平成18年度一橋大学附属図書館企画展示
江戸時代の豪農と地域社会 : 岡田家文書の世界

岡田家の綿作 [展示ケース12]

畿内は江戸時代の初めから綿作の先進地域であった。岡田家にも綿作を行ない、収穫した綿を販売していたことを示す史料が残されている。岡田家は地主活動・金融活動を中心にしながらも、米・綿・麦・菜種を中心とした手作経営(自家での直接生産)を行なっていた。その規模は約2町歩程度で、全保有地の約1割程度である。うち、綿作地は安政初年までは1町歩前後で、2,000斤弱の実綿を取り入れていた。

【参考文献】
佐々木潤之介「幕末期河内の豪農」『幕末社会の展開』(岩波書店 1993.9)
『藤井寺市史』(藤井寺市 2002.1)第2巻(通史編2)第6章「岡村」


出品資料
〈コラム: 河内木綿〉

木綿の栽培が本格的に展開し始めるのは江戸時代の初頭である。木綿布は、絹布や麻布に比して、生産性が高く耐久性にすぐれ、庶民の普段着として普及した。岡田家のあった河内国をはじめ畿内各地は、綿作・綿織物の中心的生産地であった。

特に「河内木綿」は、宝永元(1704)年の大和川付け替え以後、生産量が飛躍的に伸び、全国に流通する。河内綿は色が少し赤いが丈夫であり、摂津国や大和国の綿に比して糸用に最適であった。木綿織の技術も発達し、当初は無地木綿であったが、木綿の商品化が進むにつれて多様な縞織も行なわれる。河内女は一日一疋織(2反)で一人前と言われ、農家の農間稼ぎとして盛行した。

しかし、18世紀後半以降は、綿作・綿業の全国的な進展や、肥料価格や人件費の高騰もあり、畿内の綿作は停滞しはじめる。実綿・繰綿の流通をめぐる国訴運動が展開するのもこの時期である。さらに、安政6(1859)年の開港以後は、安価な外国産綿糸の流入のため、国産の綿糸業は大きな打撃を受ける。 明治時代にはいると機械紡績が登場し、手機織の時代は終わりを告げた。「河内木綿」も昭和初期には完全に衰退してしまうのである。

【参考文献】
『紡績』(講座・日本技術の社会史 第3巻)(日本評論社 1983.6)
武部善人『河内木綿史』(吉川弘文館1981.5)

一橋大学附属図書館 学術・企画主担当