令和4年度企画展示「棭斎EKISAI ―実事求是を追究した江戸の学者 : 梅谷文庫を中心に」8

校勘学的手法の実践1

 考証学とは、個別の事象について、客観的な根拠となる文献資料によってのみ、事実を明らかにしていこうとする学問的態度のことである。中国清時代に学界の主流となったこの学問的手法は、日本では江戸時代中後期に受容され、全盛を極めた。中でも棭斎の研究姿勢は、鑑別(資料批判)と挍勘(本文批判)、考証(内容批判)を柱とする挍勘学に基づいており、現代の研究者から「爾後その地位を凌駕するものの出現を困難ならしめる」と評されるほど、緻密なものであった。本章ではそんな棭斎の研究姿勢が垣間見える 1 例を紹介する。


狩谷望之倭名類聚抄考證』, [書写者不明],[江戸後期]
【Umetani/B:103】      

 『倭名類聚抄箋注』に、「河皷」という言葉が出てくる。「河皷」とは、犬飼い星や彦星と呼ばれることもあるわし座の一等星アルタイルのことであるが、この「河皷」の「河」の文字について、『倭名類聚抄』諸本の中には、「何」としている写本も存在する。そこで、本来「河」が正しいのか「何」が正しいのかという問題が生じてくる。このような「河」と「何」のような違いを異文と言う。この異文の処理に関して、棭斎は中国の古典資料である『玉燭宝典』、『文選』、『史記』、『白孔六帖』、『後漢書』などでは、「河皷」としていることを根拠として、本来「河皷」は「河」に作るのが一般的であると結論づけている。わずか一文字の異文を検証するために、稿本や写本を比較するだけに留まらず、漢籍の本文や注にまで当たっているのである。本展示では、その気の遠くなるような地道な作業を追体験してもらえるよう、『倭名類聚抄箋注』とともに、棭斎が証明の根拠とした漢籍の当該箇所を展示する。

杜台卿『玉燭寶典』, 芸文印書館 , 1965年
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 『玉燭寶典』は、6世紀に杜台卿によってまとめられた、中国の年中政令行事に関する記録である。棭斎は『倭名類聚抄考證』において、この本文の中に「今案、尓雅、河皷謂之牽牛」と記載があることを、「河」の字を採用する根拠として挙げている。

『史記. 漢書. 後漢書』, 開明書店,[1935年]
【Yca:30:1】

『史記』
『後漢書』

 『史記』は、紀元前1世紀に司馬遷によって書かれた、天子黄帝~武帝までの中国の治世を描いた歴史書である。棭斎は『倭名類聚抄考證』において、この本文の中に「牽牛爲犠牲、其北河皷、河皷大星上將、左右左右將、」と記載があることを、「河」の字を採用する根拠として挙げている。

 『後漢書』は、5世紀に范曄・司馬彪らによってまとめられた、中国後漢時代を記した歴史書である。棭斎は『倭名類聚抄考證』において、この本文の中に「牽牛北爲河皷」と記載があることを、「河」の字を採用する根拠として挙げている。

白居易撰 ; 孔伝続撰『白孔六帖』, 新興書局,1976年
【Umetani/YAc:9】

蕭統撰 ; 李善等註 ; 長澤規矩也編『和刻本文選』, 古典研究会, 1974-1975年
【Umetani/Yea:1】

『白孔六帖』
『文選』

 『白孔六帖』は、9世紀に白居易によってまとめられた、中国の故事成語の類書である。棭斎は『倭名類聚抄考證』において、この本文の中に「河皷 爾雅曰、河皷謂之牽牛」と記載があることを、「河」の字を採用する根拠として挙げている。

 『文選』は、6世紀に蕭統によってまとめられた、中国の詩文集である。棭斎は『倭名類聚抄考證』において、この本文の中に「爾雅曰、河皷謂之牽牛、今荊人呼牽牛星為檐者荷也」と記載があることを、「河」の字を採用する根拠として挙げている。

 

  


棭斎とその文事1 棭斎とその文事2 棭斎とその文事3 能書家としての一面 棭斎と江戸の学者たち1 棭斎と江戸の学者たち2

校勘学的手法の実践1 校勘学的手法の実践2 賀茂真淵の江戸版『冠辞考』-梅谷文庫より-