令和4年度企画展示「棭斎EKISAI ―実事求是を追究した江戸の学者 : 梅谷文庫を中心に」5

  

能書家としての一面

 川瀬一馬が「棭齋の手蹟・自筆稿本等がもてはやされる所以は、書風が優れてゐて、然も、比較的殘存するものが少數であるのも其の一因であらうが、要は、其の學識の尋常でなかつた事が根本の理由である」と述べるように、棭斎は学問のみならずその筆跡も高く評価されている。
 梅谷文庫には、安田文庫旧蔵資料をはじめ、棭斎の若書きのものから最晩年のものまで、筆跡の変化を概観できる多様な自筆資料が残されている。


『紋圖』 [狩谷棭斎 (写)],[江戸後期]
【Umetani/F:76】

 挿絵共に棭斎の自筆。書入れのなかに棭斎の最初の名である「眞末(まさやす)」という名が見られるため、20歳以前の筆跡。 本文末には、棭斎の有職故実の師である乾綱正の名も見られる。なお、右下の「青裳堂藏書」印は棭斎の蔵書印。そのほか、松平斉民(なりたみ)・安田文庫旧蔵。

吉田篁墩著『活版經籍考』高橋真末 [写],寛政11(1799)年
【Umetani/A:16】

 本書は、篁墩の校拠学を基盤として棭斎自身の研究手法をかためていくきっかけとなった書物。
 川瀬一馬によれば、寛政6(1794)年を境に、棭斎の書風は屋代弘賢の屋代流の書風へと変化したという。棭斎が本書を書写した寛政11年(棭斎25歳)は、まさに屋代流の書風の時期に相当する。なお、本書は安田文庫旧蔵。

[狩谷棭斎著]『周尺攷』[狩谷棭斎 (自筆)],文政13(1830)年
【Umetani/V:1】

※画像は梅谷文夫『狩谷棭斎年譜』下(青裳堂書店・2006)口絵より

 棭斎56歳の晩年の筆。墨による書入れの一部は他者によるものであると思われる。なお、『周尺攷』という書名は梅谷による。
 棭斎は、中国の周や漢時代の古尺の再現を試みようとするが、拠り所とすべきものは皆疑わしく、「其證とすべき者は、(ひと)り古銭を有するのみ」(原漢文)と述べており、古銭を手掛かりに当時の度量衡を復元するという手法は、『本朝度量権衡攷』とも共通する。


棭斎とその文事1 棭斎とその文事2 棭斎とその文事3 能書家としての一面 棭斎と江戸の学者たち1 棭斎と江戸の学者たち2

校勘学的手法の実践1 校勘学的手法の実践2 賀茂真淵の江戸版『冠辞考』-梅谷文庫より-