附属図書館 平成15年度企画展示



明 治 初 期 簿 記 導 入 史 と 商 法 講 習 所



ご あ い さ つ

 来年(2004年)4月の国立大学法人化により,一橋大学も単式簿記(≒現金出納帳)から複式簿記の世界に入ることになりました。
 複式簿記は,明治の文明開化によって西洋から日本に導入されたさまざまな文物の一つです。
 一橋大学は,1875(明治8)年の商法講習所設立を嚆矢としていますが,日本で最初の公設商業教育機関として,複式簿記の日本への導入とは不可分の関係にあります。
 本学附属図書館は,商法講習所時代に使用した資料も保存しており,また,西川孝治郎氏の寄贈になる明治期簿記書のコレクション(西川文庫)など,明治期の日本の複式簿記導入史を解き明かすための資料を数多く所蔵しています。
 今年度の一橋大学附属図書館企画展示では,明治初期に複式簿記がどのように日本に導入され,広まっていったのかを西川文庫を中心に,また,それにまつわる本学の揺籃期である商法講習所史を,当時の資料を展示して紹介します。
 あわせて,西川文庫の受入に携わった安藤英義教授による講演会を開催します。
 また,下記URLにて電子展示を行っていますので,あわせてご覧ください。
 http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/k15/
平成15年10月27日
一橋大学附属図書館


日本で最初の簿記書
『帳合之法』 と 『商家必用』
 明治の初期には,封建制度の崩壊や貨幣制度の大転換があり,それまでの大福帳にかわる新しい記帳法を受容する土台が形成された。そのような時代の日本における西洋式簿記の導入は,1837(明治6)年6月,幕末明治の啓蒙思想家である福澤諭吉(ふくざわ ゆきち,1835〜1901)が,横浜の友人から紹介されたアメリカの簿記書を翻訳し,『帳合之法』として出版したことに始まる。福澤曰く「今この原書を翻訳すれば大福帳の法に勝ること万々なりと深く自ら信じ,直に翻訳に着手し」たのである。
 福澤は,原書であるブライアント(Henry Beadman Bryant,1824〜1892),ストラットン(Henry Dwight Stratton,1824〜1867)共著“Bryant & Stratton's Common School Book-keeping”を,できるだけ日本の実状に合わせた方法で翻訳した。『帳合之法』の中で使用された用語や記帳法は,のちの翻訳簿記書に多大な影響を残したが,実際に商店などで広く使われるまでには至らなかった。これに落胆した福澤はその後,簿記書の翻訳事業は弟子たち任せ,自身は啓蒙的著述に専念することになった。
 一方,同時期に西洋簿記書の翻訳を行っていたのが,加藤斌(かとう なかば,1844〜1914)である。橋本左内(はしもと さない,1834〜1859)に師事し,海外の事情に通じていた加藤は,横浜での外国人と交流することで啓発され,公務の余暇を割き,イギリス簿記書を翻訳,私費を投じて『商家必用』を出版した。『帳合之法』に遅れること僅か4ヵ月,1873(明治6)年10月のことである。
 このように,時を同じくして出版されたこの2つの書が,のちに出版される簿記書を牽引し,明治初期の西洋式簿記の導入において大いなる第一歩となったのである。

帳合之法 (ちょうあいのほう)
 福澤諭吉(1835〜1901)譯 ; H.B. Bryant, H.D. Stratton共著
 慶應義塾出版局, 1873(明治6).6 - 1874(明治7).6
 4冊
 『Bryant & Stratton's Common School Book-keeping』の全訳。日本で最初に出版された西洋式簿記書。
 「Book-keeping」を「帳合」,「Debit & Credit」を「出入」とするなどの簿記用語の翻訳,千,百,十といった単位を用いないで日本数字を記入する方法,そして,縦帳への縦書きという簿記書形式を創案したこと等,西洋式簿記書を日本へ導入する際の工夫が随所に見られる。
 本書は,小中学校や神戸商業講習所,東京商法講習所(夜学部)で教科書として使用された。
Nishikawa / 6
Bryant and Stratton's common school book-keeping
 Henry Beadman Bryant, Henry Dwight Stratton,
  Silas Sadler Packard共著
 Ivison, Blakeman, Taylor, 1861
 福澤諭吉『帳合之法』の原書。
 連鎖的実業専門学校のひとつであるブライアント・ストラットン・スクールで教科書として使用された,Bryant=Stratton=Packard 簿記三部作のうち,初学者対象の簿記書。
 本書では,初級編に当たるということもあってか,第1部が単式簿記,第2部が複式簿記となっていて,単式簿記の解説にかなり多くの紙幅が割かれている。
旧分類 / I-28 / 70
商家必用
      なかば
 加藤斌(1844〜1914)譯 ; William Inglis著
 村上勘兵衛, 1873(明治6).10
 2冊
 『Book-keeping by single & double entry』の抄訳『帳合之法』に次いで日本で2番目に出版された翻訳簿記書。イギリス系簿記書の翻訳としてははじめてのもの。
 『帳合之法』の4ヶ月後の出版なので,訳者加藤はこれを参照していないと思われるが,帳簿の数字を縦書きにした点など,一致した点もある。
 本書序文の執筆者には,旧福井藩主松平慶永(春獄)がおり,大名自筆の書が載せられている。
 本書初編は,東京のほか,大阪,京都の書肆計10箇所から発売された。
Nishikawa / 3


御雇外国人シャンドと『銀行簿記精法』
 1872(明治5)年11月に国立銀行条例が施行されたが,この条例に基づく国立銀行の設立には,簿記の形式の統一がなくてはならないものであった。火急の要請に迫られた政府は,当時マーカンタイル銀行横浜支店の支配人であったシャンド(Alexander Allan Shand,1844〜1930)を大蔵省紙幣寮に雇い入れ,立ち後れていた銀行簿記の記録法を統一することに着手した。
 大蔵省紙幣寮は,シャンドの指導のもと,統一簿記制度(uniform sytem of bookkeeping)として,規則の制定,講習による指導,銀行検査の実施等種々の施策をすすめたが,その核となったののが『銀行簿記精法』であった。シャンドは,1872(明治5)年10月に紙幣寮に正式に雇い入れられると,直ちに銀行簿記制度の立案に取りかかり,1873(明治6)年12月には『銀行簿記精法』が出版された。また,シャンドは,大蔵省が設立した銀行学局で講習を行い,『銀行簿記精法』で触れられなかった決算法も補って教授している。その内容は『銀行簿記例題』および『銀行簿記例題解式』として残された。
 『銀行簿記精法』は,複式簿記書という点では,福澤諭吉(ふくざわ ゆきち,1835〜1901)の『帳合之法』(複式之部)よりも半年早く刊行されているので,日本で最初と言える。本書の翻訳には数名の大蔵官員が関わっているが,そのうちの2名,小林雄七郎と宇佐川秀次郎は慶應義塾の出身であり,その翻訳作業にあたり『帳合之法』初編を参考にしたとも考えられている。
 いずれにしても,先進国のエキスパートが他国に招かれて編集をしたという特殊な過程を経て成立した簿記書は他に類例がなく,この書は永くわが国銀行簿記の原典として重用され,その主簿組織はシャンド式簿記法として,広く一般実業界にも普及した。

