校章制定の経緯 (一橋大学の校章「マーキュリー」の由来)

東京商業学校が高等商業学校に昇格した明治20(1887)年頃に、ベルギーのアンヴェルス(アントワープ (注1))高等商業学校出身の教師アルテュール・マリシャル(注2) と教頭成瀬隆蔵(注3)の発案により制定されました(注4)。

「この校章が何年何月に制定されたかについては、今までのところ確たる記録も見当らず、必ずしも明らかではない」(注5)ので、同窓会誌『如水会会報』誌上にも長年にわたって各氏が考察を寄せています(注6)。 明治18(1885)年9月に東京外国語学校と合併、10月に校舎を木挽町から神田一ツ橋に移転した頃に制定されたという説もありましたが、「明治19年マリシャル着任前の18年に校章が定められていたというのはおかしいし、それまでは何か他の仮の校章(商の字であるという説がある)が使われていて、明治20年10月の高等商業学校への昇格の際に、これを記念して制定されたという説が有力」(注7)です。

商法講習所はその開所にあたりアメリカの連鎖商業学校(chain of commercial colleges、チェーン店方式で経営されるビジネススクール)Bryant & Stratton Chain of Business School のひとつで校長をしていたホイトニーを招き、教科内容もほとんどそのまま移入しました(注8)が、東京商業学校から高等商業学校への昇格の前後、より高い水準の教育を目指してベルギーのアンヴェルス高等商業学校に範をとる転換が図られました(注9)。

アンヴェルス高等商業学校 Institut supérieur de commerce d'Anvers は1852年創立、翌1853年から学生を募集して講義が開始されました(注10)。明治18(1885)年3月に来日して東京外国語学校附属高等商業学校に着任、東京商業学校との合併に憤慨して翌年11月に帰国したスタッペン Julian van Stappen(1852-1915)、明治19(1886)年11月東京商業学校に着任し、翌年の高等商業学校への昇格を経て明治25(1892)年9月30日に帰国したマリシャル Arthur Marichal(1857-没年不詳)、同年11月高等商業学校に着任し、明治35(1902)年東京高等商業学校、大正9(1920)年東京商科大学を経て昭和5(1930)年退職したブロックホイス Edward Joseph Blockhuys(1862-1931)(なお、ブロックホイスの墓は多磨霊園にあります)の3名は、いずれもアンヴェルス高等商業学校の卒業生でした。 同校には、本学関係者も含めて何人かの日本人も留学していました。

アンヴェルス高等商業学校は、王立アントウェルペン中央大学 Rijksuniversitair Centrum Antwerpen が1965年5月に創設された際、「その中へ発展解消し」、「応用経済学部がアントワープ高等商業の後身」(注11)でした。 さらに2003年には、Rijksuniversitair Centrum Antwerpen(RUCA)、Universitaire Faculteiten Sint-Ignatius Antwerpen(UFSIA)、Universitaire Instelling Antwerpen(UIA) の3大学が統合し、アントウェルペン大学 Universiteit Antwerpen (University of Antwerp) となりました

マリシャルの没年は未詳ですが、「東京商業学校からの第一回ア高商留学生、飯田旗郎は大正元年、アントワープを再訪したときに、先生は数年前に死亡していた、と書いて」おり、「出身地がベルギー南部ルクセンブルグ州のダヴェルディス村」(リュクサンブール州 Daverdisse)、「第二次大戦の激戦地アルデンヌ地方」で、「この村の病院で亡くなったらしい」(注12)とのことです。

高等商業學校學友會雜誌』第9号 (1892(明治25).10.19)の「雑報」の p.11-19 には、マリシャルに関する記事が多数掲載されており、特に、9月26日の送別会の記事の末尾には、マリシャルがフランス語で自作して配った富士山の詩“Au Fujiyama”を収録しています(注13)。

なお、第2次世界大戦中の校章改廃の危機について、以下のようなエピソードもありました(注14)。

「  六  「マーキュリー」とは何事ぞ!  野球の「ストライク」が「よし一本」ボールが「駄目」と言われるようになった戦爭末期の狂瀾時代、外来思想、外来語は凡て国体に悖るものとして弾圧されこの余波は当然一橋のシンボル「マーキュリー」に及んだ。古事記の古典を省みることなくしてギリシャ神話に基く校章を作るとは何事か。このような相次ぐ外部の圧力に加えて、驚くべき事には内部より夫に迎合賛同する意見が現れかくして昭和十八年末期から校章改正問題が討議研究される事となった。だが輝く伝統と国際的栄誉に輝くマーキュリーに優るものがどうして生れよう。幾度か試みられたその企画も応募図案も悉くが橋人を満足させる事が出来なかった。
  然し、何らかの妥協なくしては許されない事態に直面していた。遂に大学学部は一般官立大学と同様の、何の変哲もない「大學」が校章と規定され、予科、専門部は一美術学校教授の手に依る奇妙な図案が正式に校章と採用される事に決定した。昭和十九年末期の事である。夫は金鳩の下に劍と桜の姿が描かれている不気味なものであった。専門学部生は之に対して猛然と反対に立ち、遠くより見る時は変化に気がつかぬ程原案を修正し、せめてもの面影をその中に求めようと試みた。が幸いにも当時の資材不足は、この校章を多量に製作せしめる事を許さず、爲に学生は、最後迄マーキュリーを風に嘯かせ得たのであった。」

