一橋大学附属図書常設展示より

リソルジメント・コレクション



日    程 :  2008(平成20)年10月6日(月)〜2010(平成22)年7月9日(金)
場    所 :  一橋大学附属図書館 公開展示室(時計台棟1階)
入場時間 :  9:00〜16:00(入場無料)(土・日・祝日は閉室)
(【  】内は、一橋大学附属図書館の請求記号または所在)

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本コレクションは、北イタリアの実業家ジャンニ・カプローニ(1886-1957)が生涯かけて収集したリソルジメント (近代イタリア統一運動)に関する旧蔵資料を中核とし、これにイタリア国家参議会が1944年に放出した蔵書およびファシズム時代の政治家 チェザーレ・マリア・デ・ヴェツキ・ディ・ヴァル・チスモン(1884-1959)の蔵書に由来するコレクションが追加されたものである。

内容的には19世紀初頭以降のイタリア統一国家形成のための政治運動、思想運動に関する文献で構成されている。また、同時代人によるリソルジメント運動の記述として、古典的評価が与えられているものの他、1950年代までに発表されたリソルジメントに関する研究書が多数収められている。

リソルジメントの政治運動、思想運動に携わった当事者の著作(その多くは初版) およびこれら運動家の伝記が自由主義穏健派および民主主義派の双方に渡って広く集められているのが、このコレクションの重要な特色である。

なお、本コレクションについては、2005年までに目録の電子化作業を終えており、大部分が附属図書館オンライン目録HERMESから検索可能となっている。

□リソルジメントとは    □ジュゼッペ・マッツィーニ    □ジュゼッペ・ガリバルディ    □カミッロ・カヴール    □リソルジメント研究の蓄積    □主要参考文献・関連リンク


リソルジメントとは

リソルジメント(Risorgimento)とは、イタリア語で「復興」を意味するが、一般的には18世紀末から1870年に至る近代イタリアの国民国家形成過程を指す。イタリア統一運動あるいは「イタリアの統一」ともいう。

ナポレオン体制崩壊後のウィーン体制のもとでイタリアには、オーストリア支配下のロンバルド・ベネト王国、トスカナ大公国、教皇庁、パルマ公国、モデナ公国、ルッカ公国、スペイン系ブルボン朝の両シチリア王国、そしてサルデーニャ王国が分立していた。そして最も影響力を保持していたのは隣接する大国オーストリアであり、その宰相メッテルニヒであった。

18世紀におけるポンペイ遺跡発掘などの事業は、イタリアが古代ローマ以来の文化的伝統をもつことを人々に改めて想起させたが、こうした意識は現状の割拠状況への不満へとつながり、すでに18世紀から、オーストリアの支配からの独立や統一イタリアの形成を模索する動きをさまざまな仕方で促していた。19世紀に入ると秘密結社のカルボナリ(炭焼)党などが立憲自由主義の運動を非合法に展開し、1820〜30年代には各地で革命的反乱を引き起こしたが、いずれもオーストリア軍の介入で鎮圧された。

これらの秘密結社は、少数の上層部のみにより主導されており、組織の具体的な目的があいまいにしか共有されていなかったため、共和主義の革命家マッツィーニは、民族の独立と統一共和政の樹立という明確な目標を掲げ、1831年に青年イタリア党を結成した。結成後は北イタリアを中心に主要都市に支部を広げて30年代に幾度かの蜂起を試みたが、いずれも失敗に終わった。

一方で、1830年代以降の北部の経済的発展を背景として40年代には穏健的な自由主義運動も存在した。単なる蜂起や領土の拡大ではなくイタリアの近代化が独立と統一に不可欠であるという世論が新聞・雑誌を通じて形成されていったのである。そして50年代に入ると北部出身の知識階層から政治・経済の自由主義思想を持った人々が出てきた。カヴールはその代表者といえる。両者の立場の相違は国内における階級的差異と地域的差異と関連しながら、結局統一後のイタリアの国内問題として現代に至るまで尾を引くことになる。