銀行簿記精法
 Alexander Allan Shand(1844〜1930)述 ; 海老原濟, 梅浦精一訳
 大蔵省, 1873(明治6).12
 5冊
 刪補校正 : 小林雄七郎, 宇佐川秀次郎, 丹吉人
  督纂 : 芳川顯正. 祝文 : 福地源一郎
 日本における最初の複式簿記書。
 明治5年11月施行の国立銀行条例に基づく新設銀行のために大蔵省が翻訳し,編集刊行したもの。本文の前にある凡例22枚はシャンドの原案の不足部分を補ったものである。
 主簿組織はすべての取引を伝票から日記帳(現金出納を総合仕訳帳とする)を経て,元帳にする仕組みである。
 本書を編集刊行した大蔵省紙幣寮の蔵書を意味する「紙幣寮官籍」印がある。
Nishikawa / 2
銀行簿記精法
 Alexander Allan Shand(1844〜1930)述 ; 海老原濟, 梅浦精一訳
 紀伊國屋源兵衛, 1873(明治6).12
 1冊
 刪補校正 : 小林雄七郎, 宇佐川秀次郎, 丹吉人
  督纂 : 芳川顯正. 祝文 : 福地源一郎
 5冊本の『銀行簿記精法』(Nishikawa / 2)を合冊して1冊にしたもの。

Nishikawa / 2 / A
銀行簿記例題
 大蔵省銀行課編纂
 佐久間貞一, 1879(明治12).5 ; 小林新兵衞 : 秀英舍(發兌)
 大蔵省が設立した簿記教育機関,銀行学伝習所が,1879(明治12)年に閉鎖される際に,教師であった藤尾録郎と田中三郎が伝習の資料を整理し刊行したもの。
 大蔵省による簿記の教育は打ち切られたが,希望者が後を絶たなかったため,その後も非公式に簿記伝習が続けられた。
 蔵書印の「銀行事務講習所」は1882(明治15)年に開設された銀行局直属の機関。
Ef / 23
銀行簿記例題解式 : 附半季決算法
 大蔵省銀行局編纂
 佐久間貞一, 1884(明治17).12
 4冊
 『銀行簿記例題』(Ef / 23)に基づき,その記入法式や半期決算法を示した書。銀行事務講習所の教師大野新十郎が凡例を書いている。
 決算は練習によって会得することが最良の学習法と考えられ,例題―回答の方式で出版されたものである。
Ef / 24


日本で最初の学校用簿記教科書
『馬耳蘇氏記簿法』
 1872(明治5)年の学制頒布後,国民全般を対象とする初等教育の普及を目指して,全国に小・中学校の設置が始まった。
 小・中学校における簿記教科書としては,当初,ちょうど出版されたばかりの福澤諭吉(ふくざわ ゆきち,1835〜1901)『帳合之法』や加藤斌(かとう なかば,1844〜1914)『商家必用』が使われた。しかし,小・中学校で用いるにふさわしい教科書を自ら編集刊行する必要を感じていた文部省は,手始めとして,師範学校教頭のアメリカ人スコット(Marion McCarrell. Scott,1843〜1922)らにアメリカの簿記書を選定させ,当時文部省六等出仕・簿記書担当であった小林儀秀(こばやし のりひで,1848〜1905)に翻訳を命じた。
 こうして, 文部省による初の学校用簿記教科書として出版されたのが『馬耳蘇氏記簿法(マルシュしきぼほう)』である。 原書はアメリカ人会計士マルシュ(Christopher Columbus March,1806〜1884)著『A course of practice in single-entry book-keeping』および『The science of double-entry book-keeping』であり,特に複式記簿法は50年以上に渡って版を重ねた良書であった。当時の文部省は,一般に教科書の翻刻を許していたので,『馬耳蘇氏記簿法』も全国に様々な体裁の版が現れた。
 しかしながら,やはり初等教科書としては大冊に過ぎ,授業時間その他の事情に合わず,難易度も高かったため,日本の教育現場に即した,日本人による教科書の編集が急がれるようになった。その一方で,実用書としての『馬耳蘇氏記簿法』は,会社等の実務現場で広くかつ長く利用に供されている。
 明治初期刊行の簿記書には,書名中に「学校」や「教科書」とある簿記書は数多くみられ,当時,簿記学が初等教育において盛り上がりを見せていたことがうかがえる。
 明治初期の教科書の特徴は,単式簿記(小遣帳,金銭出納帳,仕入帳,売上帳など)から入り,その後に複式簿記への展開がなされている点である。これは『帳合之法』や『馬耳蘇氏記簿法』の応用であるとともに,初学者向けにわかりやすさ,入りやすさを求めたためと推測される。西川文庫の中にも,展示されているものの他,実際の小学校教師や師範学校教師自身が,より教えやすくするために執筆したものが多く見られる。
 明治中期から後期にかけては,簿記学が初学者において一定の広まりを遂げたことから,東京高等商業学校を中心とする教授らのより専門的な簿記書が発展していった。

馬耳蘇氏記簿法(単式) (マルシュしきぼほう)
 小林儀秀(小太郎)(1848〜1904)訳 ; C.C. Marsh著
 文部省, 1875(明治8).3
 2冊
 『A Course of Practice in Single-entry Book-keeping』の全訳。
 文部省がはじめて刊行した小中学校の記簿法教科書。単式,複式に分けて刊行されたうちの単式の部。
 Trial Balanceが試算表と初めて訳され,単式・複式という名称もこの本により広まったとされる。
 誤字が多く,版行途中で単式の部全3冊の予定を2冊に変更するなど,文部省が出版を非常に急いでいた様子がうかがえる。
Nishikawa / 11
馬耳蘇氏記簿法(単式) (マルシュしきぼほう)
 小林儀秀(小太郎)(1848〜1904)訳 ; C.C. Marsh著
 中村熊次郎, 1877(明治10)
 1冊
 文部省は,ようやく刊行した『馬耳蘇氏記簿法』を全国に広く行きわたらせるために,民間に翻刻を許したので,出版所8カ所以上の印刷・製本による異本が種々現存する。これは木版で出版された文部省版単式の部を銅版に改め,小さな洋本の体裁にしたもの。
 このほか,西川文庫では単式8種,複式4種,単複合本1種を所蔵している。
Nishikawa / 16
馬耳蘇氏記簿法試験問題 (マルシュしきぼほうしけんもんだい)
 高松久次郎編
 吉田直次郎, 1879(明治12).2
 『馬耳蘇氏記簿法』の例題だけを集めたもので,問題集の形式である。
 取引内容を箇条書きにし,検査問題に続く。巻末に回答が掲載されている。
Nishikawa / 51
記簿法獨學
 栗原立一著
 賣弘書林(片野東四郎), 1876(明治9).8
 初めて日本人が編集した小冊簿記書。
 金銭出納簿,日計簿,差引精算簿,総計算表を例示。本書はまだ縦書きで,日本数字を用いている。
 著者は愛知県師範学校教師であった。愛知師範学校は,校長の伊澤修二が記簿用筆算を文部省に建議するなど,当時の簿記学導入に熱心であったため,その先駆けとなったと思われる。
Eb / 380
小学記簿法独学
 城谷謙訳
 文求堂, 1878(明治11).12
 単記法(日記帳,金銭出納帳,元帳)から複式(総勘定差引帳)へ展開する内容。諸帳の金額に横書きのアラビア数字を用いている。
Nishikawa / 31
小学校用簿記学. -- 3版
 森島修太郎(1848〜1910)著
 金港堂, 1894(明治27).5
 商法講習所卒業生で,のちに助教となった森島修太郎が執筆した教科書。初版は1892(明治25)年。
 単記と複記に分かれ,例題を空の表に記入して回答する方法をとっており,その演習を通じて自然にその道理を会得できるようになっている。
 1886(明治19)年に確立した文部省教科書検定制による検定済。
Nishikawa / 213


