ヘルメスとギリシア神話 (一橋大学の校章「マーキュリー」の由来)

神々の王ゼウスの子ヘルメスは、天空を支える巨人アトラスの長女マイアを母とし、(何月かは不明ですが)月の4日目に生まれました。生まれたその日の日暮れには異母兄アポロンの牛を50頭盗み、足跡を混乱させるために牛を後ろ向きに歩かせたり草履を履かせたりの隠蔽工作に早熟の天才ぶりを発揮し、2頭をオリュンポス十二神(ヘルメス自身をも含む)への犠牲として捧げ、残りを洞穴に隠しました。アポロンはあちこち捜し回りましたが、もともと占術に長けていたので犯人を見抜き、キュレーネー山中の洞窟に至り、牛を返すよう迫りました。ところが、ヘルメスが亀の甲羅から発明した竪琴を奏でて歌うとそちらのほうが気に入り、竪琴と交換に牛の世話を委ねました。さらにヘルメスは葦笛シュリンクスを作って吹き、アポロンはこれをも欲しがって、牛を飼っている時に持っていた黄金の小杖をヘルメスに贈りました(注1)。

以上は、ホメロスの後継者たちによる諸神讃歌集の中の第4番「ヘルメス讃歌」(紀元前7世紀頃)に詳しく、またアポロドーロス (紀元後1-2世紀頃)の『ギリシア神話』 (注2)には簡略に記述されています。ヘルメスを主人公とする神話の物語はこれ以外にはなく、他の神話伝説中では、もっぱら脇役、副次的な存在にとどまっています(注3)が、ヘルメスの守備範囲は広く、「伝令として神々の意向を伝え、家畜を守り、人々に富や幸運をもたらし、死者の霊魂を冥界に導きと、多方面に大活躍」(注4)します。「商売、盗み、賭博、競技の神であり、智者として竪琴、笛のほか、文字、数、天文、度量衡の発明者とされ」、「また道と通行人、旅人の保護者として、上部が人の形で男根があり、下部は柱となっている像ヘルマイ ... が道路や戸口などに立てられて」いました(注5)。

ヘルメスには定型的な形容語句(エピテトン epitheton)として「アルゴスの殺戮者」Argeiphontes (注6)という異名が枕詞的に用いられます。 その由来譚は、アポロドーロス『ギリシア神話』(注7) には簡潔に、オウィディウス(紀元前43-紀元後17または18)の『変身物語』(注8)にはより描写的に記述されています。ゼウスは密会をごまかすために愛人イオを牝牛に変身させましたが、これを譲り受けた正妻ヘラは、百眼の巨人アルゴスを見張りに付けました。アルゴスは背中に第三番の眼、または前に二眼・背後に二眼、あるいは無数の眼を全身に有する怪力の巨人でした。イオを解放するようゼウスから命じられたヘルメスは、葦笛と魔法の杖とでアルゴスを眠らせてから首を切り落としました。


【注】
  1. ホメーロス [著] ; 沓掛良彦訳『ホメーロスの諸神讚歌』東京 : 筑摩書房, 2004.7.7 (ちくま学芸文庫 ; [ホ-11-1])【9900:80】
    p.215-289「ヘルメース讃歌 (讃歌第四番)」; p.290-293「ヘルメース讃歌 (讃歌第一八番)」
    Homerou hymnoi. 4: Eis Hermen ; 18: Eis Hermen
    「それからさらに、財産と富の印であるこのいともみごとな杖をやろう(†七五)
    黄金造りで、三叉になっていて、その身を危害から守ってくれよう。
    ゼウスの口から聞いて俺が知っていると言える限りの、
    言葉にせよ行為にせよ、善き神意を成就させる力をもつものだ(†七六)。」(p.247)
    [訳注]: 「†七五―――ヘルメースがここでアポローンから与えられた杖は、ケーリュケイオン(kērykeion, ラテン語では caduceus)と呼ばれ、ヘルメースがその後常に携えているものとされていた杖であろう。
    †七六―――ホメーロスにおいては、ヘルメースはそのもつ杖で、人間たちを眠らせたり目覚めさせたりはしているが、その杖自体にここで言われているような(あたかもデルフォイの神託を成就させしめるような)大きな力が備わっているとはされておらず、古典期以後もそのような伝承はない。」(p.271)
    ルネ・マルタン(監修) ; 松村一男(訳)『図説ギリシア・ローマ神話文化事典』東京 : 原書房, 1997.8
    「ある日ヘルメスはこの杖を、互いに争っていた2匹の蛇を分かつために使った。おとなしくなった蛇たちは杖に絡みついた。これがギリシアで使者と伝令を象徴する杖、カドゥケウスの由来である」(p.204)
  2. アポロドーロス [著] ; 高津春繁訳『ギリシア神話』改版. 東京 : 岩波書店, 1978 (岩波文庫 ; 赤(32)-110-1) 【0800:32A:C/757】
    Apollodoros. Bibliotheke, 3.10.2
    「  そこで一番年長のマイアはゼウスと交わってキュレーネーの洞穴中でヘルメースを生んだ。彼は生れ落ちて最初の襁褓(むつき)で巻かれ()の上に置かれたが、抜け出してピエリアーに行き、アポローンが飼っていた牝牛を盗んだ。そして足跡によって見つからないように、牝牛の足に靴をはかせ、ピュロスに連れて行き、他のものは洞穴に隠したが、二頭は犠牲に捧げた後、皮を岩に釘づけにし、肉は一部は煮、一部は焼いて、食ってしまった。そして速かにキュレーネーに行った。そして洞穴の前に亀が草を食っているのを見つけた。これを綺麗に清めて、犠牲にした牝牛から取ったガットをその甲に張り、かくして竪琴を作り出し、かつ(ばち)を発明した。ところがアポローンは牝牛を探し求めつつピュロスに来て、住民に尋ねた。彼らは子供が牛を追っているのは見たが、足跡が見えなかったので、どこに追われて行ったのか言えないと言った。しかしアポローンは占術によって盗人を知り、キュレーネーのマイアの所に来て、ヘルメースを責めた。彼女は襁褓(むつき)で巻かれている彼を示した。そこでアポローンは彼をゼウスの所へ連れて行って牝牛の返還を要求した。ゼウスがかえすように命令した時に、ヘルメースは盗んだ覚えはないと言ったが、アポローンがこれを信じないので、彼をピュロスに連れて行き、牝牛をかえした。しかしアポローンは竪琴を聞いてこれと交換に牝牛を与えた。そこでヘルメースはこれを飼いつつ、またシューリンクス笛を作りあげて吹いていた。アポローンはこれをも欲しがって、牛を飼っている時に持っていた黄金の小杖を与えた。しかしヘルメースは笛の代りにこれを得るとともに占術をわがものとしたいと欲した。そして笛を与えて、小石による占術を教わった。ゼウスは彼を自分自身並びに地下の神々の使者に任じた。」(p.145-146)
       