フランスの二月革命(1848年)に端を発して全欧を巻き込んだ三月革命は、イタリアでもリソルジメント運動を加速させたが、その一方で民衆革命による急激な体制転換への懸念も北部の知識人層に植えつけた。オーストリア軍やフランス軍による武力鎮圧により、その動きが数年を経ずして鎮静化すると、カヴールを首相とするサルデーニャ王国は、民衆革命を伴わずに独立と統一を達成する道として外交戦術を採用し、イタリア北部を中心に諸邦や諸都市を併合する形で徐々に統一を進めていった。

しかし、ガリバルディらはこのような政策に激しく抗議し、独自のイタリア解放を目ざして、1858年には義勇軍によるシチリア遠征を敢行した。彼らは半島南部を席捲することができたが、農民や共和主義者の蜂起に支えられていた点で、北部におけるサルデーニャ王国の動きとはかなり異なるものであった。ガリバルディは最終的に、その征服地を全てサルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世へ献上し、これにより1861年春イタリア王国が発足した。

その後、未回収の領土であるヴェネツィアを含むヴェネト地方は66年の普墺戦争の際に、ローマは70年の普仏戦争の際に王国に併合され、ここにイタリアの統一が完成した。

■展示資料

Storia del Risorgimento italiano / narrata da Francesco Bertolini. Milano : Fratelli Treves, 1889【Ris.:308】

フランチェスコ・ベルトリーニ『イタリア・リソルジメントの歴史物語』。豊富な図版によってリソルジメント運動の歴史をわかりやすく物語ったもの。ベルトリーニ(1836-1909)は歴史家で、リソルジメントに関する著作も数多く、リソルジメント・コレクションにも6点が収録されている。



L'Italia nel 1848-49 : quadri storici del Risorgimento / Guido Tabet. Milano : Editori-Alfieri & Lacroix, [1---]【Ris.:3021】

『イタリア1848-49 絵で見るリソルジメント史』。ページをめくるたびに現れる色分けされた13枚の地図によって、1846年当時から1848年のシチリア独立運動の激化、ロンバルド・ヴェーネト各地での蜂起、トスカーナにおける臨時政府の樹立、ローマ共和国の成立と瓦解、ヴェネト共和国の成立と瓦解などを経て、1849年の旧体制回復に至るイタリア半島の領土分割の状況の変化を一目でわかるようにしたもの。


Proclama : Cittadini di Bologna e delle province unite !, 1859【Ris.:2604】

布告『ボローニャおよび諸州の市民たちよ、団結せよ』。1859年7月4日にボローニャの政府臨時中央委員会が発令した布告。オーストリア軍との戦争に備えて市民の団結を訴えたもの。ボローニャでは市民蜂起の結果1859年6月12日にオーストリア占領軍が撤退したが、その後サルデーニャ王国への編入が完了するまでのごく短期間、ジョアッチノ・ナポレオーネ・ペポリらを首班とする臨時政府が樹立されていた。



Cavour nella caricatura dell'Ottocento / GEC (Enrico Gianeri) ; prefazione di Vittorio Badini Confalonieri【Ris.:1353】

『19世紀風刺画に描かれたカヴール』。1957年出版。1848年からカヴールの亡くなった1861年までを中心に、当時の雑誌、新聞から360点の政治風刺画を編年で集めたもの。カヴールが活躍した19世紀半ばは、イタリアにおける風刺雑誌の草創期で、この本にも多数の風刺画が収録されている” Il Fischietto”(1848年創刊)を初めとして、多くの専門誌が創刊されている。




ジュゼッペ・マッツィーニ(Giuseppe Mazzini)
(1805年6月22日 - 1872年3月10日)

ジェノヴァに生まれジェノヴァ大学で法律を学んだ。大学時代に秘密結社カルボナリ党に加わり、政治活動を開始した。1830年2月に逮捕されたが、31年に亡命先のマルセイユで共和主義と統一をスローガンとする青年イタリア党を結成した。34年4月、亡命地ベルンで神聖同盟に対抗する人民の同盟として超民族的な組織、青年ヨーロッパ党を結成した。37年ロンドンに亡命し、彼の指導する革命運動は沈滞期を迎えるが、39年ごろから行動を再開し、イタリア国内での運動を指導した。1848年にサルデーニャ王国の主導する対墺戦争が勃発すると、統一を優先し、政治体制の決定は戦争勝利後まで保留する方針をとった。ただ、ミラノの臨時政府のとったサルデーニャ王国への北イタリア併合という方針に反対し、共和制による統一を主張した。49年2月に宣言されたローマ共和国では、三頭執政官の1人として、独裁的な地位を確保した。

