令和4年度企画展示「棭斎EKISAI ―実事求是を追究した江戸の学者 : 梅谷文庫を中心に」4

棭斎とその文事3 若年期の学問

 棭斎が中年以降、以上のような卓越した業績を上げた背景には、若年期に自己の研究の基礎となるべき諸学を修めたことにあるといわれている。十代前半から有職故実(ゆうそくこじつ)・儒学・国学にかかる書物の素読や書写を始めており、師事していた乾綱正の所蔵本も多く書写している。二十歳以降には、学友たちと六国史の会読を行っており、メンバーが対等に意見を述べることができる場で議論し、知見を深めていった。


『官職浮説惑問』壺井義知著, 高橋眞末写. 寛政2(1790)年書写
【Umetani/G:91:正】

 『官職浮説惑問』は、江戸時代の有職故実家壺井義知による、法制を論じた研究書である。
 棭斎は10代のころ国史の素読を乾綱正に師事しており、10代後半に綱正所蔵の有職故実に関する諸書を多く書写した。本書は棭斎16歳(数え、以下同じ)時の書写である。巻末に「右源義知所述官職浮説或問兩巻者乾綱正先生/所藏之書也予乞請燈下馳短筆耻後覧而已/上章閹茂春孟春既望 眞末記」と棭斎の識語が記され、さらに「寛政二年庚戌 棭斎前名高橋眞末也」という朱筆がある。狩谷棭斎、反町茂雄旧蔵。


『衝口發』(しょうこうはつ)『鉗狂人』(けんきょうじん)

衝口發
藤原貞幹著, 書写者不明. 寛政8(1796)年校了
鉗狂人
本居宣長著, 書写者不明. 江戸後期書写

 藤貞幹が著した『衝口發』は、神代の年数への疑問など、日本古代史の諸問題を論考したもの。初めに紀元の600年延長を説き、以下、皇統・言語など15項にわたり、日本古代史の諸般にふれてすべての起源を韓に求めるべきであると主張する。
 これに対する本居宣長の反論が『鉗狂人』である。中国、朝鮮の史書を無批判に受け入れ、また、存在しない資料を捏造して論拠とし、日本上代の史実・風俗を論じているとして、古道観に立脚した反論を35箇条にわたって展開する。
 棭斎旧蔵の『衝口發』と『鉗狂人』は一組として伝えられており、『衝口發』には寛政8(1796)年4月(棭斎22歳)に校読を終了した旨の奥書がある。装丁が同じであることから、川瀬一馬は『鉗狂人』も同時期に入手し校読したと考えられると述べている。
 梅谷は、棭斎の研究姿勢がこのころから厳格になっていくことを示して、「棭斎が両書を架蔵したのは、日本の制度を歴史的に考究することを志したことと無関係であるまい。(中略)厳密な資料批判・本文批判を経た証拠にもとづいて、着実に個々の事実を明らかにしていく道を選ぶべきであることを覚悟したのではないか」と推測している。


『活版經籍考』篁墩吉纂録, 高橋眞末写. 寛政11(1799)年書写
【Umetani/A:16】

 吉田篁墩は清朝考証学の成果にいちはやく注目して鑑別・校勘を専門とする考拠学を提唱し、漢籍の古写本・古版本の蒐集とその研究に努めて一家を成した学者である。
 『活版經籍考』は本邦学者による日本で刊行された東洋活字版の歴史を記した最初の著作で、篁墩の創見として讃えられるべきものであるが、今日から見れば訂正が必要な点も多い。

望之按する
に此韓柳
集は兪良
甫といひし
人刻して
其干支は
丁卯とあり
應永七年
より遡り考
えれは嘉慶
元年にあた
れり藤貞
幹是を寛
永四年かと
いへるも誤れ
り此本整
板にして活
字にあらす
是を以て活
字本の濫
觴といふは非
なり別に
活字の五
百家注韓
文ありこゝ
にいへる古板
本をもて活
字せるもの
なり古板本
と混すへか
らす
濫觴(らんしょう)
  =ものの始
まり

 棭斎は、津軽屋に婿入りし祝言をあげて狩谷望之と改名する前日の寛政11(1799)年12月20日(25歳)に『活版經籍考』の手写を終え、翌年1月に校読を終えている。巻末にまず墨筆で「寛政十一年十二月廿日卒業 高橋真末」と、次に朱筆で「十二年正月校読畢 望之 去年廿一日改名」という棭斎の識語がある。
 鑑別・校勘の意義と方法に関し必ずしも精確とはいい難い面も存在していた篁墩の考拠学を継承し、発展させていったのが棭斎であった。


棭斎とその文事1 棭斎とその文事2 棭斎とその文事3 能書家としての一面 棭斎と江戸の学者たち1 棭斎と江戸の学者たち2

校勘学的手法の実践1 校勘学的手法の実践2 賀茂真淵の江戸版『冠辞考』-梅谷文庫より-