一橋大学附属図書常設展示より

申酉事件・籠城事件



日    程:  2008(平成20)年6月3日(火)〜     
場    所: 一橋大学附属図書館 公開展示室(時計台棟1階)
入場時間: 9:00〜16:00(入場無料)(土・日・祝日は閉室)
(【  】内は、一橋大学附属図書館の請求記号または所在)

■ 展示パンフレット(三大事件)はこちら


かつて一橋には、「三大事件」と呼ばれる出来事がありました。1908年から09年の「申酉(しんゆう)事件」、1931年の「籠城事件」、そして1935年から36年の「白票事件」です。

学園を揺るがし、時には存亡の危機へと追い込んだ三大事件は、教員や学生が学園のあり方を問い直す機会となりました。自由と自治の伝統を尊ぶリベラルな校風は、三大事件を通じて確立したといっても過言ではないかもしれません。

本展示では、一橋の学園史を語る上で欠かすことのできない三大事件のうち、申酉事件と籠城事件の経過と関連資料をご紹介します。
白票事件については、常設展示「杉村廣藏と白票事件」をご覧ください。

>>参考文献・関連リンク


申酉事件

「申酉事件」とは、1908(明治41)年から1909年にかけて生じた、商業大学の設置と東京高等商業学校専攻部の廃止をめぐる一連の事件を指します。1908年が申年、1909年が酉年だったことから、「申酉事件」と呼び習わされています。

商業大学の設置論は、1900(明治33)年7月1日の渋沢栄一(1840〜1931)の談話を端緒とし、ヨーロッパ留学中の高等商業学校教員8名による1901年2月の「商科大学設立ノ必要」をきっかけに高まっていきました。

1907(明治40)年2月23日には「商科大学設置建議案」が衆議院で可決され、3月26日に貴族院を通過します。ところが、東京高等商業学校(以下、東京高商と略記)の専攻部を独立の商業大学とする東京高商の案に対し、文部省は1908年4月、東京帝国大学法科大学内に経済科を開設することを決定しました。翌1909年には、法科大学内に商科を併置し、東京高商専攻部を廃止する案が浮上します。

こうした動きに東京高商側は学生大会を開き、佐野善作(1873〜1952)ら4教授が辞表を提出して抗議の姿勢を示します。しかし、1909年5月6日に専攻部廃止の文部省令が下されたことから、5月11日、学生大会は学生総退学を決議しました。出品した「校を去るの辞」は、この時に正門前で朗読されたものです。

その後商業会議所・学校商議員・父兄保証人会の3団体が説得に努めた結果、学生は復学し、1912(明治45)年に専攻部の存続を認める文部省令が発令されました。

申酉事件について、『一橋大学百二十年史』(1995)は「「申酉事件」ほど一橋の理念と団体的自覚を明瞭にしたものはない。それはまさしく一橋リベラリズムの源流であった」と評しています(p.66)。

■展示資料

「校を去るの辞」 【貴重資料室】
1909(明治42)年5月11日、総退学を決した学生は正門前で万歳を唱え、帽章を外して母校を去った。「校を去るの辞」はこの退散時ではなく、同日午後5時に有志が集まった際に朗読されたものである。 この時の様子を、『一橋五十年史』(1925)は次のように伝える。
其の日((5月11日))漸く暮れなんとする午後五時頃、委員有志八十余名は再び母校の門前に参集し、路上に整列して、徳野委員は茲に悲痛なる「校を去るの辞」を朗読し、委員一同脱帽傾聴して居たが、感慨に一時に迫って涙止めあえず、多くは面を蔽って地に倒れ伏してしまった。暫く在って、門扉固く鎖し寂然人影もなき母校に向って最後の敬礼を為し、新緑滴らんばかりの公孫樹を仰いで無量の思を懐きつつ此処を引上げた。 (p.144-145。引用に際し、現行の字体・仮名遣いに改めた)
一橋大学学園史編纂事業委員会編『申酉事件史』(1983)によれば、この文は武井大助の作といわれていたが、武井を中心に、徳野隆祐・木村譲二の3名で執筆したものだという(p.142)。 武井大助はこの時本科3年生。福田徳三に学ぶが、専攻科には進まず、海軍に入って主計畑を歩んだ。1937(昭和12)年海軍主計中将に昇進、翌1938年に海軍省経理局長となる。戦後は文化放送社長などを歴任した。