 共和国崩壊後、スイス、ロンドンに亡命したが、イタリアのリソルジメントの指導と並行してヨーロッパの民主主義運動の組織化に没頭した。イタリアでは、彼が1853年に結成した行動党を中心に、状況判断を欠く悲劇的な結末に終わる蜂起が繰り返されており、運動の勢力は著しく弱体化していた。これに対して、「イタリアとヴィットーリオ・エマヌエーレ」をスローガンとしてカヴールを中心とする穏和派の勢力が台頭してくる。61年のサルデーニャ王国によるイタリア統一後、マッツィーニは、ヴェネツィア・ローマの併合、普通選挙の議会による憲法の制定などを主張する論陣を張った。リソルジメントのほぼ全期間を通じて、彼の不屈の統一理念は強く影響を与え続けた。  

■展示資料

Il pensiero di Mazzini : scritti di Bergmann, Conti, De Donno, Golfieri Masci, Mormina-Penna, Parri, Perassi, Ruffini, Salvatorelli, Zuccarini【Ris.:766】

『マッツィーニの思想』。1949年にマッツィーニ顕彰国民委員会が刊行した、マッツィーニの政治思想についての論文集。ルイージ・サルヴァトレッリ、フランチェスコ・ルッフィーニ、フェルッチオ・パッリなどがさまざまな機会にマッツィーニについて論じた文章が集められている。執筆者の多くは歴史家やジャーナリストで、1945年に短期間イタリア首相を務めたパッリをはじめとしてイタリアの政治に参画した人々も数多い。




ジュゼッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi)
(1807年7月4日 - 1882年6月2日)

1807年に当時第一帝政下のフランス領であったニースで生まれた。1833年にマッツィーニの結成した秘密結社「青年イタリア」に加わるが,1834年には当局の取り締りを逃れて南アメリカに亡命。南米ではブラジルにおける独立戦争やウルグアイの対アルゼンチン戦にも参加して名を馳せた。

1848年には一度イタリアに戻り,マッツィーニの樹立したローマ共和国の対フランス防衛戦で活躍するものの1ヶ月間の交戦の末に敗れ,続いて参加したロンバルディアの独立戦争ではオーストリア軍に敗走した。その後はアメリカへの再度の亡命を余儀なくされた。54年に帰国し,サルデーニャ島近くのカプレラ島での隠遁生活を経て,59年対墺戦争を進めるサルデーニャ王国に参戦して北イタリア各地で転戦した。しかし,サルデーニャ王国の中部イタリア併合の代償として故郷のニースがサヴォイアと共にフランスに割譲されたことに憤慨し,首相カヴールの狙いがイタリア統一ではなくサルデーニャ王国拡大に過ぎないのではないかと大きな疑いを抱くようになった。彼はイタリア統一の主導権をカヴールから奪い取るために,国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に直訴するという形を目指した。

1860年初め,赤シャツ隊と呼ばれる義勇兵を率いてシチリア島に上陸後,ナポリに進撃し両シチリア王国を滅ぼして南イタリアを掌握した。同時期にカヴールも主導権を得るべく教皇領へ進軍し,サルデーニャ国王エマヌエーレ2世とガリバルディをナポリ北方のティアーノで会見させた。ガリバルディは征服地をサルデーニャ王エマヌエーレ2世に献上した。こうしてイタリアは統一されることになった。

この「ティアーノの握手」は、ガリバルディが代表した「人民」とサルデーニャ王国とが手を携えることにより成立したというイタリア統一の神話となった。 

■展示資料

Scritti e discorsi politici e militari / a cura della Reale commissione【Ris.:1298】

ガリバルディ『政治・軍事論』。1934年から1937年にかけてイタリア王立委員会の監修によって国費により刊行された6巻本のガリバルディの著作集の1冊。『政治・軍事論』は3巻からなり、ガリバルディの論説、手紙、演説の記録などが編年ごとに収録されている。写真は第3巻で、1868年から1882年に至るガリバルディの軌跡をたどることができる。




カミッロ・カヴール(Camillo Benso, Conte di Cavour)
(1810年8月10日 - 1861年6月6日)