    ▲クロード・ロラン Claude Lorrain (クロード・ジュレ Claude Gellée) (1600-1682) 「アポロンとヘルメスのいる風景」 (1645)、 (1660)

  3. 高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』東京 : 岩波書店, 1960.2 【1600:207 参考】【158:15】
    「ギガースたちとの戦闘では,彼はハーデースのかくれ帽をかむって,ヒッポリュトスをたおし,アローアダイとの闘いでは青銅の壺におしこめられているアレースを救出,テューポーンの退治にあたっては,この怪物に手足の腱を切り取られ,キリキアのコーリュキオンの岩穴に押しこめられているゼウスを腱もろとも,番人の竜女デルピュネーををだまして,盗み出し,ゼウスにひそかにつけて,力を回復せしめた.」(p.253-254)
    前掲 ルネ・マルタン(監修) ; 松村一男(訳)『図説ギリシア・ローマ神話文化事典』
    「  媒介の神であるヘルメスはゼウスの伝令使としてさまざまな神々や人間たちのところに出向いた。例えば、カリュプソにオデュッセウスを出発させるようにと通達したのも、そのオデュッセウスにキルケの魔法から身を守る薬草を与えたのも、ヘルメスである。このように神の意志の代弁者として、彼は多くの英雄たちの傍らで補助的な役割を演じた。ヘラクレスに剣を与え、彼の多くの功業を見守った。ペルセウスにハデスの兜と翼の生えた靴を貸したこともある。プリクソスとヘレのもとに、彼らを乗せて空を飛ぶ金毛の羊を遣わしたのもヘルメスである。」(p.204)
  4. 西村賀子『ギリシア神話 : 神々と英雄に出会う』中央公論新社, 2005.5.25 (中公新書 ; 1798) 【0800:25:1798】 p.24
  5. 高津春繁『ギリシア神話』東京 : 岩波書店, 1965.1 (岩波新書 ; 青-547)【0800:33:青547】p.45
  6. 呉茂一『ギリシア神話』(上). 東京 : 新潮社, 1979.11.20 (新潮文庫) 【158:119:上】
    「  ヘルメースに関する説話の中で、古くから名高いのは百眼の怪物アルゴス殺しの物語で、これはホメーロスにもよく出てくる彼の異名アルゲイポンテースという言葉に関連している。ところで実はこの語の意味も十分には明らかでないので(ホメーロスには、こういう意味のよく解らない語がたくさんでてくる、ちょうど万葉や古事記のと多分に趣を等しくする)、あるいは「白光に輝く」者とも、「アルゴスの(郷)に輝く(光る、現われる)」者とも、または先の伝説のように、「アルゴス(アルゲイというのが、ちょっと難かしいけれど)を殺す者」とも取れないことはない。」(p.233)
  7. アポロドーロス [著] ; 高津春繁訳『ギリシア神話』改版. 東京 : 岩波書店, 1978 (岩波文庫 ; 赤(32)-110-1) 【0800:32A:C/757】
    Apollodoros. Bibliotheke, 2.1.3
    「  アルゴスとアーソーポスの娘イスメーネーに一子イアーソスが生れた。イーオーはイーアーソスの娘であると言われている。しかし年代記作者カストールおよび悲劇詩人の多くはイーオーはイーナコスの娘であると言っており、ヘーシオドスとアクーシラーオスとは彼女をペイレーンの娘であると言う。ゼウスは、ヘーラーの祭官の職にあった彼女を犯した。ヘーラーに発見されてゼウスは少女に触れて白色の牝牛に変じ、彼女と交わったことはないと誓った。それゆえにヘーシオドスは恋の誓いは神の怒りを将来しないと言っているのである。ヘーラーはゼウスから牝牛を乞いうけて、その番人に普見者(パノプテース)アルゴスを任じた。ペレキューデースは彼をアレストールの子であると言い、アスクレーピアデースはイーナコスの、ケルコープスはアルゴスとアーソーポスの娘イスメーネーの子であると言っているが、アクーシラーオスは彼を大地より生れたと言う。彼は牝牛をミュケーナイの森の中にある一本のオリーヴの樹につないだ。ゼウスがヘルメースに牝牛を盗むようにと命じたが、ヒエラクスが()らしてしまったので、知られずにやることができず、石を投げてアルゴスを殺した。これが彼が「アルゴスの殺戮者(さつりくしゃ)(Argeiphontes)と呼ばれるゆえんである。」(p.72)