【注】
  1. 英語名 Antwerp、オランダ語名 Antwerpen、フランス語名 Anvers。ベルギーは北部がオランダ語圏、南部がフランス語圏で、アントワープはオランダ語圏だが、当時のベルギーの公用語はフランス語。
    また、「フランス語の "Anvers" は、フランスでは「アンヴェール」と読み、ベルギーにおいては「アンヴェル」とベルギーにおけるフランス語では語末の [-s] を発音する」(石部尚登ベルギーにおける言語状況 : 「言語戦争」と「言語境界線」」注7)。
    ベルギーの言語状況の概要は、増田純男「ベルギーの言語紛争 : ワロン・フラマンの対決」. 増田純男(編)『言語戦争』東京 : 大修館書店, 1978.1.10, p.3-34 【243:154】を参照。
  2. 一橋大学学園史刊行委員会(編集)『一橋大学百二十年史 : captain of industryをこえて』国立 : 一橋大学, 1995.9.30 【Az:234】【経研 Az:132】
    「  マリシャル(Arthur Marichal, 一八五七〜? )ベルギーの生まれ。一八八〇年アンヴェルス高商を卒業後、キューバ、メキシコの領事館に勤務、帰国してベルギー外務省に勤務中、日本の文部省の招聘を受けて一八八六(明治一九)年着任した。彼はヨーロッパ各国に通じ、商品学、商業歴史、商業地理、商業慣習、商業実践などの学科を担当した。彼はまた、前任者ファン・スタッペンがやり残した商品陳列所のために商品収集をつづけ、一八八八年、一般に公開した。一橋大学の校章マーキュリーは、彼が母校アンヴェルス高商の校章を模してデザインしたものである。彼は六年間在職して一八九二(明治二五)年帰国、出身地付近のベルギー南部ルクセンブルグ州の小さな村で亡くなった。」(p.32)
  3. 成瀬隆蔵(正忠)(1856-1942) については、平成15(2003)年度一橋大学附属図書館企画展「複式簿記がやってきた! : 明治初期簿記導入史と商法講習所」の「ホイトニー門下」のページを参照。
  4. 川崎操「忘れられた最初のベルギー国人お雇い教師」『如水会会報』487, p.38-41 (1970.11)【ZA:17】
    「  マリシャル氏に就て最後に忘れてならない事は、本学の校章マーキュリー制定に当って当時の成瀬教頭と共にその発案者の一人であるという事である。この事は一橋五十年史に初めて書かれた事であって本学にはそれに関する記録は残っていないが、多分当時の編纂委員が直接成瀬隆蔵氏からうかがったお話しに基づいて書かれたものと思う。」(p.40)
    酒井龍男(編輯)『一橋五十年史』東京 : 東京商科大學一橋會, 1925.9.22 【Az:45】【082:1】【Tsuchiya/V:889】【Uyeda/Nn:51】
    「  やがて制服制帽が制定せられ、同時にマーキユリーの徽章も定められた。此の徽章を制定するに當つては當局の間に種々意見も行はれたが、結局外人教師マーシヤル及び成瀬教頭の意見に依つて商神マーキユリーの杖を象り、一般商業學校と區別する爲めに Commercial College の頭文字を取ってC二つを添ふることに決したのである。」(p.22)
    作道好男, 江藤武人(編)『一橋大学百年史』財界評論新社, 1975 【Az:133】【経研 Pd:702】
    「  校章のマーキュリーはこの頃に制定され、制帽の徽章とされた。制定に当っては種々の意見があったが、結局外人教師アーサー・マーシャルと教頭成瀬隆蔵の発案による商神マーキュリーが決定された。
      校章はローマ神話にでてくる商業、学術の神マーキュリーの杖に二匹の蛇が巻きつき、頂に翼が羽ばたいているところを象り、それにCommercial Collegeの頭文字をとってCの字が二つ添えられた。蛇は英知をあらわし、常に蛇のように聡く、世界の動きに敏感であることを、また翼は世界に天翔け五大州に雄飛することを意味し、C・Cは一般商業学校と区別するためであった。」(p.125)
  5. 丸山泰男「マーキュリーと一橋」『如水会館落成記念』東京 : 如水会, 1982.9.29, p.28 【Az:444】【学園史資料室 C10:64】
  6. 年代順に列挙すれば、以下のとおり:
  7. 前掲 丸山泰男「マーキュリーと一橋」
  8. 前掲 川崎操「忘れられた最初のベルギー国人お雇い教師」