当時フランス領であった北イタリアのトリノに、貴族の次男として生まれた。カヴールが青年期を過ごした1820、30年代は、カルボナリや、マッツィーニの「青年イタリア」がリソルジメントの先駆として広範な社会運動となっていたが、いずれも反乱や蜂起を鎮圧され、失敗に終わった。その後、フランスの2月革命の影響を受けて成立した「ローマ共和国」が1849年に崩壊すると、イタリア統一運動の中心はサルデーニャ王国へと移っていった。

カヴールは、1852年にサルデーニャの首相になると、教会・保守勢力の打破に努める一方、産業育成、鉄道・通信などの基盤整備および軍制改革により国力の強化を図った。また、外交的には、イギリス、フランスの支持を取り付け、オーストリアと対峙する政策をとった。プロンビエールの密約でフランスとの同盟を成立させると、ロンバルディアをオーストリアから奪回し、続いて中部イタリアを併合した。また、ガリバルディによって征服された両シチリア王国を、巧みな政治手腕でサルデーニャへと献上させた。この過程で自らの故郷ニースをフランスに割譲されたガリバルディは、終生カヴールに良い感情をもっていなかったという。

こうして1861年春にはイタリア王国が発足し、ヴェネツィア、教皇領を除いたイタリアの統一は成し遂げられた。ただ、イタリアの歴史家ロザリオ・ロメーオが述べているように、「出来上がったイタリアは、マッツィーニが求めたものでも、ガリバルディが求めたものでもなく、カヴールが望んだイタリア」であり、それはマッツィーニやガリバルディが夢想した「イタリア」と決して同一のものではなかった。この亀裂は、未完の革命としてのリソルジメントという意識を生み、統一後も長きにわたって、政治的には政府に対する異議申し立ての出発点となり、思想的にはリソルジメント修正主義の母胎となった。

■展示資料

Scritti politici / Camillo Cavour ; nuovamente raccolti e pubblicati da Giovanni Gentile【Ris.:650】

カヴール『政治論集』。イタリアの哲学者ジョヴァンニ・ジェンティーレ(1875-1944)により編纂され、1925年に刊行されたもの。サルデーニャ王国の首相になる以前、ジャーナリストとして新聞『リソルジメント』で論陣を張っていた時代にカヴールが記したさまざまな長さの政治関係の文章63編(1847年12月15日から1850年10月11日まで)が収められている。




リソルジメント研究の蓄積

リソルジメントをどのように捉え、解釈するかという問題は、イタリアでは統一王国成立直後から議論が始まり、現代に至るまで長い研究史をもつ。リソルジメントは、その時代その時代で、その後のイタリア社会の構造を規定した過程として、あるいは一つの原点として、常に参照され、検討が加えられてきた。

リソルジメント把握の代表的視角としては、ベネデット・クローチェ(1866-1952)を中心とした自由主義的歴史解釈と、アントニオ・グラムシ(1891-1937)を中心としたマルクス主義的歴史解釈が挙げられる。クローチェは、リソルジメントをイタリアの自由、独立、統一の過程と捉え、サルデーニャ王国によるイタリア統一を「自由の歴史」の具現化として、積極的に評価した。これに対してグラムシは、フランス革命との比較から、リソルジメントをジャコバン主義の欠如したブルジョワ革命とし、民衆、とりわけ国民全体の5分の3を占める農民を糾合し得ず「不完全な革命」に終わったことを厳しく批判した。こうした歴史解釈は、近代イタリアに現れる「南北問題」、ファシズム支配などの諸矛盾をリソルジメントに遡って考察する道を開き、第二次大戦後のリソルジメントをめぐる個別研究の隆盛へとつながった。

■展示資料

Rassegna storica del Risorgimento【Ris.:3257】

「リソルジメント史研究」Rassegna storica del Risorgimentoは、1914年に創刊され、現在まで100年近い歴史をもつリソルジメント研究誌。発刊元の「リソルジメント史国民協会」Societa Nazionale per la storia del Risorgimentoは、クローチェが顧問に名を連ね、その後名称を変えながらも、現在に至るまでイタリアにおけるリソルジメント研究の中心の一つとなっている。



■主要参考文献・関連リンク



一橋大学附属図書館 展示・貴重資料ワーキンググループ