平成18年度一橋大学附属図書館企画展示

江戸時代の豪農と地域社会 : 岡田家文書の世界

近世の金融から銀行へ

近世の金融業は土地を担保にして居村か隣村の村民に対して行う質地金融が主流であるが、岡田家では村外にも広汎な無担保による金融を展開していた点に特徴がある。岡村のある丹南郡のみならず、丹北、志紀、古市郡など数郡にまたがる金融を展開した。その貸付先の多くは村落の上層農であった。幕末には、大和、和泉国や京都とも金融関係を結び、領主(和泉国伯太藩など)への貸付も行った。このような金融を展開するために大坂の有力な両替商米屋長兵衛や堺の具足屋半兵衛とも関係をもち、振り手形による決済を行った。

 

金融の取引は「取替帳」に記載された。享和2(1802)年から明治27(1894)年まで数年毎に更新され、欠かさずに現存している。金融業の発展にともない、帳簿は厚みを増していった。それに合わせて形式も整えられていき、当初は雑然と(ほぼ取引発生ごとに)記されていたが、のちには地域や相手毎にわかりやすく整理していく方式にかわっていった。

取替帳: 享和2年、文政8年、天保8年、安政7年 ▲

このような金融業も明治20年代に入ると一旦停滞する。その状況を挽回すべく、明治27(1894)年6月岡田家は銀行を個人で開業(岡田銀行)する。資本金2万円(のち5万円)は全て自己で賄い、大阪周辺の地域では群を抜いて早い開業であった。近隣の本店銀行は、明治28(1895)年6月時点で石川郡に富田林銀行があるのみだった(佐藤政則「堺銀行文書の魅力」『堺研究』第30号 2002.3 p.151-158、表2)。

▲岡田銀行の帳簿類

銀行の開業に伴い、岡田家では西洋式の複式簿記(銀行簿記)を導入した。日毎の取引を順に記入した「金銀出納帳」を取引科目毎に寄せ(「日記帳」)、最終的には「総勘定元帳」によって整理するという、当時最先端の簿記方式であった。複式簿記の導入に伴って、当時の銀行簿記の参考書(教科書)に挙げられている本店・支店間の取引の一部を写したものが残されており、新しい帳簿方式導入にあたっての学習過程として興味深い。また、帳簿は大阪の帳簿製造会社に発注したオリジナルなものを用いている。開業に当たっては、預金利子率などを記した広告を周辺地域に配布した。

▲岡田銀行「総勘定元帳」

経営は当初順調であったが、のち停滞し、明治34(1901)年6月大阪周辺の金融恐慌の中で自主廃業を行った。その後、岡田家は近隣で明治29(1896)年に開業した更池銀行の第三位株主として金融業との関係を続けていく。

▲当時の預金通帳(廃業時に回収されたもの)

(一橋大学大学院社会学研究科博士課程 福澤 徹三)

一橋大学附属図書館 学術・企画主担当