Bryant=Stratton=Packard
 ブライアント(Henry Beadman Bryant,1824〜1892),ストラットン(Henry Dwight Stratton,1824〜1867),およびパッカード(Silas Sadler Packard,1826〜1898)は,アメリカで19世紀後半に普及した簿記書(Bryant=Stratton=Packard 簿記三部作と言われる)の共著者である。
 ブライアントとストラットンは,1853年,フォルソム(Ezekiel Gilman Folsom,1821〜1897)の専門学校を買収,Bryant & Stratton Schoolを設立,後にBryant & Stratton Chain of Business Schoolとして,アメリカのみならずカナダにも及ぶ50校以上からなる,連鎖商業学校(International Chain of Commercial Colleges)に成長させた。(フォルソム自身もその系列校であるAlbany Bryant & Stratton Collegeの校主となった。)
 パッカードは,各地で簿記教師をした後,Bryant & Stratton連鎖学校の一つであったNew York City Mercantile Collegeの校長を務め,後にここを買い取り,Packard's Business Colledgeを設立した。これが成功し,アメリカだけでなく,フランスやベルギーでのBusiness Schoolのモデルにもなった。
 Bryant=Stratton=Packard 簿記三部作とは,
Bryant and Stratton's common school book-keeping (1861)
Bryant & Stratton's national book-keeping (1860)
Bryant & Stratton's counting house book-keeping (1863)
であり,それぞれが何度も重版され,タイトルに「The new」を冠した新版が出版されている。
 簿記・会計に関する教科が大学の教育課程に導入される以前の段階にあって,商業の実務に就こうとする人達に対して簿記・会計の専門的知識を教授する場を提供した実業専門学校ないし商業専門学校の生徒に利用される教科書,特に彼ら自身が成功裡にその設立・運営に関わっていた連鎖的実業専門学校であるBryant & Stratton Schoolでの使用を企図として出版された簿記書であった。三部作は学習段階に応じたものであり,前二者は基本原理の学習を,後者は実務的応用を目指したものである。
 『Bryant and Stratton's common school book-keeping』の1871年版が,福澤諭吉(ふくざわ ゆきち,1835〜1901)の『帳合之法』の原書である。また,商法講習所でも『Bryant & Stratton's national book-keeping』とほぼ同内容とされる『Bryant & Stratton's high-school book-keeping』や『Bryant & Stratton's counting house book-keeping』が教科書として使用されるなど,日本の簿記学にも大きな影響を与えている。
 商法講習所設立のため招かれた教師ホイトニー(William Cogswell Whitney,1825〜1882)も来日前は系列校Bryant, Stratton & Whitney Business Collegeの校主であり,また,フォルソムとも親交があったという。西川氏は,「ホイトニーの渡来と商法講習所の設立は,Chain Systemの一環が日本に移植された観」がある,と述べている。

Manual of theoretical training in the science of accounts
 S.S. Packard(1826〜1898)著
 ホイトニーは,フォルソムの『Logic of Accounts』とともにこれを商法講習所の教科書として使用し,日本の複式簿記の導入に中心的な役割を果たした。
 展示資料は,米国議会図書館所蔵のものから,西川氏が複製したものである。
Nishikawa / 338
Bryant & Stratton's counting house bookkeeping
 H.B. Bryant, H.D. Stratton, S.S. Packard共著
 Ivison, Blakeman, Taylor, 1863
 アメリカ国内だけでなく、国外においても標準的な著作とされたもの。
 現代の課程でいえば中級の教科書に相当する。基本的簿記原理を習得した後,実践的業種別会計に習熟するための実践的な内容となっている。
 「東京商法講習所」所蔵印あり。
 なお,上(Ee / 104)は新版である。
Ee / 103 / A
The new Bryant & Stratton high-school book-keeping
 S.S. Packard, H.B. Bryant共著
 Ivison, Blakeman, Taylor, c1881
 内容的には,『Bryant & Stratton national book-keeping』(1860)とほぼ同じもの。
 高校・アカデミー向けに5セットの記帳例示からなる説明方式を採用している。
Ee / 102
The Bryant and Stratton business arithmetic
 H.B. Bryant, E.E. White, C.G. Stowell共著
 A.C. Armstrong, 1882, c1875
 「ブライアント及ストラットン商業算術書」として,商法講習所の教科書として使われていたもの。
 「東京商法講習所」蔵書印あり
SbD / 30
Bryant and Stratton's commercial arithmetic
 E.E. White, A.M. Meriam, H.B. Bryant, H.D. Stratton共著
 A. Mason, 1876
 「ブライアント及ストラットン商用算術書」として,商法講習所の教科書として使われていたもの。
 「東京商法講習所」蔵書印あり
SbD / 35
The logic of accounts
 E.G. Folsom(1821〜1897)著
 A.S. Barnes, 1873
 全16章から成る。そのうち第1章から第6章で述べられている原理論が注目される。
 価値を商業価値系統と観念価値系統に分けて分析し,値の交換についての9つの価値均衡等式を導き出した(「取引要素説」)。
 ホイトニーはこの著作を高く評価して商法講習所で教科書として使用し,その弟子たちにも強い影響を与えた。
Ee / 99


商業教育のはじまり
 1870(明治3)年に在アメリカ少弁務使(代理公使)に任ぜられた森有礼(もり ありのり,1847〜1889)は,留学生富田鐵之助(とみた てつのすけ,1835〜1916)と語らい,早くから商業教育の必要を訴えていた。
 帰国後森は,富田が学んだ連鎖商業学校のひとつ Bryant,Stratton & Whitney Business Collegeの校主ホイトニー(William Cogswell Whitney,1825〜1882)を教師として招き,1875(明治8)年9月,商法講習所を開所した。この商法講習所が一橋大学のはじまりである。
 開所当初の商法講習所は森の私設であり,校舎も銀座尾張町2丁目23番地(現中央区銀座6丁目,銀座松坂屋の一部)にあった鯛味噌屋の2階を借り受けたものであったが,1876(明治9)年5月,京橋区木挽町八丁目(現在の中央区銀座6丁目,新橋演舞場付近)の新校舎に移転した。1884(明治17)年3月,商法講習所は,東京府から農商務省に移管され,初の国立の商業学校として東京商業学校と改称された。
 ホイトニーは約3年に渡り商法講習所の教師を務めた。この間,アメリカ時代からの門下である高木貞作(たかぎ ていさく,1848〜1933)らを助教に,アメリカの連鎖商業学校の教課内容を取り入れ,英語の教科書ですべて英語で教育を行った。この教育を受けた森島修太郎(もりしま しゅうたろう,1848〜1910),成瀬正忠(なるせ まさただ,1856〜1942)らが,簿記書の翻訳,執筆を行い,また後進の指導にも尽力し,日本の会計史に多大なる影響を与えた。
 ここに展示した資料は,商法講習所時代の教科書と,ホイトニーの門下生たちが翻訳,執筆した簿記書である。商法講習所時代の教科書には,ブライアント(Henry Beadman Bryant,1824〜1892),ストラットン(Henry Dwight Stratton,1824〜1867),パッカード(Silas Sadler Packard,1826〜1898)らの出版した簿記書群が多く含まれる。特に,ホイトニーが高く評価していたフォルソム(Ezekiel Gilman Folsom,1821〜1897)の『Logic of Accounts』は,ホイトニーの門下生たちに大きな影響を与え,森島はこの書を元に『簿記学例題』を執筆した。


