令和4年度企画展示「棭斎EKISAI ―実事求是を追究した江戸の学者 : 梅谷文庫を中心に」6

斎と江戸の学者たち1

 文豪森鷗外は史伝小説『伊澤蘭軒』に、享和2(1802)年、秋に入って、棭斎が渡邊東河、伊澤蘭軒、清水泊民、赤尾魚来とともに、墨田川で舟遊びをしたことを明らかにしている。同じく史伝小説『渋江抽斎』では、抽斎と棭斎に古銭癖(こせんへき)(古銭を蒐集し研究する趣味)があったことや、抽斎が師事した市野迷庵と棭斎について、この二人の通称がどちらも三右衛門であったことから、「町人の学者合わせて六右衛門」と称された逸話を紹介している。また、十代前半に棭斎は泉豊洲(ほうしゅう)に儒学を学んだとされ、豊洲塾の同窓には伊澤蘭軒、木村橿(きょう)(えん)、横山渓谷がいた。棭斎と蘭軒はともに豊洲の塾に学んだからこそ、生涯の友と成り得たのである。

 のちに棭斎は市野迷庵、伊澤蘭軒、多紀茝庭(さいてい)、小島宝素、屋代(ひろ)(かた)、渋江抽斎等の蔵書家として聞えた諸家の参加を求め、求古楼、すなわち棭斎宅を会場として、日本で初めてとされる書誌学研究会「求古楼展観」を11回ほど開催している。第1回求古楼展観に棭斎は『孝経』『史記』『漢書』『後漢書』『論語集解』『無垢浄光経相輪陀羅尼』『謝幼槃文集』の7点を出陳した。棭斎の蔵書は2万巻に及んだといわれている。この求古楼展観が礎となり渋江抽斎、森()(えん)らの日本における最初の本格的な漢籍解題目録として知られる『経籍訪古志』に結実していくことになる。

 天保6(1835)年、棭斎は61歳で没する。戒名は常関書院実事求是居士。この戒名は棭斎自身が生前に定めていたといわれている。死してなお「実事求是」を追い求める棭斎の姿勢がみえてくる。墓所は豊島区巣鴨法福寺で、死後建立された墓碑『棭斎狩谷先生墓碣銘』の撰文は棭斎の親友で儒学者の松崎(こう)(どう)、書は能書家小島成斎、(てん)(がく)は考証家で医師の渋江抽斎、刻字は石工広瀬群鶴。棭斎の多方面に渡る親交がうかがえる。『棭斎狩谷先生墓碣銘』は早稲田大学津八一記念博物館に寄贈されている。

墓碑(法福寺内にて田村南海子氏撮影)
早稲田大学會津八一記念博物館所蔵

西尾市立図書館岩瀬文庫本『求古楼展観書目第一』梅谷書写本 

 棭斎は市野迷庵、伊澤蘭軒、多紀茝庭(さいてい)、小島宝素(ほうそ)、屋代(ひろ)(かた)、渋江抽斎等と日本で初めてとされる書誌学研究会「(きゅう)古楼(ころう)展観(てんかん)」を11回ほど開催している。梅谷が、合計11回分の展観の目録と解題が記録された西尾市立図書館岩瀬文庫所蔵の『求古楼展観書目第一』を書写したもの。
 文化12(1815)年5月7日に開催された第1回求古楼展観に棭斎が出陳した書籍は『孝経』『史記』『漢書』『後漢書』『論語集解』『無垢浄光経相輪陀羅尼』『謝幼槃文集』の7点である。棭斎の名「望之」とある。

 


棭斎とその文事1 棭斎とその文事2 棭斎とその文事3 能書家としての一面 棭斎と江戸の学者たち1 棭斎と江戸の学者たち2

校勘学的手法の実践1 校勘学的手法の実践2 賀茂真淵の江戸版『冠辞考』-梅谷文庫より-