平成18年度一橋大学附属図書館企画展示
江戸時代の豪農と地域社会 : 岡田家文書の世界

岡田銀行 [展示ケース7]

江戸時代に広汎に展開した金融業も明治20年代に入ると一旦停滞する。その状況を挽回すべく、明治27(1894)年6月岡田家は銀行を個人で開業(岡田銀行)する。資本金2万円(のち5万円)は全て自己で賄い、大坂周辺の地域では群を抜いて早い開業であった。(近隣の本店銀行では、明治28(1895)年6月時点で石川郡に富田林銀行があるのみだった。)

銀行の開業に伴い、岡田家では西洋式の複式簿記(銀行簿記)を導入した。日毎の取引を順に記入した「金銀出納帳」を取引科目毎に寄せ(「日記帳」)、最終的には「総勘定元帳」によって整理するという、当時最先端の簿記方式であった。複式簿記の導入に伴って、当時の銀行簿記の参考書(教科書)に挙げられている本店・支店間の取引の一部を写したものが残されており、新しい帳簿方式導入にあたっての学習過程として興味深い。また、帳簿は大阪の帳簿製造会社に発注したオリジナルなものを用いている。開業に当たっては、預金利子率などを記した広告を周辺地域に配布した。

経営は当初順調であったが、のち停滞し、明治34(1901)年6月大阪周辺の金融恐慌の中で自主廃業を行った。その後、岡田家は近隣で明治29(1899)年に開業した更池銀行の第三位株主として金融業との関係を続けていく。


出品資料
〈コラム: 明治34年の取付騒ぎ〉

現代では銀行が倒産すれば大騒ぎになるので、あらかじめそのような危機を回避するため多くの対策が講じられているが、規模が小さかった草創期の銀行では、倒産により預金が戻ってこなくなることを恐れた預金者がいっせいに引き出しに向かう騒ぎが起きることがあり、これを「取付騒ぎ」といった。

岡田銀行が自主廃業した明治34(1901)年6月は大阪で金融不安が大きくなった時期であり、当時の銀行界の雑誌によると、次のような状況であった。

●大阪金融界の動揺の顛末

我國に恐慌無し、恐慌ある程に金融界は未だ発達せずとは嘗て人の謂ふ所なりしが、今回大阪に於ける二三銀行の破綻が一般銀行預金者の恐怖心を惹起し、預金の取付を為さしめ茲に金融界の動揺を來し其餘響汎く他の地方に波及したる事實は、既に恐慌の名稱を下すも敢て過當にあらざるべし(後略)

岡田銀行は明治34年4月に預金を引き出す客が増えており、同年6月には自主廃業を行うため貸付金の元金と利子の回収と預金の返却・預金通帳の回収を行っている。当時の岡田銀行の財務状況を見ると貸付金の額が預金の半分にも満たず、多くを株券への投資や社債の購入に充てていた。この時期は空前の株式ブームが終わりを告げ大きく配当率などが下がっていった。このような財務状況が、岡田銀行の廃業の主要因といえるだろう。

お金を預けることがようやく一般の人びとにも広がり始めた時代には、その預け先の状況に関心をもっていなければならなかったのである。

【引用史料】
『大阪銀行通信録 第四十三號附録』(明治34年5月)。読点を補った。
一橋大学附属図書館 学術・企画主担当