複式簿記がやってきた!

明治初期簿記導入史と商法講習所
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ホイトニー門下

ホイトニーのもとで学んだ日本人たちの中から、フォルソムの訳書や、その影響を受けた著書が次々と生まれた。


富田鉄之助

高木貞作


森島修太郎

井田忠信

数江三左衛門

成瀬隆蔵(正忠)

上野栄三郎

図師民嘉 (1854-1922)

倉西松次郎

田鎖綱紀



富田鐡之助(1835-1916)

Fc-82
 1835(天保6)年10月16日仙台に生まれる。名は實則、鐡耕と号す。
 旧仙台藩士で、勝海舟の門下として、慶應3年勝の子息小鹿に従ってアメリカに渡る。
 1870(明治3)年11月、ホイトニーが校長をしていたニューアークのBryant, Stratton & Whitney Business College の学生となり、ホイトニー夫人のアンナに英語を教わり、ホイトニー来日に尽力した。
 明治5年領事心得となり、ニューヨーク在勤副領事、上海総領事等を歴任、明治15年に日銀副総裁、明治21年第2代日銀総裁となり、明治23年退職後貴族院議員、明治24年東京府知事となり、明治27年富士紡績会社の創立に参与するなど実業界に貢献する。
大正5年2月27日没。享年82才。 書名=銀行小言 / 富田鐡之助編
出版事項 = [出版地不明] : 蓼雲書屋, 1885.10
形態=2冊 ; 23cm
[ 所蔵事項 ] *Fc**82**


高木貞作(1848-1933)

ニューアークでのホイトニーの教え子の一人。
 旧桑名藩士、嘉永元年(1848)11月23日、桑名元赤須賀で生まれる。本名を剛次郎、神戸四郎の変名も用いていた。服部半蔵(十二代目)のいとこにあたる。
 慶応4年(明治元年、1868)に21歳(数え年)の時に、桑名藩家老吉村権左衛門宣範を暗殺したといわれ、会津若松で桑名藩軍に合流、その後新選組に属して、最後の五稜郭の戦いに参戦し、敗北。
 明治2年11月に東京へ船で護送されて、身柄は桑名藩に引き渡された。
 明治3年に渡米、いったん帰国し、明治5年に開拓使留学生(大蔵省派遣)として、再び渡米。
 アメリカではニューヨークで税関事務の見習いをした後、ホイトニーの学校に入学しび、明治8年に帰国した。
 帰国後、商法講習所の最初期にホイトニーの助教を勤め、後、津田仙の銀座簿記夜学校でホイトニーと共に教えている(右は、その時の教科書)。
 明治11年には東京の第十五国立銀行(現在のさくら銀行の前身の一つ)に入り、明治15年には横浜正金銀行(現在の東京三菱銀行)へ移り、明治25年から27年までニューヨーク出張所  主任を務め、のち神戸支店支配人になり、明治31年1月に依願退職、その後、再び第十五国立銀行に移り、支配人を務め、、昭和8年(1933)1月14日に86歳で東京府玉川村(現在の東京都世田谷区)で亡くなった。
(桑名市のページ(http://www.city.kuwana.mie.jp/)を参考にしました。)

書名=銀行簿記教授本 : 完 : 簿記夜學校 / 高木貞作, 田村智航, 池田浩平, 今富清作合輯
出版事項=東京 : 高木貞作、東京 : 津田繩本店 (專賣)、丸屋善七 (賣捌) , 1879.10
形態=2, 10, 144, 25p ; 20cm
[ 所蔵事項 ]Nishikawa***48**



森島修太郎 (1848-1910)

商法講習所の第一回卒業生で、明治10年卒業後、母校の助教として、簿記を担当した。明治11年に辞し、新設された三菱商業学校の運営に参加した。
そこで教科書としてフォルソムの簿記書をもとにした「簿記学例題」を執筆した。なお、森島は商法講習所入学前、慶應義塾で福澤諭吉に学んでおり、同じ福澤門下の森下岩楠(三菱商業学校校長)との共著「簿記学階梯」(Nishikawa-37初版、Nishikawa-38再版)は「帳合之法」の影響を受け、ブライアント、ストラットンの著書「Counting House Book-keeping」等を参照して書かれたものである。
13年1月に商業会社を離れて、三菱会社の経営に参加したあと、再び高等商業学校で教職につき、「商業算術書」や「簿記学」、「小学校用簿記学」等を著した。

