複式簿記がやってきた!

明治初期簿記導入史と商法講習所

三菱と簿記、そして日本郵船へ(巨大帳簿)

1 三菱の発祥

岩崎彌太郎  1870(明治3)年11月2日(陰暦10月9日)高知藩の権少参事岩崎彌太郎(1835〜1885【写真右】)は、藩主山内容堂(豊信 1827〜1872)の創立した大阪西長堀商会(開成館大阪出張所)を藩船3 隻とともに引継ぎ、土佐藩士たちにより、土佐開成商会を設立しました。翌月には九十九(つくも)商会と改称しています。

 九十九商会の主な事業は汽船廻漕(かいそう)業でした。高知・神戸間、東京・大阪間の貨客輸送のかたわら、外国商館や大阪商人との物産の売買、それに紀州藩から取得した炭坑の経営も行っていました。

 1872年に三川商会、1873年に三菱商会、1875年に三菱汽船会社と改称しています。ここまでは、岩崎彌太郎のまったくの個人事業でしたが、政府の海運振興策により三菱に助成を与えると同時に種々の制限を受けることとなり、私企業的性格を一変、郵便汽船三菱会社と改め、新発足しました。  


2 三菱と簿記

「三菱財閥の成立は、わが国財閥の中でも最も新しい。しかるに複式簿記採用については、三菱がわが国財閥中最も古い―早いのである。」(『簿記史談』p.347より)
 

以下、『三菱社史』明治10年より、冒頭部分を掲出:

[諸願窺御指令綴]

今般別冊之通簿記法制定候條此旨相達候事
 但運賃勘定簿記法並各支社勘定簿記法 ○簿法の間記ヲ脱スルカ ノ儀ハ追テ制定頒布可致事
十年七月廿六日
三菱會社長
岩崎彌太郎
用度局
事務長中

郵便汽船三菱会社簿記法

第一章 勘定之定規
第一條
本社會計年度ハ年首ヨリ年末ニ至ルヲ一周年ト定メ一月一日ヨリ六月三十日迄ヲ以テ前半期トシ七月一日ヨリ十二月三十一日迄ヲ以後半期トス

第二条
各船及各財産毎ニ一ノ勘定ヲ設ケ毎件之損益ヲ明ニスベシ

(以下略)

 第1章が17條、第2章 「帳簿の定規」が14條からなっています。

 日本の簿記文献としても、これより前には、4・5種しかなく、 その内容は、わが国で最も早い固定資産原価償却の実施や、貯蔵品に予定価格を用いたり、独自平均元帳を使用する例を含み、非常にすぐれたものです。
 この規定は、その後何度も修正され、明治18年の日本郵船会社設立の際の経理規定の基礎となりました。

 この『簿記法』(経理規則)を作成したのは、荘田平五郎(1847-1922)です。

 明治8年9月25日、三菱は、政府の海運助成に関する命令書を受け、それにより、内務省等に会計の月報を提出、検査を受けることになりました。  明治9年頃までの帳簿を見ると、漢数字の横書きでアラビア数字は使われていません(早稲田大学所蔵の大隈文書の中に、当時三菱が官庁に提出した報告が含まれている。それを見ると、ブライアント・ストラットン著ハイスクール・ブックキーピング中の様式を採用していることが分かる)。

 『三菱社史』明治9年1月1日の項に次のようにあります。
 

會計帳簿ヲ別テ正金収納日記帳、正金支拂日記帳、銀行振出手形日記帳、振替日記帳、勘定元帳ノ五種トナシ各日記帳ハ舊慣ニ依リ大和綴トシ邦字ヲ以之ヲ記シ勘定元帳ノミ特ニ洋綴トシ数字ニ「アラビア」文字ヲ用ウ

3 三菱商業学校

 明治11年3月、神田錦町に三菱商業学校が設立された。
 岩崎彌太郎自身、明治8年に三菱商船学校を設立するなど、三菱で必要とする人材の養成に勤め、また福沢諭吉との関係も深かったことから、慶應義塾で教師をしていた森下岩楠(1852-1917)が、岩崎彌太郎に説き、商業学校の設立に踏み切らせた、と云われています。