<商法講習所、W.C.ホイトニーとその周辺の簿記書>

鼇頭新撰商賣往來 (ごうとうしんせんしょうばいおうらい)
 成瀬正忠著
 東京府商法講習所, 1882(明治15).6
 商法講習所で使用していた習字帖を原本とし,商業活動に必要な心得を述べたもの。

Db / 106
外交志略
 [東京商法講習所], 出版年不明
 縦罫紙に墨書したものを袋綴にし和装にしたもので,
版心に「東京商法講習所」とあり。

明治文庫 / Xg / 89
簿記學
 [倉西松次郎著]
 [商法講習所], 1882(明治15).9
 倉西松次郎は明治12年に商法講習所を卒業してその教師となった人物。
 これは,その際の教材として使われた写本である。
 縦罫紙に墨書したものを袋綴にし和装にしたもので,版心に「商法講習所」とあり。

Eb / 97
官用簿記例題
 東京商法講習所, 1878(明治11)
 縦罫紙に墨書したものを袋綴にし和装にしたもので,

版心に「東京商法講習所」とあり。

Eh / 24   .
簿記學例題
 森島脩太郎著
 丸屋善七(賣捌), 1878(明治11).10
 三菱商業学校の教科書として書かれたもの。
 フォルソムの著書『Logic of Accounts』に基づき,価値受渡説を日本において紹介した始めである。
Nishikawa / 39
銀行簿記教授本
 高木貞作, 田村智航, 池田浩平共著 ; 今富清作合輯
 津田繩本店(專賣), 丸屋善七(賣捌), 1879(明治12).10
 商法講習所解雇ののち,ホイトニーが教鞭をとった

銀座簿記夜学校で使用された教科書。

Nishikawa / 48


複式簿記の誕生と発展
13世紀初頭〜14世紀末............................イタリア
 複式簿記は,地中海貿易で繁栄したイタリアの商業都市で,商業と銀行業の記録・計算の道具として実務のうちから誕生・発達し,15世紀に体系的組織を確立した。イタリア式簿記は,その後各国語に翻訳されヨーロッパ諸国に広まっていった。
 複式簿記を解説した世界最古の出版物がルカ・パチオリ(Luca Pacioli)の『スムマ』(1494)に含まれた簿記論といわれている。

16世紀〜17世紀................................オランダ
 16世紀以降,イタリアの商業都市の衰退に伴って,商業上の覇権が地中海から北部ヨーロッパ諸国に移っていく。オランダはフランドル地方の工業の隆盛を背景に17世紀初頭黄金期を迎える。1602年にオランダ東インド会社が成立し,株式会社という企業形態が興ってくる。
 このような経済的繁栄を背景に,簿記研究の中心もオランダの新興商業都市のアントワープやアムステルダムに移行した。
 ジャン・イムピン(Jan Ympyn)のオランダ最初の簿記書『新しい手引き』(1543)はフランドル語とフランス語によって刊行され,複式簿記論をヨーロッパ全体に普及させた。また,シモン・ステヴィン(Simon Stevin)は『数学の伝統』(1605)において年次期間損益計算を提唱,そこにはイギリス式貸借対照表の原形も見られ近代簿記法の祖といわれる。

18世紀〜19世紀前半.............................イギリス
 18世紀になって,北ヨーロッパにおける商権がイギリスに移り,資本主義経済が発達するに伴い,近代会計学がイギリスにおいて誕生する。
 18世紀後半から19世紀前半にかけて,産業革命により商業資本主義から産業資本主義の時代へと推移する。大規模企業による大量生産経営の出現,保険業・銀行業の開設がなされるが,これらの企業には,巨大な固定設備と莫大な資本が必要となる。そこで固定資産会計が重要な会計問題となり,この固定資産の期間損益計算への関連認識が複式簿記から近代会計学を成立させることになる。
 イギリスにおける会計学は,「会計士会計学」として展開するが,監査論分野における最初の体系的文献といわれる『監査人―その義務と責任』(1811)の著者ピックスレー(Francis Pixley)と監査及び会計の定本として会計学徒や実務家に大きな影響を与えた『監査論:監査人の実践マニュアル』(1892)のディクシー(Lawrence Dicksee)の2人はイギリス流会計士会計学の基礎を築いたといわれる。
 イギリスの会計士会計学は,その後,19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカへ移り,アメリカの会計学に影響を及ぼし,進化発展してゆくこととなる。

【参考文献】
 『会計史および会計学史』(体系近代会計学4).−中央経済社, 1979(昭和54)
 『会計学辞典』 第5版改訂増補版.−同文館, 2001(平成13)
 『歴史にふれる会計学』.−有斐閣, 1996(平成8)


<「スムマ」とパチオリ>

Summa de arithetica, geometria, proportioni et proportinalita
(算術・幾何・比および比例全書)
 Luca Pacioli(1445〜1517)著
 Venice, 1494 ed.; Yushodo,1989(Facsimile reprint)
 1494年にヴェネツィアで公刊された数学書であるが,世界最古の複式簿記書として知られている。ここに展示してあるのは,雄松堂が1989年に数量限定刊行したファクシミリ複製版である。
 縦31cm,横21cm,厚さ約5cm,308フォリオ,615ページからなる本書は「数学の部」および「幾何の部」の2部から構成されており,いわゆる『簿記論』と呼ばれる部分は,第1部9編第11論説『計算および記録に関する詳説』というタイトルの197フォリオ裏ページから210フォリオ裏ページまでの部分である。
 『簿記論』は36章からなり,財産目録の作成,日記帳,仕訳帳,元帳における処理,各勘定の取り扱い,決算といったことがらが記述されている。
 なお,本書の著者パチオリが複式簿記の創始者というわけではなく,『簿記論』は当時ヴェネツィア商人が使用していた簿記法を述べたものである。しかし,この『簿記論』こそは複式簿記書の原形であり,各国語にも訳されはかりしれない影響を与えた。
Eb / 1902