 
書  名 = 簿記學例題 : 完 : 三菱商業學校 / 森島脩太郎著
別書名  = VT:簿記学例題 : 完 : 三菱商業学校
出版事項 = 東京 : 森島脩太郎
       東京 : 丸屋善七(賣捌) , 1878.10
形  態 = 3, 3, 80p ; 19cm
著  者 = 森島,脩太郎(1848-1910)||モリシマ,シュウタロウ
[ 所蔵事項 ] 118050896 国立 書庫 Nishikawa***39**
ほかに Nishikawa-40(再版1979年)、 Nishikawa-41、Ee-32E(訂正版1979年)、 Nishikawa-42、Ee-32、Ee-32A(訂正再版1987年)、 Nishikawa-43(訂正3版1989年)、 Nishikawa-44(訂正6版1996年)、 Nishikawa-45、Ee-32C(訂正8版 1901年)も所蔵。

内容:序文において伊藤銓一郎(三菱商業学校教師、福澤門下)が

「…森島氏其生徒授業ノ餘暇、米人イー、ヂー、ホルソム氏著、簿記法書中殊ニ實際ニ的切ナル例題ヲ抄譯シ傍ラ氏カ多年の實験ヲ録シテ簿記学例題ト名ケ…」

としており、凡例にも森島自身1873年出版のフォルソムの著書(Logic of Accounts…)に基づいている旨述べている。フォルソムの価値受渡説を日本において紹介した始めである。価値交換の理論を「開業三類結果十三様ノ変化」として説明し、原著にある天秤図の各部分の名称が、巧みに翻訳されている。原著の例題の人名等は森島、伊藤などに改められている。

成立、出版:明治11年三菱商業学校の教科書として書かれ、表紙にも横書きで「三菱商業学校」とある。
幾度も訂正版が発行され、手形支払日、用語や語句が修正されている。明治20年の訂正再版からは、表紙の「三菱商業学校」の文字がとれ、中の頁に「明治21年1月19日 文部省御検定済」とあり、このころには、一商業学校の教科書から広く世に読まれるようになっていったことが推測される。

nishikawa-39


成瀬隆蔵(正忠)

安政3年12月、静岡に生まれる。
 最初、慶應義塾に学ぶが、途中で、商法講習所に転じ、森嶋脩太郎とともに、商法講習所第一回(明治10年3月)の卒業生となる。ともに、卒業と同時に助教心得を命ぜられ、明治11年3月森嶋が三菱商業学校へ転じた後、助教となる。
 東京高等商業学校教頭兼幹事を務め、明治22年、欧米各国の商業教育を視察、その間パリ万博に出品されていた本邦教育関係の説明を行っている(パリ万博には、東京商業学校からも出品している。 詳細は、岩本吉弘「パリ万博と高等商業学校 : 図書館の古書類から」『鐘』No.30(1996.4)を参照)。
 明治25年大阪市立大阪商業学校長となり、明治28年、上海紡績会社の総支配人となり、三井家同族会主事となる。
 昭和17年2月1日没。享年89才。
 右は、商法講習所が出版したもの。


書  名 = 鼇頭新撰商賣往來 : 全 / 成瀬正忠著
出版事項 = 東京 : 東京府商法講習所 , 1882.6
形  態 = [1], 16丁 ; 23cm
注  記 = 和装, 袋綴
著  者 = 成瀬, 正忠 <>
[ 所蔵事項 ]
Tsuchiya**II*353** 準貴重資料
*Db**106** 準貴重資料

Db-106(1) Db-106(2)

mercury
明治20年頃、ベルギー人教師アーサー・マリシャル(Arthur Marischal)と教頭成瀬隆蔵の発案により定められた校章。



図師民嘉 (1854-1922)

明治8年商法講習所開設時に入学。9年に中途退学して渡米し、簿記法を研究した。11年に帰国後は、第一国立銀行、12年に工部省に転じ権少書記官となった。そこには会計担当としてイギリス人オルドリッチ(Arther Stanhope Aldrich, 1840-1908)がいた。14年に「簿記法原理」を出版。18年に鉄道事務官となって以降は42年鉄道院経理部長で退職するまで、主に鉄道会計の整備に尽力した。