 『三菱社史』には、森下岩楠の辞令や、「三菱商業学校規則」が残っています。

[社員進退報告竝決印録]
森下岩楠
第七等下級商業學校長
月給百圓
明治十一年三月一日

 修業年限は、予備科3年、本科2年、専門科1年。
 本科では、「ブライアント・ストラットン商業算術」や「記簿法初歩」「高等記簿法」などが教授されています。
 学生数はピーク時で百数十名。  彌太郎は慶応義塾に学んでいた長男の久彌を一期生として入学させているほか、岩下清周(後、三井銀行大阪支店長)など卒業生には後に実業界に名をなした人も多くいました。
 教師には、森島修太郎、伊藤銓一郎らがおり、森島は、慶應義塾から商法講習所に移り、商法講習所助教を勤めたのち三菱商業学校に移っている。
 ところが、教員である馬場辰猪(ばばたつい)や大石正巳(おおいしまさみ)らが自由党の結成に参加、商業学校の校舎を使って、夜間教室・明治義塾を開設し(岩崎久弥伝によると、明治14年に明治義塾と改称、となっている)、それが薩長閥の政府から睨まれるところとな、明治17年廃校ということになる。彌太郎の挫折。創立以来わずか6年だった。




書  名 = 簿記學例題 : 完 : 三菱商業學校 / 森島脩太郎著
出版事項 = 東京 : 森島脩太郎
       東京 : 丸屋善七(賣捌) , 1878.10
形  態 = 3, 3, 80p ; 19cm
著  者 = 森島,脩太郎(1848-1910<モリシマ,シュウタロウ> [ 所蔵事項 ] 118050896 国立 書庫 Nishikawa***39**
Nishikawa***40**
Nishikawa***41**

書  名 = 簿記学階梯 / 森下岩楠, 森嶋修太郎合著
出版事項 = 東京 : 森下岩楠 : 森島修太郎 , 1878.10
形  態 = 2冊 ; 23cm
注  記 = 和装本
著  者 = 森下, 岩楠(1852-1917)<モリシタ, イワクス>        森島, 脩太郎(1848-1910)<モリシマ, シュウタロウ>
[ 所蔵事項 ]
Nishikawa***37**
再版 Nishikawa***38**
簿記學階梯
書  名 = 民間簿記學, 2巻 / 森下岩楠, 森島脩太郎著||ミンカン ボキガク 別書名  = VT:民間簿記学||ミンカン ボキガク 出版事項 = [東京] : 中島精一 , [1887] 形  態 = 2冊 ; 23cm 注  記 = 自明治二十年十月二十日至明治廿五年十月十九日文部省検定濟小學校教科用書 著  者 = 森下, 岩楠(1852-1917)||モリシタ, イワクス        森島,脩太郎(1848-1910)||モリシマ,シュウタロウ [ 所蔵事項 ] 118050946Y 国立 書庫 Nishikawa***83** 民間簿記學

 また、三菱では、その後社内で「簿記講習会」を頻繁に行い、『三菱社史』に記録が残っているものだけでも、大正元年の第1回から大正10年の第15回までの記録が残っています。
 この講習会の最初の幹事は、本社庶務部副長森川鎰太郎(『修正銀行簿記學』の著者)でした。
書  名 = 修正銀行簿記學 / 森川鎰太郎著
版表示  = 第11版
出版事項 = 東京 : 同文舘
       大阪 : 吉岡平助 (大賣捌) , 1905.2
形  態 = 2, 4, 173p ; 22cm
注  記 = 付: 巻末: 實踐帳簿
著  者 = 森川, 鎰太郎<モリカワ, イツタロウ>
[ 所蔵事項 ]
Nishikawa***268**
修正銀行簿記學

4 日本郵船

郵便汽船三菱会社/日本郵船

 三菱商会は、佐賀の乱の運輸を終えた後も、台湾征討の軍事輸送の引き受け、1875(明治8)年に、日本初の外国定期航路(横浜・上海定期航路)を開設、同年のうちに、三菱商会は三菱汽船会社へ、さらに郵便汽船三菱会社へと改称されています。
 この年、三菱商船学校(明治15年に官立に移管し東京商船学校と改称、現在の東京商船大学の前身)も設立されています。
 ライバルである日本国郵便蒸気船会社は明治8年に解散し、米国の太平洋郵船や英国のP&Oはそれぞれ明治8年と9年に日本近海の外国航路から駆逐され、三菱の独占に近い環境が形成されました。
 このような半独占状態は1882(明治15)年まで続きましたが、運送価格の高騰やサービスの低下を招いたため、政府は井上馨、品川彌二郎、渋澤栄一、益田孝らに共同運輸会社を設立させ、三菱と競わせた。1885(明治18)年、郵便汽船三菱会社と共同運輸会社は合併し、日本郵船となったのです。

VY-  一橋大学附属図書館では、その日本郵船の開業から昭和19年までの元帳、日記帳等の会計帳簿を所蔵しています。
 詳細は、 「日本郵船株式会社会計帳簿目録」 をご覧いただくとして、その<外見上の>特徴は、とにかく巨大なことです。
 帳簿群の解題をされた西川義朗氏は、

