平成18年度一橋大学附属図書館企画展示

江戸時代の豪農と地域社会 : 岡田家文書の世界


講演
日    時: 平成18年11月6日(月) 14:00〜15:30
場    所: 一橋大学附属図書館 研修セミナールーム(西キャンパス 時計台棟1階)
講    師: 渡辺尚志(一橋大学大学院社会学研究科教授)
演    題: 江戸時代の豪農と村・地域


はじめに

ただいまご紹介にあずかりました渡辺と申します。 よろしくお願いいたします。 お手元にレジュメがあるかと思いますけれども、 今日は「江戸時代の豪農と村・地域」というタイトルでお話をさせていただきます。 私自身は日本の江戸時代の村の研究をずっと続けていました。 その関係で、こちらの図書館に所蔵されている岡田家文書についても、 この間、目録作成、整理に取り組んでまいりました。 そういう関係もありまして今回の企画展示にも関わらせていただきまして、 また今日お話しすることになったというしだいです。

既にみなさん企画展示はご覧になったかと思いますけれども、 「江戸時代の豪農と地域社会―岡田家文書の世界―」 ということで展示がされております。 この岡田家文書は、河内国丹南郡岡村、現在の大阪府藤井寺市にあたりますけれども、 そこの豪農・地方名望家である岡田家に伝来した文書群です。 総点数は約一万三千点、 数え方によってはもっと増えるかもしれませんけれども、 にのぼる膨大な文書群であり、 古文書だけではなくて、ご覧になられたように、 江戸時代の高札ですとか、 あるいは明治に入って営んだ岡田銀行の営業看板、 あるいは古文書を収めた長持ち等々のモノ資料も含んでおります。 これらの全体が現在では本学の図書館に所蔵されております。

それでは本題に入りたいと思いますけれども、 今日の話は3つの部分から成っています。 ひとつは、「岡村とはどのような村か」ということで、 岡田家が暮らした岡村についてお話しし、 2では、「岡田家とはどのような家か」ということで、 岡田家の経営と村の中での政治活動についてお話しします。 そしてそれをふまえて、 3「岡田家と岡村を取り巻く地域社会とはいかなるものだったか」 ということで、 こんどは、村を越えた地域社会のありようと、 そこでの岡田家の活躍についてお話しする、 という3つのテーマを立てて話したいと思います。

1 岡村とはどのような村か

では1「岡村とはどのような村か」、に入ります。

岡村は、河内国、現在の大阪府の一部ですけれども、の丹南郡に属する村です。 お配りしたレジュメの一番後ろを見ていただきたいんですが、 その左側に図3として、 大阪府における近世の国郡図を挙げておきました。 ご存じのように江戸時代の大坂は、 摂津、河内、和泉という3つの国に分かれておりまして、 それでおおよそこの北のほう、 淀川から北と淀川の南の大坂周辺、 この一帯が摂津国で、 摂津国よりも南のほうの東側が河内、 西側が和泉、というふうに分かれておりました。 その中で丹南郡というのは番号でいうと20番、 大阪府の南部、河内国の中でも南寄りの地域にあります。 この丹南郡の一番の北の端のほう、 もう大和川にほど近いあたりにあるのが岡村ということになります。

それではレジュメの1ページに戻っていただき続けますと、 岡村は宝暦八年(一七五八年)の村高が六七四石、耕地面積が約七一町、 他に山年貢高一石がありました。 その後、明和六年(一七六九年)の新田開発で耕地が増加したため、 一九世紀には七三九石余でありました。 江戸時代の村というのは、平均すると村高が五百石前後でしたので、 それと比べますと岡村は比較的大きな村だということができます。 そして村の中央を、大坂・堺や大和方面に通じる大坂道と長尾街道という2本の、 この地域における主要街道が通っておりまして、 その道沿いに集落が形成されていました。

これについてはレジュメの三枚めの図2をご覧いただきたいんですけれども、 この図2で左側、真ん中より上のほうに、 字は上下さかさになっておりますけれども、 「岡村」とあるのがおわかりでしょうか。 図の2の右下から左上に用水が、川が流れておりまして、 その川の左端、流れのすぐ下に、字は天地逆になっておりますが、 「岡村」とございます。 ここが岡村でして、その岡村の中を道が通っているのもおわかりだと思います。 このうち、岡村を出てすぐ左に曲がっている「堺街道」と記された道がおわかりでしょうか。 この堺街道っていうのは、名前のとおり堺のほう、 堺はこの図のずっと左側、西側にあるわけですけれども、 堺のほうからやってきて、岡村の北にある小山村のところで直角に南に曲がって岡村に入る。 岡村の集落の中でさらに右に、つまり東に折れて、今度は「奈良街道」となっておりますが、 大和国、奈良のほうに向かっていると、そういう道があります。 これがレジュメの文章では「長尾街道」と書いたものであります。 それからもう一本、 今度は岡村の中を北のほうから小山村を通って北から南にまっすぐ入ってきてそのまま岡村を抜けて南に行く、 いまの道よりも絵図ではより太く描かれている道があるかと思いますが、 これがさきほど述べた大坂道という道でして、 これは北のほう大坂からやってきて、南の高野山のほうに抜けていく、 そういう街道です。

今の説明でおわかりになりましたでしょうか。 このように岡村の中には大坂道と長尾街道、 呼び方はさまざま名称はありますけれども、 この二本のこの地域における主要街道が岡村で合流してまた分かれていくと、 そういう地点に岡村はありました。 つまり岡村はこの地域における交通の要衝に存在していたということです。 それに伴って毎日のように村外から人の出入りがあり、 そういう人たちとの交流が持たれていたということです。

そして岡村の特徴として、村の南部には古墳がありました。 これは現在では仲哀天皇陵に比定されております。 それについては、展示室に展示された資料の中に大きな村絵図があったのをご記憶だと思いますけれども、 そこにも載っておりましたし、 今日のレジュメでいえば、二枚めの裏側の図1を見ていただきたいんですけれども、 これは展示されているものとはまた別の村絵図なんですが、 上が北、下が南になっておりますが、 この一番下の端、南のはずれに池があって真ん中に山がある。 池の部分に、これも北を上にしたために字が上下逆になっているんですが、 「陵池」、「天皇陵」の「陵」に「池」と書いた「陵池」という池があるのがおわかりかと思うんですけれども、 この部分がいま申し上げた仲哀天皇陵、当時はミサンザイ古墳と呼ばれていた古墳です。 そしてここは江戸時代には岡村の村人たちの用水源として利用されていました。