書  名 = 簿記法原理 / 圖師民嘉抄譯||ボキホウ ゲンリ
出版事項 = 東京 : 圖師民嘉 , 1881.9
       東京 : 和泉屋市兵衛 : 甘泉堂(發兌)
形  態 = 1冊 ; 19cm
注  記 = 書名の上部に次の記入あり: Teach subjects, and not books; principles more than facts. Knowledge is a treasure; but practice is the key to it. Books alone can never teach the use of books.
著  者 = 圖師, 民嘉(1854-1922)||ズシ, タミヨシ <DA03931861>
 [ 所蔵事項 ] 118111088T 国立 準貴重資料(貴重資料室) *Eb**94**  
 Nishikawa-68は再版(1886.6)

内容:フォルソム簿記書「Logic of accounts…」の抄訳。扉頁の英文の諺は「商用簿記法初歩」の欄外にあった格言からの転載である。かなり長い緒言のあとに「価値」関する始めの6章が完訳されている。表紙および第6章には、フォルソムの秤の図があり、各部分の訳が前述の森島のものとは若干異なっている。(Resource:有物→負債)



その他ホイトニーの直弟子が書いた主な簿記書(「ホイトニーと米系簿記の伝来」より)

  • 倉西松次郎 簿記学 明治15.9  Eb-97
  • 田鎖綱紀  英和記簿法字類 附録帳合之志留邊 明治11.8 Nishikawa-33
    • 小学記簿法 明治11 
  • 佐藤永孝  簿記法大意問答 全 明治12.9 Nishikawa-50 
    • 簿記法原理問答 明治20 
  • 上野栄三郎 簿記法初歩 全 明治12.2 Nishikawa-46, Ee-44 
    • 小学記簿法教授本 明治13.10 
  • 三輪振次郎 簿記法初歩解式 明治13.3 Nishikawa-61
  • 井田忠信  簿記學捷徑 明治12.4 Nishikawa-52 (Bryant & Stratton's Counting House Bookkeeping の訳)

 その後の明治簿記史は、商法講習所から明治18年の高等商業学校創設に伴い、新たな局面を迎えることになる。そのことは黒澤清『日本会計制度発達史』第4章「明治簿記史の潮流」に詳しい。以下では本書を参考に、簿記から会計への流れについて簡単に触れておく。
 明治18年の高等商業学校創設以後、各地に文部省管轄の高商が設立され、簿記教育の中心となった。一方で中小企業のための私設の簿記学校が全国的にできて、実用向の簿記教育が平行して行われるようになった。
黒澤氏の説では、高等商業学校第2回卒業生下野直太郎の「簿記精理」の発行によって明治簿記史は第二段階を迎えた。その理由は「この書によってはじめて日本人の独自の発想による簿記原理の一端が表明された」ためである。
   簿記精理 : 第1編 / 下野直太郎著述  東京 下野直太郎,  1895.4   Eb-82
下野は当時主流であったフォルソムの「受渡説」から脱皮して、複式簿記の原理的基礎は交換、貸借および損益の3つの計算要素から成
り立っているとする「計算要素説」を生み出した。これ以後の明治簿記界における計算要素説の影響は大きく、佐野善作や東奭<◆U596D◆>五郎、
吉田良三等の著書にも受け継がれている。

その後、明治43年の吉田良三の「会計学」(同文館 1910 Eb-43)出版及び大正6(1917)年の日本会計学会創立前後に、明治簿記史から会計学の時代へと移行した。簿記は、「会計学」の一部分として組み込まれていった。吉田は下野の「計算要素説」とハットフィールド会計学を融合して、「取引要素説」を完成し、日本会計学の創設に貢献した。
 会計学界を担った人材の多くは、高等商業学校関係者である。日本会計学会を設立したのも前述の東,下野らであった。
 ホイトニーが商法講習所で伝えた西洋簿記は、高等商業学校を経て日本の会計学の源流となったといえる。

参考文献

  • 西川孝治郎「ホイトニーと米系簿記の伝来」 『企業会計』 1955  7(13)
  • 西川孝治郎「簿記史談(5)早い簿記著者のはなし」 『産業経理』 1958  18(8)
  • 三好信浩『日本商業教育成立史の研究』 風間書房 1985.3
  • 久野光朗『アメリカ簿記史』 同文館 1985.4
  • 神戸大学会計学研究室編『会計学辞典』 同文館出版 , 1984.4
  • 黒澤清[ほか]編集『会計学辞典』東洋経済新報社 , 1982.10
  • 西川孝治郎『日本簿記史談』 同文館出版 1971.1
  • 西川孝治郎『日本簿記学生成史』 雄松堂書店 1979.9
  • 黒澤清『日本会計制度発達史』 財経詳報社 1990.10

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