籠城事件

東京高等商業学校は1920(大正9)年に大学へと昇格しました。この際、東京高商本科が東京商科大学(以下、商大と略記)の附属商学専門部(以下、専門部と略記)となって従来通りの職業教育を施し、東京高商専攻部が商大本科となって大学教育を担うことになります。この他高等商業学校以来の附属商業教員養成所(以下、養成所と略記)がありましたが、養成所在学生は専門部生と共に受講する仕組みとなっていたため、実質的には商大は本科・予科・専門部という3科から成り立っていました。

籠城事件は、緊縮財政の一環として、上記3科のうち予科と専門部・養成所廃止を企図する政府の方針に抗議して発生した事件です。

1931(昭和6)年10月2日、商大本科・予科・専門部の3科連合教授会は、「光輝ある歴史を有し、現に教育的効果の極めて顕著なる我が予科及び商学専門部の廃止案に対して絶対に反対す」との決議を行いました。翌10月3日、本科・予科・専門部と養成所の学生が神田一ツ橋の旧校舎に集結し、10月5日から旧校舎への籠城を決行します。

10月6日朝には学生大会声明が発せられ、同日午後、学生デモと警官隊が大衝突する事態に至りました。

しかし、学生・教員・如水会をはじめとする卒業生らも含めた、大学をあげての猛反対に、10月8日に廃止が撤回され、10月16日、予科及び専門部の存続が正式に決定されます。

こうして、商法講習所以来の高等職業教育機関とアカデミックな大学とを兼ね供えた「三位一体」の体制は、戦後に新制一橋大学が成立するまで温存されることとなりました。

■展示資料

籠城事件冩眞帖 【一橋大学学園史資料室所蔵】
学生たちは籠城に先立ち、総理大臣若槻礼次郎・大蔵大臣井上準之助・文部大臣田中隆三に面会を請うて予科と専門部・養成所の存続を訴えた。この「籠城事件冩真帖」は、井上蔵相と会見した学生代表のひとり藤本恒雄氏が、1961(昭和36)年12月、「籠城満三十周年を機とし往時の写真七十数葉を複製して之を編輯」したものである。
時系列順に並べられた写真各葉に付されたキャプションに加え、適宜挿入されている「籠城事件日誌」により、緊迫した数日間の様子がよく伝わってくる。
なお、本帖の最初には、根岸佶元東京高等商業学校・東京商科大学教授による「細心果決」の題字がある。また、本帳を収めた桐箱の箱書は、当時の一橋大学長高橋泰蔵による。
一橋新聞 1931年10月5日号外、第141号(1931年10月9日)【ZZ:7E】【081:11】
一橋新聞部は10月5日に号外を発行、「予科・専門部廃止は本学全体の滅亡」と訴え、籠城直前の様子を伝えた。解決後に事件を振り返った第141号も興味深い。
籠城の声明書 【貴重資料室】
籠城から一夜明けた10月6日朝、全学学生は第6回学生大会を開催し、籠城の声明書を発表した。依光良馨『申酉籠城事件史』(1991)によれば、文章は伊藤三二(本科3年)が作成したものだが、原文を墨書する際、藤本恒雄(本科1年)によって数か所に訂正を加えられ、強調体の文章となったという(p.131-132)。
報道部ニュース 【貴重資料室(杉村廣藏関係資料)】
学生は予科・専門部廃止反対運動を組織的に推進するため、統制部・連絡部・交渉部・報道部・会計部を設置した。報道部は一橋新聞部員のなかから選ばれた9名で構成され、新聞社へ情報を提供するとともに、学内へガリ版刷りの「報道部ニュース」を配布した。報道部ニュースは10月4日から8日までの5日間で、65号が発行されている。
ここに展示したのは、のちに白票事件で渦中の人物となる杉村廣藏(1895〜1948)が所蔵していた報道部ニュースである。当時助教授だった杉村は予科・専門部廃止反対運動に積極的に関与し、河合諄太郎助教授とともに関西方面へ派遣されて事情の説明に当たった。




■主要参考文献・関連リンク



一橋大学附属図書館 展示・貴重資料ワーキンググループ