それではまた文章のほうに戻っていただきまして、次に岡村の領主を確認しておきますと、 近世初頭は幕府領、元和九年( 一六二三年)から宝暦八年までは丹南藩高木氏領、 同年から幕府領、安永七年(一七七八年)から常陸国笠間藩領(大坂城代役知)、寛政二年(一七九〇年)から幕府領となりました。 寛政一〇年から天保一〇年(一八三九年)までは高槻藩の預地(あずかりち)となりました。 この預地というのは、幕府の領地なんですけれども、藩に預けて管理を代行させた、そういう土地のことで、 突き詰めればこの時期も幕府領であったことには変わりありません。 そして天保一一年以降幕府領、完全なかたちの幕府領に戻って幕末に至りました。 ですから、これからお話しする時期の大部分は岡村は幕府領であったというふうに考えてください。 そして明治に入って近隣の町村と合併して、明治二二年に長野村、 同二九年から藤井寺村の大字となりました。

では村の中の集落についてもう少し詳しく見てみますと、 いまご覧いただいた図1、二枚めの裏側ですが、これをもう一度ご覧ください。 この図の右上のほうですね、村の領域の北東に寄ったほう、 二本の主要道路が重なるかたちで通っているあたりの道の両側に家々が並んでいることがわかります。 そしてこの集落の北側半分が新町、これも字が天地逆になっておりますが、わかると思います。 そして南の半分が南岡村です。 これも字がわかると思いますが。 そしてそこから左にやや離れてひとつ集落がある、これが北岡村です。 このように岡村の家々は街道の両側に展開した南岡と新町、 そしてそこからやや離れた北岡という、三つの集落を構成して住んでいたというわけです。

ではまた文章のほうに戻っていただき、 江戸時代の人口を確認しておきますと、 元禄三年(一六九〇年)の家数は、南町八一軒、北町二一軒、新町五〇軒、計一五二軒で、 うち、高持(たかもち)つまり田畑(でんぱた)屋敷を所持している百姓が一一四軒、 そしてそれらを持たない無高(むだか)が三八軒でした。 くだって明和三年(一七六六年)には、南町・北町合わせた家数が一三六軒で、人口が六〇〇人、 新町の家数が六一軒、人口が二九三人でした。 さらに明治九年(一八七六年)には人口が八一八人、 明治二二年には耕地面積が八八町余、人口が七八八人でした。 おおよそ岡村の人口規模はこの程度でした。 やはり村の耕地が平均よりも多いのに比例して人口も多めになっています。

そしてもうひとつ岡村の特徴として挙げておきたいのは、土地を全く持たない無高がかなりの比重、いたということです。 それについてはレジュメの一番最後のところに表1がありますが、これをご覧ください。 この表1は岡村の住民を所地高によって区分し、その分布を示したものです。 ここには西暦が入っておりませんけれども、一番左端の享和二年というのは一八〇二年ですので、 一九世紀のはじめからその後半、明治の初年、四年までの階層構成の変化を示したものです。 それでは一番右端の明治四年を見ていただきましょうか。 この時点では村の家数合計は一八五戸ですが、その計のちょっと上に無高の戸数が出ていますけれども、これが九五軒あります。 つまり村の家々の半分が土地を全く持たない無高だということがわかります。 全国的に見ても村人の半分を越える人々が全く土地を所持していないというのは珍しいことでして、 これは岡村を中心としたこの地域の村の特色だといえると思います。

それではまたもとに戻っていただき、岡村についての説明を続けます。 同村は畿内棉作地帯に属しており、寛政頃、一八〇〇年前後ですけれども、には、 田を含めた全耕地の三割から四割近くに棉が作付されていました。 また菜種も、文政一二年(一八二九年)に八七石余、天保三年(一八三四年)に一〇三石余作られていました。 いうまでもありませんが、棉は表作ですので、田畑に表作では米か棉を作り、 菜種は裏作ですから裏作には麦か菜種を作るというかたちで作付がなされていました。 それから耕地を潤す灌漑施設としては、 まず石川から取水した王水樋(おうずいひ)あるいは王水井路(おうずいいろ)などと呼ばれる用水路がありました。 これについては三枚めの、さきほども見ていただいた図2をもういちど見ていただきたいんですけれども、 この図で右側を通っているのが石川です。 そして右上の角で東側、右から流れてきた大和川と合流して新大和川となって左に、西に流れて、堺で大阪湾に注ぎます。 そしてこの石川の、この図でいくと右下の隅のあたりに、王水樋という樋が設けられて水が分水されていることがわかるかと思うんですけれども、 ここで分水した水が左上に向かって、この図でいくと下から斜め上、南から北へ流れて流域の村々を潤すということになっていました。 これが王水樋、王水井路と呼ばれる用水路です。 そしてこの王水樋、王水井路から水を引いている村々が、斜線で記された村々で、全部で八か村ありますけれども、 このうち流れの末に近いほうにあるのが岡村です。 王水樋についてはよろしいでしょうか。

それではまた文章のほうにお戻りいただきます。 岡村の水源としては、さらに、さきほどお話ししたミサンザイ古墳の濠から引く水路がありましたし、 それに加えて、元禄三年には二八五という多数にのぼる野井戸がありました。 このような、用水と溜池そして井戸の三者によって岡村は灌漑をおこなっていました。

続いて商工業者についてですけれども、宝暦八年(一七五八年)には二五種、五〇人、 慶応三年(一八六七年)には八種、五七人にのぼる多数の商工業者が住んでいました。 そして綿業の展開を反映して、宝暦八年には紺屋・綿屋・木綿屋・古手屋などの綿業関係者が八軒、 慶応三年には木綿仲買が一〇軒いたということが特徴的です。 また、天保一三年(一八四四年)には三軒、慶応三年には二軒、明治四年には三軒の米穀小売商がいました。 ということは、岡村は農村ではありますが、 住民の中には、自分の家では自分たちで食べるだけの米が生産できずに、 お米屋さんから米を買って食べている人たちが一定の数いたということを示しています。 また、街道沿いにありましたので、 宝暦八年には湯屋、銭湯ですね、や居酒屋がそれぞれ二軒、 また、馬持、馬を使って運輸業を営む人たち、が三軒がありました。