    「  商法講習所が米人ホイトニー氏を聘して、ブライアント及びストラットンの連鎖経営商業学校(当時アメリカ及びカナダ主要都市に四十か所以上)の形式を移入、あたかもその一環の如くに生まれ、従って最初の教科内容もほとんどそのままであった事は、各氏によって紹介され周知の事である。」(p.38)
  9. 猪谷善一「ベルギー・アンヴェルス商科大学と日本」『早稲田商学』第241号, p.3-29 (1974.3) 【ZD:48】
  10. 一橋大学学園史刊行委員会(編集)『一橋大学百二十年史 : captain of industryをこえて』国立 : 一橋大学, 1995.9.30 【Az:234】【経研 Az:132】
    「  大木文部卿の商業教育政策の第二弾は、一八八四(明治一七)年三月、東京外国語学校の附属校として設立された高等商業学校である。農商務省管轄下の東京商業学校は米国の連鎖商業学校をモデルとして発展してきた。東京商業学校より高い水準の高等商業学校の創立を計画した大木がモデルとしたのは、ベルギーのアンヴェルス(現在のアントウェルペン)にあったアンヴェルス高等商業学校(Institut superieur de Commerce d'Anvers)である。同校がベルギー政府、アンヴェルス市、同市の商業会議所の協力によって創立されたのは、ペリーが浦賀に来航した年の前年の一八五二(嘉永五)年であり、翌五三年から学生を募集して講義が開始された。当時のベルギーは、イギリスに次ぐ世界第二位の工業国であったが、一八五一年、ロンドンで開かれた世界最初の万国博覧会に出席したベルギーの内務大臣が、イギリス商工業の繁栄に強い刺激を受け、イギリスを追い抜くためには、優秀な外国貿易業者と領事の養成が急務であることを痛感したのが高等商業学校の設立の動機であった。
      創立当初の学科目は、商業実践、政治経済学、民法、商法、国際法、商業・工業地理、商品の歴史、商業史、税関規則で、講義は当時のベルギーの公用語のフランス語で行われた。修業年限は二年である。アンヴェルス高商の商業教育の特色は、商業実践に最大の重点をおいたことであるが、他の科目も現実の経済社会を教材とするように工夫されていた。一九世紀の半ばにはこのような商業教育の専門学校は珍しかったから、パリの高等商業学校とともに世界で最良の商業学校と評価され、ヨーロッパ各国からの入学者も多かった。」(p.24-25)
    [ウィリヤム レートン] ; 石川文吾[訳]「アントワープ府ノ商業学校」『高等商業学校同窓会々誌』第8号, p.15-25 (1899(明治32).12.25) 【ZA:34】
    [ウィリヤム レートン] ; 石川文吾[訳]「アントワープ府ノ商業学校」. 一橋大学学制史専門委員会『一橋大学学制史資料』第2巻「明治十九〜三十四年 東京商業学校〜高等商業学校」国立 : 一橋大学学園史編集委員会, 1982.11.30, p.161-167 【Az:180:2】【082:9:2】
    ※『高等商業学校同窓会々誌』第8号, p.15-25 (1899(明治32).12.25) より翻刻
  11. 中村重之「もう一つの学園」『如水会会報』688, p.2-3, および巻頭の口絵写真 (1987.8)【ZA:17】
  12. 細谷新治「「もう一つの学園」後日談」『如水会会報』691, p.4-5, および巻頭の口絵写真 (1987.11)【ZA:17】
  13. 『高等商業學校學友會雜誌』第9号 (1892(明治25).10.19)【ZA:34】
    「アーサー・マリシヤル氏を送る」一橋大学学制史専門委員会『一橋大学学制史資料』第2巻「明治十九〜三十四年 東京商業学校〜高等商業学校」国立 : 一橋大学学園史編集委員会, 1982.11.30, p.124-126 【Az:180:2】【082:9:2】【経研 Az:49】
    ※『高等商業學校學友會雜誌』第9号 (1892(明治25).10.19) p.11-19 のマリシャルに関する記事から翻刻。
    「アーサー・マリシヤル氏を送る」のほか、「叙勲」、「アーサーマリシヤル氏及ブロックホイス氏」をも再録。
    ただし、「宴会一束」は(“Au Fujiyama”も)再録せず。
  14. 一橋専門部教員養成所史編纂委員会編『一橋専門部教員養成所史』国立 : 一橋専門部教員養成所史編纂委員会, 1951.12.1 【Az:82】【082:3】 p.163-164: 第五編「受難時代」第二章「一橋の危機」六「「マーキュリー」とは何事ぞ!」

一橋大学附属図書館 学術・企画主担当