Nieuwe instructie ende bewijs der looffelijcker consten des Rekenboecks
(新しい手引き)
 Jan Christoffels Ympyn(1485?〜1540)著
 1543 ; Yushodo,1979(Facsimile reprint)
 オランダ最初の簿記書。1543年未亡人によってフランドル語とフランス語版が,1547年には英語版が出版された。
 全体的な例示を通じて複式簿記を分かり易く説き,パチオリによって説述された複式簿記論をヨーロッパ全体に普及させた。また,繰越商品勘定を設け,ここに口別損益計算から期間損益計算への萌芽が見られる。
EAe / 7 / 28
Auditors : their duties and responsibilities  (監査人:その義務と責任)
 Francis William Pixley(1852〜1933)著
 London, 1887
 監査論の分野における最も初期の体系的文献であり,後世にまで大きな影響を与えた。
 内容は,会社法の会計,監査規定,簿記及び会計報告書様式,財務諸表,監査の本質,監査人の義務と責任について論じている。
 著者は,当時の職業会計士に監査業務の重要性を説き,企業会計の普及と会計士の地位向上に貢献した。
Ed / 62
學課起源略説
 曾田愛三郎(?〜1891)著
 曾田愛三郎編集兼出版人, 1878.8
 当時の新しい諸学課の沿革を書いたもので,その一節「記簿法」によりパチオリの名前が初めて日本の文献に紹介された。
 1786年ライプツィヒで出版されたJohann Beckmann著『発達史への貢献』の英訳本の一章『イタリア簿記』の全訳であるといわれている。
 著者は,松江の士族。静岡で英学を修め,自由党系新聞記者として活躍した。
Nishikawa / 32


家計簿記書
 明治以前の近世期は,家業と家計が未分離で,主に一家の主人が家計も差配していた。明治初期の簿記書にもまだ「家計簿」という考えはなく,例えば豪農の家計を扱ったとされる『複式啓蒙記簿法楷梯』も,家業経営費と冠婚葬祭費が混在している。
 「家計簿」という考え方は,近代初期の家政書に登場するところから始まる。近世以来の衣食や育児への勤めに加えて,家計を取り仕切ることが女子の勤めとされることになる。
 一方で,家計簿成立の背景には近世から近代へかけての家業と家計の分離の進行があった。初期の家計簿記書は主に,簿記学者によって著述され,明治以降の日本が取り入れた複式簿記法を,家計にも当てはめようとするものであった。明治中期,簿記学校の流行の中で家計簿記を学科目とする学校も出現し,この時期の家計簿記書は教科書として著述されたものも多い。女子教育においては,明治初期に女学校・女子師範学校が設立されるが,その学科の中で記簿学が採用される。明治28年には家計簿記が家事科の一つとして位置付けられ,本格的な女子教育のための家計簿記教科書が記述された。
 しかし,簿記教育と実際の家計簿の普及とには,若干の乖離が見られた(女子に家計簿記があるにもかかわらず,この時期,主簿者も必ずしも女性ではない)。その結果,その繁雑さが問題視されることになり,家計簿記書や家計簿記の教科書の記述は次第に簡便さを強調するものに変化していく。家計簿自体が各家計の規模に規定されるという特色を持っていたこともその一因である。単式への回帰と家計規模に合わせた記述へという方向が明治20年代末にはすでに見られる。


<いろいろな簿記書>

複式啓蒙記簿楷梯
 石井義正編 ; 白井屑校
 北畠茂兵衛, 1877(明治10).12
 日本人が最初に編集した複式簿記書。豪農の家計を例題に,日本数字縦書きの仕訳日記帳(日記という)と元帳(原簿という)との記帳例と計算表を示し,日本で最初の振替伝票を使用。
 著者石井義正はブラガの講習を受けて西洋簿記を学び,大蔵省記録寮簿記課,伝票課等に勤めた。
Nishikawa / 17
日用簿記法 : 完
 Charles Hutton著 ; 宇佐川秀次郎訳
 [出版者不明], 1878(明治11).1序
 Charles Hutton著 『A complete treatise on practical arithmetic & book-keeping』の簿記部分を抄訳したもの。
 日本で最初にアラビア数字を用いた簿記書のひとつ。
 宇佐川秀次郎(1849〜1881)は,慶應義塾を卒業し,大蔵省紙幣寮に入り,『銀行簿記精法』の事務に携わる。銀行学局局長等を歴任した。
Nishikawa / 20
尋常簿記法
 [Charles Hutton原著]
 [出版者不明], 1882.4
 『日用簿記法』の原稿。『日用簿記法』が出されるまで,永らく写本のまま,大蔵省銀行学局,銀行学伝習所での教科書として用いられていた。
Nishikawa / 332
鎭臺所屬會計部小目問答
 川口武定編述
 陸軍省第五局, 1876(明治9).6
 熊本鎮台附二等司契であった川口が,陸軍の経理規則である『在外会計大綱条例』の解説として書いたものが認められ,陸軍の会計本部である第五局から出版されたもの。
 経理官の職務権限や経理事務要領等を示し,日記,原帳,その他補助簿及び毎日金貨出納計算表等による複式簿記手続が定めてある。
 川口は,後に,陸軍経理学校校長,海軍主計総監を歴任した。
Nishikawa / 10
各廰計算記簿規定
 [大蔵省], [1886(明治19)]
 明治11年9月30日付太政官第42号達により官庁簿記は「複式化」したが,この規定は明治19年に改訂された時のもの。この改訂によって,夥しい数の「制式帳簿」が開設されている。
 官庁簿記の「複式化」は,明治22年まで続き,翌23年制定の会計法及び会計規則によって終焉した。
Eh / 17
臺所勘定表
 植木綱次郎著
 [出版者不明], 1875(明治8).4
 日本で最初の印刷された実用家計簿。月毎の『台所勘定表』と年末の『台所総勘定表』から成っている。
 「此表ハ元台所勘定帳なれハ台所の入用ハ一目瞭然なり店あきなひや納戸雑用も此表に倣ふて作るべし」。
Nishikawa / 8
(毎家必要)家内用帳合
 甲斐織衛著述
 甲斐織衛, 1879(明治12).12
 女学校の参考書として編集されたもの。
 甲斐織衛は慶應義塾出身,神戸商業講習所支配人。
 「豫算の目的を誤らす家計能く整ふの功は多くは婦人細君たるものの内政宜しきにあるものなり」 「女學校の設け漸次盛んにして學ぶ可き課目略具はるが如しと雖も未だ帳合學を教ふるもの甚だ少なきは遺憾と云ふ可きなり」と序文にある。
Nishikawa / 47
(實地應用)家計簿記法
 藤尾録郎著
 經濟雜誌社, 1887(明治20).10 再版
 文部省検定済高等小学校教科用図書。複式家計簿書であり,女学校の教科書として広く普及した。
 藤尾録郎は,銀行事務講習所所長心得,東京高等商業学校附属銀行専修科教授を勤めた。
 田口卯吉序に「近日此書を著はして婦女子の習學を促されたり」とあり,自序には,「世の妻女諸君に切望するところは。 一家の経済を整理すべき計算簿記を心得られんこと是なり。」とある。
Nishikawa / 119
簿記学階梯
 森下岩楠, 森嶋修太郎合著
 東京 : 森下岩楠 : 森嶋修太郎, 1878.10
 郵便汽船三菱会社社長の岩崎弥太郎(1835〜1885)が設立した三菱商業学校(1878年設立,1884年廃止)の校長森下岩楠と教員であった森島修太郎が,その教科書として書いたもの。
 森下,森島は両名とも福沢諭吉の門下であり,森島は,慶應義塾から商法講習所に移り,商法講習所助教を勤めたのち三菱商業学校に移っている。
 また,三菱商業学校の生徒には,岩崎久弥(三菱財閥の3代目)や,岩下清周などもいた。
Nishikawa / 37