  8. オウィディウス ; 中村善也訳『変身物語』(上). 東京 : 岩波書店, 1981.9 (岩波文庫 ; 赤(32)-120-1) 【0800:32:C/771/上】
    Ovidius. Metamorphoses
    「  だが、神々の王ユピテルは、イオのこんな苦しみを捨ておけなくなると、きらめくプレイアスとのあいだにもうけた息子メルクリウスを呼び、アルゴスを殺すようにと命じた。またたくうちに、メルクリウスは、両の足に翼を装備する。たくましい手にとったのは、眠りをもたらす魔法の杖だ。頭には、旅行帽を乗せる。この身ごしらえをしたうえで、ユピテルのこの息子は、父親の天空から大地へ飛び下りた。地上に着くと、帽子を脱ぎ、翼をとり(はず)した。ただ、杖だけは手にしたままだ。この杖で、羊飼いよろしく、へんぴな田園に山羊を追い立てた。途中で寄せ集めたけものたちだ。そうしながら、葦笛(あしぶえ)を吹き鳴らす。聞き馴れぬ音色(ねいろ)と巧みさに心を奪われたアルゴスは、「誰かは知らぬが、わたしといっしょにこの岩に坐るがよかろう」という。「これよりも豊かな牧草は、どこにもないからな。羊飼いにはもってこいの木陰も、見てのとおりだ」
      メルクリウスは腰を下ろし、あれこれと多弁を(ろう)して、おしゃべりで時間をつぶした。そして、葦笛を(かな)でることで、見張りの(まなこ)を眠らせようと試みる。が、相手は、忍び寄る眠気に勝とうと一生懸命だ。たとえいくらかの目では眠りを受け入れても、いくらかではめざめているのだ。そして、葦笛の発明は最近の出来事だったからだが、これが作り出されたいきさつをたずねたりもする。」(p.43)
    「  話をこんなふうにもっていこうとしたメルクリウスが、ふとアルゴスのほうを見ると、彼の目はみんな抵抗を失って、その光は眠りでおおわれていた。ただちに、彼は話をやめ、魔法の力をそなえた杖で重い(まぶた)を撫で、眠りをしっかりとつなぎとめる。猶予を置かず、こくりこくりしているアルゴスの、頭と頸の接するあたりを、鎌のようにそった剣で打ちのめす。血の(したた)る首を岩から投げ落とすと、きり立った断崖(だんがい)が鮮血で染まった。
      アルゴスは倒れ伏している。あんなにもたくさんの(まなこ)にそなわっていた光が消え、百の目も、今はひとつの闇につつまれている。ユノー女神は、これらの目を拾いあげ、可愛がっている孔雀(くじゃく)の羽毛につけた。それらは、まるできらきら光る宝石のように、鳥の尾を一杯にした。」(p.45)
    Juno Discovering Jupiter with Io / Pieter Lastman Mercury piping to Argus / Johann Karl Loth Mercury, Argus and Io / Jacob van Campen Juno Receiving the Head of Argos / AMIGONI, Jacopo
    ▲[左から順に]
    ピーテル・ラストマン Lastman, Pieter 「イオと一緒にいるゼウスをみつけるヘラ」(1618)
    ヨハン・カール・ロート Loth, Johann Karl 「アルゴスに笛を吹くヘルメス(1660以前)
    ヤコブ・ファン・カンペン Campen, Jacob van 「ヘルメスとアルゴスとイオ」 (1630年代)
    ディエゴ・ベラスケス Velázquez, Diego 「ヘルメスとアルゴス」 (1659)
    ピーテル・パウル・ルーベンス Rubens, Pieter Pauwel 「ヘルメスとアルゴス」 (1635-1638頃)、 (1636-1638)
    ジャコポ・アミゴーニ Amigoni, Jacopo 「アルゴスの首を受け取るヘラ」(1730-1732)
    ピーテル・パウル・ルーベンス Rubens, Pieter Pauwel 「ヘラとアルゴス」(1610)

一橋大学附属図書館 学術・企画主担当