以上のようなことで、なんとなく岡村についてのイメージをつかんでいただけたかと思うんですけれども、 あらためて岡村の特徴について整理しておきたいと思います。 ひとつは、棉栽培や綿糸・綿布生産に見られるような、商品作物の生産や農村工業が盛んな村であったということです。 つまり岡村では江戸時代後期になりますと、自給自足的な農業からの脱却が進んでいました。 つまり同じ農業をやっていても、綿花を栽培する。 その綿花というのは、 それを布に織って自分のうちで家族が着るために作るのではなく、 先に話しましたように、田んぼまで畑にしてそこにも棉を植えるというわけですから、 当然そこから獲れた大量の棉はよそに売って代金を得る、 そのような売るための作物、商品作物として作られていたということが特徴です。 岡村を含む周辺の一帯というのは、 農業生産力の水準からみて江戸時代後期の日本における最先進地帯だったと言っていいと思います。 さらに、栽培された綿は村人たちの手によって糸に加工され、さらには布に織られることもありました。 このように岡村では農村工業も発展していたわけです。 このように岡村では商品・貨幣経済が浸透し、農業と工業との結合が進んでいました。 また街道沿いの村ならではの諸営業、 湯屋ですとか、居酒屋とか馬持など、さきほどお話ししましたけれども、 そういった農業外の諸営業に従事する人々が多数おりました。 このような商品・貨幣経済の進展、 工業や商業などに従事する人々の増加、都市化の進行、 こういった、農村でありながら農村というだけでは語りきれない、 そういう工業・商業への傾斜や、都市化の進行といったものが、 岡村のひとつの特色をなしておりました。

それでは岡村の特色の第二として、 いま言った点とは若干矛盾するようですけれども、述べたいのは、 そうは言ってもなお、幕末に至るまで岡村は農業生産を基軸とした社会だったということです。 そして米の場合はもちろんですが、 畑でおこなう棉作においても用水は不可欠でした。 そのために、棉作のような商業的な農業であっても、 農業である以上は用水利用をめぐる共同性が存在し、 村人たちは村全体の話し合い、村の規制に従って日々の生産を営んでいたというわけです。

つまり、レジュメでは若干跳ばして2ページ、一枚めの右側の下のほうにいきますけれども、 江戸時代の村というのは、よく村落共同体というふうに言われます。 それは単に集落があるというだけではなくて、 そこに住む村人たちが、生産や生活の全般にわたって強く結びついていたからそのように呼ばれるわけです。 そして村人たちが結びつく契機として中心的な役割を果たしたのが、 水であり山であったというわけです。 岡村の場合に、入会山(いりあいやま)と呼べるような部分は非常に少なかったです。 唯一まとまってあるのは、さきほど述べたミサンザイ古墳の墳丘部ですね。 そこがこんもりと山のようになっておりまして、そこは入会山として利用されておりましたが、 面積としては比較的小規模なものです。 とは言っても、いまお話ししたように、用水の面では王水井路にしても陵池にしても、 村人たちがそこから勝手に水を引くことはできませんでした。 村全体のルールに従って水を引いていました。 というわけで、用水の面における共同体規制は、 他の村に比べて若干弱かったかもしれませんけれども、 岡村にあっても確かに存在していました。 というわけで岡村も、都市化が進行しているとはいっても、 基本的な性格としては、生産面での共同性によって結びついた村落共同体であったというふうにまとめていいだろうと思います。

それではレジュメの一枚め裏側に移ってください。 ではここまでの話をまとめておきますと、 江戸時代後期の岡村は、都市化しつつある村落共同体であったと言えると思います。 すなわち江戸時代の村についてよくイメージされるような自給自足的かつ閉鎖的な社会ではありませんでしたが、 しかしなお農業を基幹産業として、生産・生活のためには村としてのまとまりが不可欠であるような、 そういう社会が岡村だったというふうに言えるかと思います。



質疑応答(1)

[渡辺] では以上でひとつめのテーマについてのお話しは終わりますけれども、 ここまでのところで何かご質問などありましたらここでおうかがいしておこうかと思いますけども。

[渡辺] はいどうぞ。
[質問者1] 明治時代になって、いわゆる地租税ってのが実施になったわけですね。 そうするといわゆる最初は地租税っていうんですか、 所得税なんてのができたのはずっとあとのことになるんですよね。 こういうとこはやっぱり早いんですか。 サラリーマンいま現在所得税っていうことになる、 最初は明治のいつ頃までそういう地租税が中心になるんですか。
[渡辺] それは岡村も地租とか租税制度は全国一律のものですので、 岡村が特に他に比べて所得税の適用が早かったとかいうことはございません。
[質問者1] どうもありがとうございます。

[質問者2] すいません。
[渡辺] はいどうぞ。
[質問者2] 永井家の預地といわれてその期間が長かったですよね。 資料集によると41年間預地というふうに、ようですが。 預地は高槻藩永井家の直領ってんですかね、 直支配村と預かり村でもだいたい同じような感じだったんでしょうかね。
[渡辺] はい、共通点が多かったと思います。
[質問者2] ほぼ同じとみてよろしいですか。
[渡辺] はい。そうですね。 ですから感じとしては、高槻藩の純粋の領地があり、 純粋の幕府領、幕府の代官が治める幕府領があり、 両者の中間といいますか、 ですから、突き詰めれば根本的には幕府領ですけれども、 日々の支配は高槻藩がおこない、その支配のありかたは、 藩の本当の領地と共通するところが多かったということになろうかと思います。
[質問者2] ありがとうございました。

[渡辺] ほかによろしければ先に進ませていただきます。



2 岡田家とはどのような家か・・・近世・近代の豪農経営

では「2 岡田家とはどのような家か・・・近世・近代の豪農経営」に入ります。 ここでは1でお話ししたような岡村の状況をふまえて、 岡田家がどのような経営と村運営をおこなっていたかということについてお話しします。