西川幸治郎氏と西川文庫
 西川幸治郎氏は1920(大正9)年,神戸高等商業学校(現・神戸大学)を卒業後,実業界に入りましたが,仕事のかたわら明治初期日本の簿記関係資料の収集を「楽しみ」とし,わが国会計史,簿記史の研究家としても早くから高名でした。その間,西洋式簿記(複式簿記)の導入に貢献した西洋人のひとりとして,一橋大学の前身である商法講習所最初の教師W.C.ホイトニーに関心を持ちました。
 ホイトニーは当時アメリカ合衆国ニュージャージー州ニューアークで商業専門学校を経営し,成功も収めていましたが,商法講習所を設立する森有礼の招きに応じて1875(明治8)年に来日し,開学準備から職を退く明治11年まで本学に対する尽力は並々ならぬものでした。
 西川氏は本学に在籍されたことはありませんが,ホイトニーと本学が簿記・会計教育に果たした多大な役割を評価し,折に触れ『一橋論叢』等に寄稿されたり蔵書の一部を寄贈されたりしました。附属図書館大閲覧室に掲げられているホイトニーの肖像画(中山正美画伯)も,1961(昭和36)年に西川氏から寄贈されたものです。
 そして,1982(昭和57)年,簿記・会計史の研究者にとって垂涎の的であった西川氏のコレクションが,本学に寄贈されることになりました。受贈にあたって,本学附属図書館所蔵との重複を調べたところごくわずかにすぎず,これにより,本学が所蔵する明治期簿記書は飛躍的に充実することとなりました。
 西川氏は,1971(昭和46)年,日経・経済図書文化賞を受賞した著書『日本簿記史談』のむすびとして,自身のコレクションについて以下のように記しています。

 私の簿記書収集は明治初年から十九世紀末(明治三十三年)までの約三十年間―日本における西洋簿記草創期に当たる―のおもなる出版簿記書,その新・旧版,一部の原稿,著者関係資料,写真,手記等を含み,近頃海外でもエクセレント・コレクションの一つといわれるようになった。
 原資料所有の意義は複写技術の進歩によって次第に低下してきているが,収集の魅力はむしろ資料発見の喜びにある。私にも多くの忘れえない喜びがあった。この書にはそのおもなるものについて述べたのだが、発見した事実とともに,収集研究の喜びの幾分を伝ええたとすれば幸いだと思う。

【参考文献】

 『西川孝治郎文庫目録』 一橋大学附属図書館, 1989(平成1).5
 『日本簿記史談』 同文館, 1971(昭和46).1

西川幸治郎氏年譜

1896(明治29)年 大阪府に生まれる。
1920(大正 9)年 神戸高等商業学校卒業,三菱商事株式会社に入社。
1931(昭和 6)年 三菱石油株式会社に転籍。
1939(昭和14)年 三菱商事株式会社に復し経理部長,整理部長等を歴任。
1950(昭和25)年 再び三菱石油株式会社に移り取締役経理部長,財務部長,監査役,
  千代田化工建設監査役等を歴任。
1962(昭和37)年 慶応義塾大学商学部講師に就任。
1964(昭和39)年 日本大学商学部教授に就任。
1971(昭和46)年 『日本簿記史談』にて第14回日経・経済図書文化賞受賞。
1980(昭和55)年 教職を退く。
1981(昭和56)年 The Academy of Accounting Historians 終身会員の称号を授与。
1990(平成 2)年 8月28日逝去,享年93歳。


西川幸治郎氏主要著作


 
 
『Origin of “cash method bookkeeping” in Japan / by Kojiro Nishikawa ; introduction by Kiyoshi Kurosawa』  Tokyo : [Science Council of Japan, Division of Economics, Commerce & Business Administration] , 1956
『明治初期簿記文献目録 : 明治二十年まで』  [西川孝治郎] , 1957.5
『W.C.ホイトニーと簿記』  Kojiro Nishikawa, 1959

 
『複製・パチョーリ簿記論 = Suma de Arithmetica Geometria Proportioni & Proportionalita : partial reproduction』  Moriyama Book Store, 1959.12
『V.E.ブラガと簿記』  Moriyama Book Store, 1960.12
『日本簿記史談』  同文館出版, 1971.1

 
『日本簿記史上における福澤諭吉』 (福澤記念選書 / 慶應義塾大学編 ; 10)  慶応義塾大学, 1973
『簿記ことはじめ解題』  雄松堂書店, 1981.9-1982.3
『日本簿記学生成史 : 文献解題』  雄松堂書店, 1982.6
 上記の書籍のほか,『会計』(森山書店),『企業会計』(中央経済社),『産業経理』(産業経理協会),『商学集志』(日本大学商学研究会),『一橋論叢』(一橋大学一橋学会)等の雑誌に多数の論文,記事を寄稿されている。

アラン・シャンド資料展観目録 : その簿記法を中心として
 西川孝治郎[編・序]
 [東京] : [明治大学], [1956.5]
 日本会計研究学会第15回大会における西川氏の報告「シャンド式簿記の起源」の一部として,1956(昭和31)年5月31日と6月1日に神田駿河台明治大学において行われた展示の目録。
土VI / 3563
明治初期簿記文献目録 : 明治二十年まで
 西川孝治郎著
 [東京] : [西川孝治郎], 1957.5
 日本会計研究学会第16回大会報告「日本簿記発達史の特長」の資料。
土VI / 3730

 ここに展示されている2点は,一橋大学所蔵土屋喬雄文庫のもので,即ち東京大学名誉教授土屋喬雄(つちや たかお,1896〜1988)の旧蔵書である。
 土屋文庫にはこの他にも西川氏関連の資料が含まれている。また,『アラン・シャンド資料展観目録』の序文で,西川氏は資料提供者のひとりとして土屋博士の名をあげている。

W.C.ホイトニーと簿記 = William C.Whitney and his influence on
  early development of bookkeeping in Japan
 西川孝治郎著
 Tokyo : Kojiro Nishikawa, 1959
 「一橋大学の母体である東京商法講習所が,明治初期において西洋簿記伝来の一つの関門となり,わが国簿記会計学,広くは一般商業学発展の上に大きな貢献をしたことはあまねく知られているが,その具体的事実はまだ明かになっていない。私はそれには商法講習所の最初の教師である米人William Cogswell Whitneyの事跡を調べる必要があると信じて,多年彼に関する資料を集収して来たので昭和三十三年五月,日本会計研究会第十七回大会においてその資料を展覧し,それに基づいてホイトニーがわが国簿記会計に与えた影響を報告した。」
〔本文緒言より〕
Az / 266
西川孝治郎文庫目録
 一橋大学附属図書館編
 国立 : 一橋大学附属図書館, 1989.5



巨大会計帳簿と簿記棒
日本郵船株式会社会計帳簿
 日本郵船株式会社は,明治18(1885)年9月29日(創業は同年10月1日),当時の郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の合併により,当初は政府の特許会社として運営されていた会社である。
 日本郵船の前身である郵船汽船三菱会社は,明治8(1875)年,慶應義塾の教師であった荘田平五郎を雇い,明治9(1876)年から既に西洋式の会計を実施し,明治10(1877)年には,「郵便汽船三菱会社簿記法」を制定,日本郵船にもこのルールが引き継がれている。
 昭和37(1962)年と平成14(2002)年の2回に分けて,日本郵船創業時の明治19(1886)年から昭和61(1986)年に至る会計帳簿類が,一橋大学に寄贈され,附属図書館に保存されている。1,357冊のうち,10kgを超える帳簿が101冊,中でも30kgを超える巨大帳簿は11冊(最大40kg)あり,とても一人で持てるものではない。
 また,明治期の会計帳簿類にはマーブル取りされているのもが多く見られるが,これには装飾のほか改竄防止等の目的もある。また,マーブル染を施した小口は埃などがつきにくく,染を行う際に明礬水が紙面に塗られるので,虫害もかなり防ぐことができるとも言われている。
マーブル 【marble】  (1)大理石。 (2)遊戯用のはじき石。おはじき。 (3)書籍や洋式帳簿などの小口・見返しなどに施す特殊な装飾模様。墨流しの方法で染めつける。また,そのような模様のある洋紙。
(岩波書店 『広辞苑』 第4版より)