正に想像を超える巨大な帳簿群であり、並の簿冊のように簡単に引出して頁を繰って見ることさえできない代物
と述べています。

[参考文献]

  • 山口不二夫, 日本郵船会計史:財務会計篇, 白桃書房 1998.7 570p.
  • 西川義朗, 日本郵船株式会社旧帳簿資料覚え書, (一橋大学研究年報. 商学研究 21(1979))
  • 服部一馬, 日本郵船会社の成立:明治前期における三菱と三井(5), (経済と貿易 85号(1964.12))
  • 山口不二夫, 明治期日本郵船における予算制度(商経論叢 26(1) (1988.10))
  • 山口不二夫, わが国近代会計制度の展開過程の研究:日清・日露期における日本郵船の会計制度(産業経理 46(2) (1986))
  • 日本郵船株式会社, 七十年史. 1956.7
  • 高寺貞男, 明治減価償却史の研究. 未来社 1974.10


[参考]

海に風あり、山に霧あり、 …岩崎彌之助物語… vol.04 日本郵船の 誕生 (三菱広報委員会)
http://www.mitsubishi.or.jp/jp/series/yanosuke/yanosuke04.html

岩崎彌太郎
 岩崎彌太郎は、戦前の大財閥「三菱」の創業者である。
 財閥が解体された現在でも「東京三菱銀行」「三菱商事」などわが国の基幹企業に三菱の名が残っている。
 青年時代の彌太郎は、すでに英才と謳われていたものの、持ち前の反骨精神と直情的な性格のために、いくつもの逆境を経験している。例えば、彼の父が酒の席で喧嘩を起こして重症を負った時、彼は奉行所の処置を不服として痛烈に批判したため半年間も投獄される羽目にあった、というエピソードや、彼が土佐商会に勤務している時に鳥羽伏見の戦いがあり、船を戦場に差し出せという命令があったにもかかわらず「商用がまだ済んでいないから」という理由で延発を主張し、上司との対立の末辞表を提出してしまった(すぐ後に復職したが)というエピソードが残っている。

彌太郎は明治3年頃から海運業の九十九商会(前・土佐商会、土佐開成商社、後に三川商会、三菱商会と名称を改めることになる)の経営に携わるようになったが、当時の海運業は日本企業では日本国郵便蒸気船会社、外資系では米国の太平洋郵船や英国のP&O(The Peninsular and Oriental Steam Navigation Company)などの大手船会社が既に市場を席捲しており、三菱は不利な立場であった。しかし、彌太郎は果敢に競争を挑み、経費削減や従業員精神を徹底させる事により競争に打ち勝ち、海運三策等政府の支援も手伝い、結果的には、日本近海の海運業で独占的な地位を得るところまで成長した。
http://www.gbrc.jp/GBRC.files/newsletter/backnum/20020826.txtから引用。

荘田平五郎
弘化4(1847)年 10月1日、豊後国臼杵、稲葉藩の儒者荘田允命の長男に生まれ、藩校学古館に学び、諸方に遊学の後、明治3年慶應義塾に入り、5年同校教師にあげられて、大阪および京都の慶應義塾分校開設に尽力した。 荘田は、慶應義塾を出た後、慶應義塾の教師を務め、慶應義塾の京都分校では帳合の法の稽古を行っている。福澤諭吉との間で「ブライアント&ストラットンのハイスクール・ブックキーピング」を翻訳することとなっていたが、結局これは完成しなかった。

 明治8年2月、三菱会社に入り、「三菱汽船会社規則」や「簿記法」など三菱の彌太郎・彌之助・久弥三代に亘って絶大な貢献をしている。

  • 標題 = 莊田平五郎 / 宿利重一著||ショウダ ヘイゴロウ 配架 : #国立 明治文庫**XAq*182**

森下, 岩楠(1852-1917)||モリシタ, イワクス

  • 標題 = 簿記学階梯 / 森下岩楠, 森嶋修太郎合著||ボキガク カイテイ 配架 : #国立 Nishikawa***37**
  • 標題 = 簿記學階梯 / 森下岩楠, 森島脩太郎合著||ボキガク カイテイ 配架 : #国立 Nishikawa***38**
  • 標題 = 民間簿記學, 2巻 / 森下岩楠, 森島脩太郎著||ミンカン ボキガク 配架 : #国立 Nishikawa***83**
  • 標題 = 商用文例 / 森下岩楠編述||ショウヨウ ブンレイ 配架 : 国立 明治文庫**Xb*81**
  • 標題 = 民間簿記學 / 森下岩楠, 森島脩太郎著||ミンカン ボキガク 配架 : #国立 *Eb**383**下

top
Copyright(c) Hitotsubashi University Library 2003