岡田家は一八世紀初頭に成立した家でして、その点では戦国以来の由緒を持っているというわけではありませんでした。 一八世紀前半の経営については、三つの柱がありました。 ひとつは農業経営、ふたつは商業経営、三つめは金融業です。 商業経営については、肥料と、それからこの地域の特産品である綿を扱っておりました。 これについては、展示室にも、肥料を商った際の「糟売帳」ですとか、木綿を扱った際の「木綿之売帳」などが展示されていましたので、 ご覧になられたかと思います。 それから金融業については、大きく分けて、無担保の大口貸付と質物をとっての小口貸付の両者がありました。 そして一八世紀後半になりますと、このうち商業経営を縮小して、小作地経営と金融業を拡大していきました。 併せて政治的には一八世紀末に岡村の庄屋に就任しています。

ここで経営の話からちょっとずれますけれども、庄屋とは何かということについて、岡田家の村運営に関わる話を若干いたします。 村は、百姓たちが生活と生産を営む場であると同時に、領主層が百姓たちを把握するための支配・行政の単位でもありました。 つまり支配・行政の単位と村落共同体というふたつの顔を村は持っていたということです。 村の重要事項は百姓全員の寄合で決められ、必要経費、これを村入用(むらにゅうよう)といいましたが、 これは村民が共同で負担するなど、村は自治的に運営されていました。 また村法(そんぽう)とか村掟(むらおきて)などと呼ばれる村独自の取り決めも制定されました。 このように自治的に運営された背景には、兵農分離によって武士が城下町に集住するようになり、 日常的な村運営が村民に委ねられたという事情がありました。 村の運営のためには村役人がおかれていました。 村役人は庄屋・組頭・百姓代の三者で構成されることが多く、これを村方三役といいました。 庄屋は村運営の最高責任者、組頭はその補佐役であり、百姓代は庄屋・組頭の監視・補佐をおもな職務としていました。 岡田家は一八世紀末以降、岡村の庄屋を世襲していました。 庄屋の職務には、年貢の各村民への賦課、 法令の伝達、村の土地の管理、村の人口など諸種の調査・報告、争いの調停などがありましたが、 高札の管理も職務の一つでした。

展示されていた高札、ちょっと字がかすれていて読みにくかったかと思いますけれども、ご覧になられたと思いますが、 江戸幕府の出した法令の中でもとりわけ重要なものは、あのように高札として木札に記され、 村の中心部にある高札場に掲示されました。 高札は幕府の威光を表す象徴であり、その管理は庄屋の重要な職務でした。 そのため、明治になって高札が撤去された際、撤去はされてもそのまま捨ててしまうというようなわけにもいきませんので、 どこが保管するかということになった際に、 江戸時代をつうじて庄屋として高札の管理をおこなってきた岡田家に高札が渡され、 それが今日まで岡田家に伝えられているというわけです。 展示ケースには高札と併せて岡田家の当主が庄屋としてその職務を遂行するにあたって作成・授受された史料が名寄帳等何点か展示してありますけれども、 岡田家文書全体を見ましても、そのなかばは庄屋の職務遂行に伴って作成・授受された文書です。 そして残りの半分が岡田家の家の経営に関わる文書ということになります。

それでは岡田家の政治的な活動については、 のちに3のところでまたふれるとしまして、 ふたたび岡田家の経営のほうに話を戻します。 一九世紀前半の経営を見ますと、小作地経営と金融業が二本の柱となっていました。 まず小作地経営のほうを見てみます。 岡田家は岡村および近隣の村々、合わせて一〇か村以上にもなるでしょうか、に土地を所持しており、 その大部分は小作に出していました。 岡田家の所持地の規模については、レジュメの一番最後の表1をもう一度見ていただきたいんですけれども、 この表1の一番下に、「最高高所持者伊左衛門」とありますが、 この伊左衛門というのが岡田家の当主です。 そしてそこに岡田家の所持石高が書かれています。 年によって若干の増減がありますけれども、 これは分家を出して分家に高を分けたりしたことによって減っていたりもしますので、 傾向としては一九世紀には岡田家の所持地は増えていると思います。 一番右側の明治四年を見ますと、 一七四石余りの土地を持っていることがわかります。 これは面積に直すとだいたい一五町前後、一五ヘクタール前後ということになるでしょうか。 耕地だけでこのくらいの規模の地主でした。

それではもういっぺん文章のほうにお戻りください。 これだけの土地があり、それを多数の小作人に耕作させているとなりますと、 その管理というのもたいへんな労力になります。 そのために岡田家では一九世紀には複数の帳簿を使い分けて小作地を管理するというシステムを整備していました。 そのひとつの結実が、展示室でいえば入って左側手前の角のケースにあったでしょうか、 「下作宛口帳」(したさくあてくちちょう)という非常に分厚い帳簿、 横長の帳簿があったかと思いますけれども、 毎年あるいは数年に一度、あのような分厚い帳簿を作成して、 さらに補助帳簿も併せ用いることで小作地の管理をおこなっていたわけです。 それについては詳しくはあらためて、もしご関心ありましたら、あらためて展示を見ていただければと思いますが、 つまり岡田家の当主は百姓、農民ではありましたが、 自分の手作り地を耕作するだけではなく、 膨大な小作地と小作人を管理する経営者としての資質が求められていたといえると思います。

またひとこと付け加えておけば、 これも展示ケースの10に「岡村の奉公人たち」ということで史料があったかと思いますけれども、 岡田家はそうはいっても全保有地の10%程度、 面積にして二町程度でしょうか、の土地はみずから自作地として経営していました。 その部分については家族と、それから雇った奉公人によって耕作をしていたわけです。 また岡田家に限らず、岡村で雇った奉公人については、岡村として、あるいは村を越えた地域として、 その出入りや賃金について管理統制をしていました。 そういうこともあって岡田家には奉公人に関わる史料もかなり残されており、 それがケース10や、 あるいは岡田家の手作りに関してはケース12の「岡田家の綿作」といったところに史料が展示されています。

それでは続いて経営のもうひとつの柱である金融業に話を移します。 金融業のほうもかなり手広くやっておりまして、 これは小作地を持っている村よりもさらにひとまわりふたまわり大きな広い範囲の村々を相手に取引をしておりました。 中には京都・大坂・堺の町人との取引もありました。 こういう金融活動に関してもやはり分厚い帳簿が作られておりまして、 展示室では左側の中ほどの壁際のケース6「江戸時代の金融」というケースの中には、 ケース番号はお忘れかもしれませんが、 非常に分厚い「取替帳」っていう、非常に分厚い帳簿が何冊か並んでいたと思いますけれども、 やはりああいった帳簿に貸付先ひとりひとりのデータを詳しく書き込んでいかないと、 金融業についてもスムーズにおこなえなかったということがわかります。