簿記棒
 簿記棒は,帳簿に直線を引くための道具であり,丸定規(定木),ルーラーなどとも呼ばれた。
 簿記の線には,それぞれ意味があり,金額欄の赤の1本線は「合計線」といい,線より上の金額を合計したものが,合計線の下の行に書かれている。赤の2本線は「締切線」といい,記入の終わりを示している。斜線は「三角線」とも呼ばれているが,行が余り記入がない場合に引かれ,通常は金額欄ではなく摘要欄の方に引くものである。
 ここでは,文学の中から簿記と簿記棒が出てくるものを2点ほど取り上げた。

日本郵船株式会社 金銀出納帳
 第7・8期 ; 明治24(1891)年10月〜26(1893)年9月
 64×52×20cm ; 39kg
 裏表紙ラベルに「London : CLEMENTS, NEWLING & Co., Wholesale & Retail Stationers, Account Book Manufacturers, Commercial Printers, 96, Wood Street, Cheapside, London. E.C., Date when made, June 1891」とある。
 日本郵船株式会社の会計帳簿類は,総勘定元帳,日記帳,金銀出納帳(現金出納帳)等で構成されており,複式簿記であるがイタリア式ではなく,取引記録は,最初から普通仕訳帳としての日記帳,多桁欄を有する金銀出納帳(現金出納帳)への記入を介して,総勘定元帳に転記する分割仕訳方式,所謂イギリス式に準拠している。
 同社の明治期の会計帳簿類はイギリス製の巨大なものが多く,1冊1,000頁前後,重量20〜40kgもある。見返し,天地,小口の3方がマーブル取りにより装飾が施されている。
VY1 / 3 / 7-8
日本郵船株式会社会計帳簿目録 : 明治18年〜昭和19年
 一橋大学産業経営研究所編
 国立 : 一橋大学産業経営研究所,1978.12
 36p ; 26cm. ‐‐ (特殊文献目録 ; 4)
 1962(昭和37)年,本学附属図書館に日本郵船株式会社から445冊の会計帳簿類が寄贈されていたが,1977(昭和52)年に本学産業経営研究所(現イノベーション研究センター)に管理換えが行われ,再整理されこの冊子目録が作成された。
 この目録は,元帳173冊,金銀出納帳88冊,日記帳184冊を年代順に配列しており,資料の形態の特異性から,通常は記載しない資料の厚さや重さ等も記載している。
EAa / 4
簿記棒
 長さ 約380mm, 直径 約28mm, 重さ 約380g
 外岡諒三郎氏寄贈
 会計帳簿等を書く際に線を引くために用いた道具で,丸定規(定木),ルーラーともいう。昭和初期頃まで使われていた。
 『簿記學辭典』(Nishikawa / 312)によれば,「其の太さ、長さ一定せざれども,實際使用に便なるは大さ直径一吋,長さ十五吋のものとす。材料は樫等の如き木質堅靱にして密に且つ反りの生ぜざるを良しとす。使用上重きを可とするが故に材料も成るべく重きものを撰ぶと同時に木材の中心に鉛を入れ目方を付するが如き手段をとることあり。」とある。
 展示品は,外岡松五郎氏が立教大学での講義で使用していたもので,御子息外岡諒三郎氏(昭和23年本学卒)から寄贈された。

簿記の栞
 天城米海著 ; 富田秋香畫
 東京 : 博文館,1904(明治37).4
 (少年商業文庫 ; 第6編)
 少年向け通俗商業書シリーズ『少年商業文庫』 第6編。
 内容は帳簿の必要性から,帳簿の見方,記入の仕方,会社の決算報告まで,複式簿記を分かり易く説明している。

Nishikawa / 305
放浪記
 林芙美子著
 東京 : 新潮社,1951(昭和26)
 著者が広島県の尾道高等女学校を卒業後上京し,職を転々と替えていた下積み時代を,日記形式で書き付けたもので,1928(昭和3)年女人藝術に連載された。
 簿記と簿記棒が登場するのは,大正11(1922)年頃,東京茅場町の「ヰワイ」という株屋での話の中である。
Pae / 70

人物誌
Luca Pacioli
ルカ・パチオリ (1445?〜1517)
 ルネサンス期イタリアの数学者であり,世界最初に出版された簿記文献の著者。
 1445年頃,テベレ川上流のボルゴ・サンセポルクロに生まれる。少年時代,同地出身の有名な画家兼数学者ピエロ・デラ・フランチェスカから数学の教育を受ける。
 1464年,商業の中心地ヴェネツィアヘ出て,豪商アントニオ・デ・ロンピアージ家の家庭教師となる。その時商業実務に関する知識を得ると共に有名な数学者ドメニコ・ブラガディーノから数学の教えを受ける。
 1470年,ローマに移り,画家,詩人,哲学者,音楽家,そして彫刻家のレオン・バッティスタ・アルベルティや画家のメロッツォ・ダ・フォルリと知り合う。この頃,フランチェスコ派の僧団に入団する。
 その後,イタリア各地を移り住み,フィレンツェ大学,ピサ大学,ボローニア大学,ローマ大学等で数学の講義をし,高い評価を得る。
 レオナルド・ダ・ヴィンチとも親交を結んでいる。

【写真】 : 『スムマ』本文1葉目の飾り文字。コンパスを持った僧形の著者パチオリが,自分の頭文字 の中に立って講義をしている図である。


William Cogswell Whitney
ウィリアム・C・ホイトニー (1825〜1882)

1825年
 
アメリカ合衆国ワシントン郊外ジョージタウンに生まれる。父William Whitney,母Pamelia Cogswell。
1846年エール大学に入学。ギリシア語,フランス文学を学ぶ。
1848年病気のため大学を中退。
1850年エール大学に再入学し,数学を専攻。同年卒業。
1852年
 
ニュージャージー州ニューアークのWesleyan Institute教授を経て,同地でBryant, Stratton & Whitney Business Collegeを経営する。
アンナ(Anna)夫人(当時20才)と結婚。
1855年にウィリス(Willis),1865年にクララ(Clara),1869年にアデレイド(Adelaide)の一男二女をもうけた。
1870(明治 3)年
 
11月1日,富田鐡之助,日本人として最初にホイトニーの学校に入学。続いて,高木貞作,数江三左衛門ら数名が入学している。
1872(明治 5)年駐米公使森有礼の勧めにより,日本渡航を決意する。
1875(明治 8)年
 
