本朝權衡考』(ほんちょうけんこうこう)から成る『本朝度量權衡考』がある。
 本書は古代の度量衡について考証したもので、梅谷文庫所蔵本は「阿波國文庫」(徳島藩蜂須賀家)の蔵書印を持つ。
 この中で棭斎は、歴史的遺物を実測して文献資料の記述に対する考証を行っている。例えば、古代の重さについて検証した『本朝權衡考』では、『()(てん)』巻九・食貨・錢幣下に「開通元寳錢を鋳す、十錢毎に重さ一兩…毎兩二十四(しゅ)、則ち一錢の重さ二銖以下なり」、『旧唐書(くとうじょ)』巻四十八・志二十八・食貨上に「開元通寶錢…重さ二銖四(るい)十文を積めば重さ一兩」(いずれも原漢文)とあることを踏まえて、開元通宝を実測して平均を出し、一匁が当時の二銖四絫にあたると結論付け、そこから古代の重さの単位を割り出していく。 蓄積された知識を柔軟に結び付け、その知見を文献資料の批判的研究に生かしたものであり、古銭についてもそれを学問にまで高めた棭斎ならではの研究手法であるといえる。


棭斎とその文事1 棭斎とその文事2 棭斎とその文事3 能書家としての一面 棭斎と江戸の学者たち1 棭斎と江戸の学者たち2

校勘学的手法の実践1 校勘学的手法の実践2 賀茂真淵の江戸版『冠辞考』-梅谷文庫より-