そして岡田家の金融は次に話しますような二重の性格を持っていました。 ひとつは近隣・遠隔地の豪農・豪商、あるいは領主・武士との間でおこなう無担保で高額の金融です。 ふたつめは、自村や近隣の中・下層農民との間でおこなう、土地や動産を質に取っての少額の金融です。 岡田家の金融にはこのふたとおりの性格がありました。 ではこれはどういうことを意味しているんでしょうか。 まず前者の豪農・豪商との間でおこなう高額の金融というのは、 大きなお金を貸してそのぶん多額の利子を取る、 そしてそれを利殖の手段として経営を拡大すると、 そういう意味を持っていました。 もう一方で、中・下層農民との間で行なう少額の貸し付けについては、 これは地域住民の生活資金を援助する、 それによって地域住民の生活成り立ちを維持するという性格を持っていました。 つまり前者については確実に利子を獲得して岡田家の財産を殖やすという経営者としての立場での活動でありましたし、 他方、近隣住民の当座のお金に困る、生活資金に困る、 困っている近隣の住民に当座の少額の資金を貸し付けるというこういう行動からは、 損得を抜きにしてと言うと言い過ぎかもしれませんけれども、 そういったことはちょっと脇に置いても、地域の人々、困っている人々に手を差し伸べるという、 地方名望家としての岡田家の側面が見てとれると思います。 つまり岡田家の金融業に二つの性格があるということは、 岡田家が経営者と地方名望家という二つの顔を持っていたということに対応しているものだと思います。

それではレジュメのほうでは二枚めに、ちょっと跳びますけれども、移りたいと思います。 いま申し上げた二重の性格というのが江戸時代の岡田家の金融のひとつの特色だったわけですけれども、 もうひとつの特色としては、 地域において、岡田家のみならずほかの豪農層においても、 比較的その手元に潤沢な資金があって、 この地域の金融事情を見ますと、 一種の借り手市場というんでしょうか、貸したい人のほうが多い状況があったということがあります。 それはなぜかということになるんですが、 それをお話しする時間がどうもちょっとないようですので、 もしどうしてもということでしたらあとでご質問いただければお話ししますけれども、 江戸時代後期からこの地域の金融事情は一種の借り手市場だったということをちょっと念頭に置いていただきたいと思います。

それをふまえてのお話なんですけれども、 江戸時代からの金融業の経験を活かして明治二七年に岡田家は自宅に岡田銀行という銀行を開業いたしました。 これについても、分厚い洋式の帳簿や営業看板などが展示されておりましたのでご覧になられたかと思いますけれども、 そこでは複式簿記が導入されたり、貸借対照表や損益計算書が作成されるなど、 近代的な経営手法が採用されました。 しかしそれにもかかわらず、岡田銀行は明治三四年(一九〇一年)に廃業の運びになります。 つまり営業期間は実質七年ほどしかなかったわけなんですけれども、 経営がうまくいかなかった理由のひとつとして、 やはりその、預金は多いが貸付金が少ないという事情があったと思われます。 つまり岡田銀行にお金を預けたいという人は多いんだけれども、 それに比べると銀行からお金を借りたいという人が少なかった。 そのために経営が必ずしもうまくいかなかったということがあったようですけれども、 それは、その背景には、いま述べました江戸時代から引き続くこの地域の金融市場がどちらかというと借り手市場で、 預けたい人はいるんだけれども、それほど、それに比しては、借りたい人が少ないというそういう状況があったのではないかと思います。 これについては、いま一橋の院生の人が分析途中ですので、 いずれ、よりはっきりした成果を出してもらえると思いますけれども、 廃業後は岡田家は小作地経営を中心に、 そこで得られた収益によって株式投資をもおこなう地主、地方名望家として今日まで続いているということだと思います。

以上話してきました2番めのテーマをまとめておきますと、 岡田家は、地主経営と金融業を二大主柱として、近世後期から近代にかけて経営を発展させていった豪農・地方名望家であると思います。 そして代々の当主は明確な経営戦略を持ちつつ、地域住民の生活成り立ちへの配慮も怠らなかった、と言えます。



質疑応答(2)

[渡辺] それではいったんここで切って、 いままでのところで何かご質問があればまたおうかがいしたいと思いますけども、いかがでしょうか。
[質問者3] すいません。
[渡辺] はいどうぞ。
[質問者3] 名望家ということなんですけれども、いわゆる小作人についてのいろんな記録ってのはあるんですか。
[渡辺] はいあります。
[質問者3] かなり、たとえば東北地方なんかと比べものにならないぐらい小作人に対する気配りっていうのはある人なんですかね。
[渡辺] そうですね。 小作人とは小作をする際、始める際に、契約書は一応取り交わしますけれども、 それどおりに厳格に履行するというのではなしに、 小作人の事情を勘案して、小作料を仮に滞納したとしても、 それが小作人の側のやむをえない事情、 たとえば不作ですとか、当主が病気になったとか、そういった場合には小作料の納入を少し延期するとか、 あるいはその額をまけるとか、いうふうなかたちのきめ細かい対応をしていたと思います。 ただそれも限度というのはあるので、ときには対立も起こりましたけれども、 基本的にはいま申し上げたような、相手の事情に配慮したきめ細かい対応をしていたと思います。 よろしいでしょうか。

