平成18年度一橋大学附属図書館企画展示

江戸時代の豪農と地域社会 : 岡田家文書の世界

岡村とはどのような村か

岡田家がある岡村の耕地面積は約71町(1町は約1ヘクタール)、村の総石高674石余、うち田が総石高の8割以上を占めていた。岡村の属する河内国(現在の大阪府の一部)は、近世においては日本を代表する木綿の産地であり、棉の栽培や糸紡ぎ・織物製造などがさかんに行われていた。岡村でも、畑だけでなく、田の一部にまで棉が作付されていた。収穫された棉は、そのまま、あるいは綿糸や綿布に加工されて、大坂(近世には大阪をこう表記した)など各地に出荷された。すなわち、販売を目的とした農業・農産加工業が営まれていたのであり、岡村の村人たちは早くから商品・貨幣経済と密接に結びつきながら、日々の暮らしを送っていたのである。


岡村を描いた絵図

岡村を描いた絵図(近世) ▲
絵図の上方に「王水筋」(用水路)が、 下方には「陵池」(溜池)が見える


▲ 岡田家文書が収められていた長持ち

また、集落の中心を大坂・堺(現大阪府堺市)や大和国(現奈良県)に通じる街道が通っており、街道の両側に家々が連なっていた。村には日々通行者が訪れ、彼ら相手の商売などを通じても、村人たちは村外の世界との交流をもっていた。


一方、地主・自作農としてであれ、あるいは小作農・農業奉公人(地主・自作農に雇われて農作業に従事する農業労働者)としてであれ、村人の大部分は何らかのかたちで農業に携わっていた。田の稲作に限らず、畑作・棉作においても、用水の供給は不可欠である。岡村ではその水源を、「王水筋」とよばれる用水路や、「陵池」など村内の各所に散在する溜池に求めていた。これらの水は村人が勝手に利用できるわけではなく、利用方法については村全体で厳格に規定されており、村人たちはこれに則って自らの耕地に水を引いていたのである。その点では、村人たちは、あくまで村の一員として、村の定めたルールに従って日々の農作業に励んでいたのである。


▲高札 放火犯に対する刑罰などが記されている

すなわち、岡村は、近世の村についてよくイメージされるような自給自足的かつ閉鎖的な社会ではなかったが、しかしなお農業を基幹産業とし、生産・生活のためには村としてのまとまりが不可欠であるような社会だったのである。

(一橋大学大学院社会学研究科教授 渡辺 尚志)

一橋大学附属図書館 学術・企画主担当