8月3日,ホイトニー一家横浜に到着。ひとまず,銀座木挽町の森有礼邸に入る。
9月13日,東京会議所がホイトニーを雇入。これを,森有礼私設の商法講習所に貸与する形とし約定書調印。雇入期間は5年,給料は年2,500円。
9月24日,銀座尾張町2丁目23番地に商法講習所を開設。
1878(明治11)年5月,商法講習所経費節約のため契約期間の途中で解職される。
11月,津田仙(津田梅子の父,農学者)が設立した銀座簿記夜学校に移る。
1879(明治12)年子息ウィリスの医学研究のため,ホイトニー一家は帰米。
1882(明治15)年8月29日,再来日の途上ロンドンで没。Hampstead墓地に埋葬。
【写真】 : 『W.C.Whitney肖像』 (部分)
中山 正実 画, 117×156cm

一橋大学附属図書館所蔵(西川孝治郎氏寄贈)


 1961(昭和36)年10月22日,一橋大学創立86周年記念として,中山正美画伯の筆になるW.C.ホイトニーの肖像画が贈られた。


福澤  諭吉
ふくざわ ゆきち (1835〜1901)
 幕末明治の啓蒙思想家。
 1835(天保5)年(※)中津藩大坂蔵屋敷に生まれる。
 1858(安政5)年築地鉄砲洲の江戸中津藩(奥平家)屋敷に蘭学塾を開き,慶応4年(1868)慶應義塾と改称,後に慶應義塾大学となる。
 1860(万延元)年幕府使節団に随行して渡米,また1861(文久元)年,1867(慶応3)年にヨーロッパ,アメリカをそれぞれ歴訪した。
 主な著書に『西洋事情』(1866),『学問のすすめ』(1872-76)等がある。
 我が国最初の簿記書『帳合之法』を刊行した福澤だが,のちには「書物は売れたれども,実地に用いて帳面を改革したる者は少なし。聊か落胆せざるを得ず」として,簿記のことは弟子に委ね,自らは『学問のすすめ』など啓蒙的著述に専念するようになった。

 ※ 天保5年は概ね西暦1834年にあたるが,福澤の生まれた旧暦12月12日は,新暦で1835年1月10日になる。


富田  鐡之助
とみた てつのすけ (1835〜1916)
 仙台藩士  勝海舟門下となる  米国に留学して経済を学ぶ
 森有禮と謀り  ホイトニーを商法講習所に招くことに盡力  同所の創設に奔走した  明治十七年渋澤榮一  益田孝と共に東京商業学校商議員となり永く同校教育の充実に貢献した
 外交官として米英に勤務ののち明治二十一年日本銀行総裁となる  ついで貴族院議員  東京府知事を歴任  富士紡績会長  横浜火災保険社長として経済界に活躍  女子教育にも熱心であつた  信念の人として終始した
 大正五逝去  享年八十一歳
撰文  渋澤輝二郎氏
昭和五十八年六月

     〔以上,附属図書館所蔵肖像レリーフ撰文より〕

 上記撰文の「米国に留学」とは,1867(慶応3)年,勝の子息小鹿(ころく)に従っての渡米であり,「経済を学ぶ」とは,1870(明治3)年のBryant,Stratton & Whitney Business Collegeに入学しホイトニーの門下となったことを指している。


加藤  斌
かとう なかば (1844〜1914)
 越前福井の生まれで幼名溝口辰五郎。幼時より橋本左内に親しく師事し,蘭学を学んだ。
 維新後は横浜で英語を習得しながら貿易にも通じるようになる。のちに工部省に入って工学寮の学監となり,この頃『商家必用』を著わした。その後海軍省に移り,退官後は横浜正金銀行等の事業に関係した。
 本書序文の執筆者の一人は,旧福井藩主松平慶永(春嶽)で,大名自筆の序文は珍しい。
 その他の著書に『独逸海上保険法』(1879)がある。


Alexander Allan Shand
アレクサンダー・アラン・シャンド (1844〜1930)
 大蔵省の所謂「御雇外国人」として銀行簿記制度立案に携わった。我が国初の複式簿記書『銀行簿記精法』は彼の講述が元になっており,その主簿組織は「シャンド式簿記法」として広く一般実業界にも普及した。

【写真】 : 晩年のシャンド
 (土屋喬雄著『シャンド : わが国銀行史上の教師』
  東洋経済新報社, 1966  口絵より)。
1844年2月11日,スコットランド・アバディンの良家に生まれる。
1866(慶応 2)年
 
22歳の時にはすでに,Chartered Mercantile of India, London & Chinaの一員として横浜にいた。
1872(明治 5)年7月8日,わが国銀行制度創建のために招聘され,紙幣寮に雇入。
10月1日,大蔵太輔井上馨と雇入条約書を交わす。名義は,紙幣寮附属書記官,期間3年,月給初年度450円(以後500円)。
1873(明治 6)年
 
銀行簿記脱稿,大蔵官員,第一国立銀行員に講義。8月に翻訳ができ,12月に『銀行簿記精法』として刊行。
8月,箱根に避暑中男児モンタギュー急死,芦の湖畔万福寺に葬る。
10月,病気のため一年英国に帰る。
1847(明治 7)年10月28日,米国汽船グレイト・リパブリック号で再来日。
10月1日,紙幣寮外国書記官兼顧問長として雇入。
1875(明治 8)年10月,得能紙幣頭に従い京阪地方銀行を検査。
1876(明治 9)年10月,国立銀行条例改正意見書を提出。
1877(明治10)年2月7日,紙幣寮改革のため解職,褒賞として金700円を送られる。
3月帰英。
この年,『銀行大意』及び『日本国立銀行事務取扱方』発行される。
1878(明治11)年ロンドンのアライアンス銀行に入る。
1918(大正 7)年パース銀行取締役を辞任,南英チャドレイに隠退。
1930(昭和 5)年4月12日,パークストンで死去。享年86歳。


高木 貞作
たかぎ ていさく
(1848〜1933)
森島 修太郎
もりしま しゅうたろう
(1848〜1910)
成瀬 正忠 (隆蔵)
なるせ まさただ
(1856〜1942)
 アメリカ時代のホイトニーの教え子の一人であり,帰国後,商法講習所や銀座簿記夜学校でホイトニーの助教をつとめた。

 1877(明治10)年3月の商法講習所第一期卒業生のひとりで,卒業後に商法講習所の助教から三菱商業学校の教師に就任した。

 森島修太郎とともに,商法講習所第一期卒業生のひとりで,卒業後も引き続きホイトニーの助教として生徒を教えた。後に教頭兼幹事の後,大阪市立大阪商業学校長となった。


林  芙美子
はやし ふみこ (1904〜1951)
 1904(明治37)年,山口県下関市田中町の錻力屋の2階で生まれたという。
 広島県の尾道高等女学校を卒業後上京。職を転々と替えたすえ,自伝的作品『放浪記』で名を成し,抒情と哀愁をたたえた多くの作品を残した。
 その他の代表作に『清貧の書』 『晩菊』 『めし』など。
 なお,生年及び生地については,1903(明治36)年,福岡県門司市(現在の北九州市門司区)生まれという説もあるが,標記は1949(昭和24)年新潮社刊『放浪記』(林芙美子文庫)の著者あとがき(昭和24年10月14日下落合にて)及び1941(昭和16)年改造社発行の『林芙美子全集』(新日本文学全集)の著者年譜によった。また,昭和28(1953)年角川書店刊『林芙美子集』(昭和文学全集)の年譜には,「明治37年12月31日生まれで1歳」と記されている。