[渡辺] はいどうぞ。
[質問者4] それに関連してなんですが、 さきほどそちらのケースで、入口入ってすぐ左のところに、 下作のお金を納める、岡田家に対して、単位みたいのは忘れたんですけれど、 本人には0.79で、税としては0.5で、岡田家には1.5って書いてあったんですけど、 なんか岡田家の取り分がすごく多かったので、 これはごうつくばりなのか、それとも平均的な名主へ納める割合なのか、 それがわからなかったんですけれども、どうなんでしょうか。
[渡辺] それは、展示を担当したかたがいますので、そちらにお答えいただきましょうか。 小田さん、申訳ないですけれど、いまの点について。
[小田] 地主経営のケースを担当した大学院生の小田と申します。 一般的に多いか多くないかというのはちょっと私もそんなにすごいいろいろ見ているかどうかという点でちょっとなんともお答えしかねるんですが、 ただ最初の時点でこれだけ納めなければいけないというのは非常に高いと思います。 それはなぜかというと、もともと高く設定してもそれを全部納めるということをおそらく岡田家のほうも期待していないというか、 さきほどありましたように小作人それぞれの事情によって引く、 全部納めなくてもたとえば当主が病気だったときとかに引いたりするような、 そういうようなのが、引くっていうことがあるということが前提として契約が取り結ばれていると思いますので、 あらかじめ設定している額としては高い、 けれどそれが引かれて、それである程度小作人も納められるような額になるということになります。 だから最初の設定は非常に高くて、高く見えるんですが、それはある程度小作人の側も合意のうえで、 引きがあるということを前提にした契約になっているということを見ていただければと思います。 ちょっとお答えになっていないかもしれません。 もし何かあのあれば…。
[質問者4] その引いた額っていうのは見たりできないですよね、実際には、どのくらい引いたのか…
[小田] それは記載があります。
[質問者4] どの程度に変わっていましたか。
[小田] それは本当に時期によるんですが、 村単位でだいたいこの村の土地に関しては今年はこれだけ引こうっていうのを決めているんですが、 それとは別に、さきほどのご質問にありましたようにそれぞれの場合に応じた引きがありっていう、 毎年ちゃんと納められるような条件にある人と、そうでない場合などによってある。 であと、さきほどのご質問にあったような、個々の小作人への対応とたとえば誰々が病気だったんだとか、 そういうのが経営の帳簿に書いてあるというのが岡田家の史料の面白い点だと思いまして、 数字、何匁納めた、どれだけ納めた納めたっていうのを負担額として書いていれば経営の管理はできるんですけど、 それだけでなくて、誰がこの年、たとえば当主が死んだとか亡くなったとか、 誰々が病気だったとかそういうような事情まで帳簿に言葉として書いてあるというのが面白いとこなのではないかなと思います。
[質問者3] そういうようなのは最初から岡田家ってのは名望家だという色眼鏡で見たわけじゃないんですか。 データが裏がとれているんですか。
[小田] 書いて…。
[質問者3] そういうふうに書いてあると。
[小田] 書いてあります。言葉として書いてあるというのはそれは帳簿の中でも面白いところなのではないかなと。 あと同じ写しとかでも文言ごと写しているので、そういうのというのは、 私の浅い経験ですけれどもあまりないのではないかなと思います。
[質問者3] そういうのは家訓として何か施政方針みたいなマニフェストのようなものはあるんですか。
[小田] それがあると私の研究も楽になるんですが、ちょっと見当たりません。
[質問者3] そのやりかたは代々伝承しているんですか。
[小田] それはなんとも言い難いところで、それは当然、当主が代わったときに、個性というのはあるでしょうし、 それはいろいろと考えてみる必要があるのではないかなと思います。
[渡辺] じゃあすいませんが、ありがとうございました。 いろいろとご疑問もあるでしょうが、また終わったあとにありましたらおっしゃってください。 だいたい江戸時代の場合には、収穫物は乱暴に言えば領主と地主と小作人で三分の一ずつっていうようなのがおよその基本で、 ほぼそういうかたちに岡田家もなっているかと思います。 さきほどの金銭貸借のところでも申し上げましたけれども、 小作料の徴取に関しても最初の契約は高く設定するけれども事情に応じて、適当に伸縮、柔軟に対応させるというようなかたちで、 いまの三分の一ずつっていうのよりは若干小作人の取り分が増えているというような感じかと思いますが、 それについては申訳ありませんが、さらにございましたらあとで言っていただき、 とりあえず先に進めさせていただきます。



3 岡田家と岡村を取り巻く地域社会とはいかなるものだったか

それでは3の、本日最後のテーマになりますけれども、「岡田家と岡村を取り巻く地域社会とはいかなるものだったか」というお話をいたします。 ここでは、これまで岡田家と岡村についてお話ししてきましたけれども、 こんどは視野をさらにひろげて、岡村を越えた村々のつながり、 その中における岡田家の役割についてお話ししたいと思います。 岡村の村の範囲を越えた結合につきましては、 今日もこれまでいくつかの例を挙げてまいりました。 ひとつには1でお話しした、用水利用をめぐる王水樋組合八か村の結合ということがあります。 ふたつめには2でお話ししました、岡田家の経営の中で、村の範囲を越えて土地を所持し、 村外の人々とも地主・小作関係を結んでいるという点、 さらにそれを越えた広い範囲で金融関係を結んでいるという点、 また手作り地経営のために村外の人たちを奉公人として雇っているという点、 これらの点なども岡村を取り巻く地域社会と岡田家との関わりを示しています。

さらに展示室の中では右側の奥の角にあたったかと思いますけれども、 「岡村の人々の移動」というケースがありましたが、 そこには小山村の「はる」という女性が岡村の人間に嫁いできたときの岡村への転入に伴う一連の史料が展示されていたかと思います。 このように岡田家に限らず岡村の人々は婚姻や養子縁組に伴って村外の人々との間に多様な交流がありました。 このように当時の農村社会というのは、決して村ごとに完結した閉じられた共同体というわけではありませんでした。 それについて、これからの時間では、村々の連合、組合村を例にあげてお話ししたいと思います。

組合村とは何かということですが、 江戸時代の村は、さまざまな契機によって、 周辺の村々との間に多様な連合関係を持っていました。 村々が連合する契機としては大きくふたつありました。 ひとつは領主の支配に関わる契機です。 たとえば幕府領の村であれば、年貢米というのは、 大坂や京都、場合によっては江戸の米蔵まで送らなければいけませんでした。 それを各村がそれぞれやっていたんではお金も手間もかかるということで、 近隣の村々が組合村を作って共同で年貢米の輸送をおこなう、それによってお金も人手も節約すると、 そういうことがおこなわれていました。 このように領主の支配に関わる契機で組合村が作られました。

第二には村々の側の自主的な契機で組合村が作られました。 たとえば、近世後期になりますと、物価水準はどんどん上昇していきます。 それに伴って奉公人や職人の賃金も上がっていきます。 しかしそれが限度を越えて上がりますと、奉公人や職人を雇う側の人々は、 払うお金が不足して困るということになります。 ですから村々では奉公人や職人の賃金を一定の水準以下に抑えようという動きが起こります。 ただこういったことは、自分の家一軒とかあるいは自分の村だけで決めても効果がないわけで、 一定の地域全体で取り決めをしなければ意味がありません。 というわけで、広範囲の村々が連合して、 その地域内では奉公人や職人の賃金はこの水準にするというのを取り決めることがおこなわれました。 こういう村々の自主的な契機によっても組合村は作られていきました。

そして次に述べたいのは、こうした組合村というのは重層的に存在していた、 つまり、小さなものからだんだん大きなものへと何重にも重なって存在していたということです。 これについては展示室では左側奥の隅のあたりに、 「連合する村々と岡田家の政治活動」ということでケースが設けられていたと思いますけれども、 その中にはいま申し上げたような重層的な組合村のそれぞれのレベルに関わる帳簿が展示されていました。 具体的に申しますと、 またレジュメの一番最後の図3をご覧いただきたいんですけれども、 この国郡図ですけれども、岡村の作る組合村としては、 まず一番小さな範囲として、岡村を含む周辺七か村で組合を作っておりました。 それはこの図には載っておりません。 そしてその上に、今度は丹南郡、丹北郡そして古市郡という三郡にわたる、 同じ代官の管轄下にある幕府領の村々が集まって三郡という組織を作っていました。 丹南郡が図の20番で、丹北郡はその北ですから15番、そして古市郡は丹南郡の右側で21番ということになります。 そして事情によってはこの三郡にさらに安宿郡、これは18番ですね、古市郡の上です。 「安」いに「宿」と書いて「あすかべ」郡と読みます。 場合によってはこの「宿」のあとに「部屋」の「部」という字が付いて「安宿部」(あすかべ)という場合もありますけれども、 という丹南・丹北・古市・安宿の四郡(しぐん)というまとまりもありました。 さらにその上に、今度はいまの四郡に石川と錦部の両郡を加えた六郡というまとまりもありました。 石川と錦部というのは図の22番と23番で河内国の南の端ですね。 「錦部」と書いて「にしごり」と読みますけれども、 こういう六郡という、この範囲にある同じ代官の管轄下にある幕府領の村々の結合もありました。 このように江戸時代の組合村というのは、決してひとつの範囲ではなくて、 集まらなければいけない案件によって何重にも範囲を拡げて組合が作られていたというのが特徴です。

そしてこの組合村の運営は、村の庄屋たちが集会を開いて自治的におこなっておりました。 また運営にかかる諸経費も「郡中入用」「組合村入用」として共同で負担していました。 そして先ほど言いましたように、 こういう組合村の果たす機能のひとつとして、 組合村全体による奉公人給金の抑制ということがあり、 それについては、文政七年の「奉公人取締書」という、 賃金の公定をした史料そのものが展示ケース「岡村の奉公人たち」の中に展示されております。 そして岡村の庄屋である岡田家は、村の代表として、いま申し上げた組合村の集会にたびたび参加して、 村の利益を守るために、他の村々の庄屋たちとともに、 ときには代官所に嘆願をおこなうなどいたしました。 その最も大規模なものが「国訴」といわれるものです。

では国訴とは何かといいますと、レジュメにも書きましたが、 これは近世後期において、近畿地方での商品経済の展開を前提として、 郡から国の規模を越えて、広範囲の村々が結集して、幕府に対しておこなった訴願運動です。 多いときには、一千か村を越える村々が参加しました。 百姓一揆とは異なり、合法的な訴願運動の形態をとったところに特徴がありました。 では村々は何を要求したかといいますと、 ひとつは、綿や菜種油などの流通をめぐる大坂の問屋の独占排除でした。 つまり、この地域は綿や菜種が特産物だったわけですけれども、 これをともすると大坂の問屋が独占的に低い価格で買い取ろうとしたわけです。 ただ農民にとってはそれは買い叩きで損になるわけですから、それは困ると、 大坂の問屋に限らず高く買ってくれるところにどこへでも自由に売りたいと思うわけです。 ただその願いを通すために、ひとり、一村では力が弱いので、 やっぱり数の力で要求を実現しようということになり、 どんどんその連合が拡がって、一千か村を越える村々が結集することも何度かあったというわけです。 そして数の力を背景に幕府に訴えた結果、 大坂問屋の独占は排除され、農民の要求は実現しました。

この国訴のような広域訴願が実現できた背景には、 いま申し上げた組合村による日常的な地域運営体制が存在したということがありました。 この国訴に関する史料も、展示室の奥側のケース9に、 ずばり「国訴」というケースタイトルで展示されておりますので、 ご覧いただければというふうに思いますが、 ここでもうひとつ申し上げたいのは、 この「国訴」という名称ですけれども、 これは江戸時代のその当時から「国訴」というふうにみんなが呼んでいたわけではありませんでした。 もちろん現在の研究者も最初から「あれは国訴だ」ということで分析をしたわけではありません。 では「国訴」という名称は、いつ誰が付けたのかということですけれども、 実は現在知られている限りで最も古い国訴文言は、 実はいま展示している岡田家文書の中に見いだされるわけです。 これも展示ケースの中に実物がありますけれども、 文政六年(一八二三年)に、 このときも綿の売買価格をめぐって一千か村を越える村々が幕府に嘆願をおこなったんですけれども、 そのときはそれを何と呼ぶかっていうことで共通理解はありませんでした。 それを当時の岡田家のご当主が、 これは国を越えて摂津・河内・和泉の三か国の百姓が連合しておこなっている訴願だから「国訴」と呼んでいいだろうということで、 その国訴関係の史料を綴った文書の表題に「摂州河州泉州 国訴一件」とタイトルを付けました。 それを現代の研究者である津田秀夫さんが岡田家文書を分析される中で発見して、 この広域訴願はずばり「国訴」というのが適切だろうということで論文を発表され、 それが今日では一般に通用するようになって、この広域訴願は「国訴」というふうに呼ばれております。 その名称で今では高校の教科書にも載っております。 というわけで、江戸時代の代表的な民衆運動である国訴についても岡田家と深い関わりがあったということを申し上げたかったわけです。

では3番のまとめとしまして、 江戸時代後期においては、村を越えた多様な地域的結合が展開しており、 岡田家は地域社会においても、 政治的・経済的・社会的に重要な役割を果たしていたということがいえるかと思います。



質疑応答(3)

[渡辺] それでは以上、村と家と地域社会と三つの柱を立てて、 岡田家文書から見えてくる近世の社会についてお話しいたしましたけれども、 最後に全体を通してご質問ありましたらおうかがいしたいと思いますが。

[渡辺] はいどうぞ。
[質問者5] 私ごとで恐縮ですが20年前に卒業した者です。 佐々木潤之介先生のゼミナールで、 岡田家文書は当初の頃整理をお手伝いして、 私の学部のときの卒論で…。 今回展示を見て懐かしかったのですが、 当時の私の卒論のときの疑問をちょっと今…。
組合村というのは、私自分で調べているときに、 この地域に特別のものだというふうに勝手に思っていたんですが、 今のお話だと全国的にあったものなんですか、 それとも幕領に関してだけそういうものがあったものなのか、 この地域は非常に商品経済で、 米というよりは他のもので年貢なんかも納めるとか、 そういうことからやっぱり組合を作る必要があって、 商品経済が発展している地域にのみ組合村っていう存在があるのか、 そのへんをちょっとご説明いただければと。
[渡辺] はいわかりました。 端的に申しますと、組合村は全国的にあったと思います。 ただ研究が進んだのがここ一〇年二〇年くらいで、 それまでは組合村の研究はほとんどありませんでしたので、 おやりになられた卒論は非常に先駆的なものではないかというふうに思いますけれども、 その後全国的に研究が進んできますと、各地に組合村があったということがわかってきました。 というのは、経済的に畿内ほど進んでいなくても、 幕府領であれば年貢米は江戸に送らなければいけないという事情は同じですので、 年貢米回送の金と手間を節約するために作る組合村というのは全国にありました。 またこれは大名領でも事情は同じで、 やはり法令をスムーズに伝達するとか、 同じように年貢米を城下に持ってくるとか、 そういう必要から、あるいは村々の側の治安維持とか、 奉公人給金の公定とか、村側の自主的な事情も大名領でも共通でしたので、 今日では、多様な契機で、商品経済が畿内ほど発展していない地域でも組合村がひろく作られていたということが明らかにされつつあります。

[渡辺] はいどうぞ。
[質問者6] ちょっと論旨を追えなかったところが二、三ほどあるので…。 ひとつは農業と工業の結合というと、 工業、これは社会的な分業というものに展開していくいうようなものを持ったというふうにとらえておられるのか、 そうじゃないのかということが一点。 それから国訴…。合法的な訴願運動といっておられるんですけれども、 その合法的か非合法的かの基準は何をメルクマールにしておられるかというのが一点。 それから国訴という民衆運動論としてとらえるのはわかるんですけれども…、 展開していけば相当な達成物が、 ヨーロッパの市民革命なんかはそこが達成物になる。 日本のこの国訴の場合は、達成物というかたちでは、評価するような達成物があったのか、 その方向性はどうなのか、 ないとすればですね、そうでないとすれば、 農業と工業の結合に戻るんですが、限界があったとすれば、それは農業のほうの限界で見ておられるのか、 それとも工業のほうの限界で見ておられるのか、 少し込み入った質問になりますけれども教えていただきたいです。
[渡辺] 難しい質問で、じゅうぶんにお答えできないと思うんですけれども、 一点めについては、これは一定の社会的な分業は近畿地方ではおこなわれていたと思います。 特に和泉国では、もう農業から離れて紡績、綿織り、これに特化して、 もう農村ではない、完全に都市になっているというふうなところも見られます。 そういう点で、一定の社会的分業が進んでいたとは言えますが、 ただ難しいのは、それが近代の産業革命につながるようなところまで行っているかというと、 それは行っていない。 岡村の場合にも、基本的には棉栽培から紡績・織布まで一貫して家内工業のかたちでおこなわれているのが主流でした。 そういう点で社会的分業の一定の進展は見られるが、 それがすぐ近代の機械制工業につながるような質のものではなかったというふうに私は思っております。
それで二点めの件については、合法・非合法の境というのは、 やはり幕府の奉行所に訴状を提出して訴願をおこなうというかたちであれば合法でありますし、 多数が集結して大坂なりあるいは大名の城下町に押し寄せて強訴するといった場合には非合法ということになりますので、 訴えを実現しようとする際の行動が、 多数集まって直接押し掛けるか、 それとも、多数が集まってるんだけれども、 代表が幕府の役所に行って穏やかに訴状を提出するかというところで線が引かれる、 その意味で国訴は合法運動だというふうに言えるかと思います。
それから三つめの点で、 国訴が市民革命のようなものを達成できなかったという点はたしかにそうなわけなんですけれども、 これは歴史の見方の問題になりますけれども、 私は、なんらかフランス革命とかヨーロッパ基準のひとつの基準を持ってきて、 それと日本を比べて、それが達成できたから良い、できなかったからダメというかたちではなく、 そこまではいかないにしても、村人たちの日々の努力と運動によって、 ゆるやかではあれ社会が少しずつ変わっていくというんですか、 そういう足跡をひとつひとつ明らかにすることが大事だと思っておりますので、 そういう点からしますと国訴にも、 私も手放しで過大評価するつもりはありませんが、 等身大の評価はしていいんじゃなかろうかというふうに思っております。
じゅうぶんなお答えになっていないと思いますが、申訳ありません。
[質問者6] ありがとうございました。

[質問者7] すいません。
[渡辺] はい。
[質問者7] 6ページの一番上のほうにですね、「丹南郡東組合」という「岡村など七か村」、 たとえば御触書が宛先が丹南郡七か村ということで、 野中村とか野々上村とかそういうところの七か村に御触書が…、 これはその当時から「丹南郡東組合」というような名称があったんでしょうか、 それともレジュメ上、「東組合」というような名前を先生が付けられたんでしょうか。
[渡辺] これはあったんだと思いますが、 展示を担当された野本さん、あったんですよね。
[野本] はい、ありました。
[渡辺] ありました。
[質問者7] ありがとうございました。
[渡辺] それでは、ほかにはよろしいでしょうか。
それでは、つたない話で恐縮でしたが、 以上で私の話を終わりたいと思います。 どうもご清聴ありがとうございました。

一橋大学附属図書館 学術・企画主担当