【附属図書館 第三回 常設展 一橋大学への歩み −昭和前期− 解説】


◎ 東京商科大学Tokyo University of Commerceから東京産業大学Tokyo University of Industryへ
 一九二〇(大正九)年に大学に昇格した東京商科大学は、佐野善作学長のもとに一九二五(大正十四)年に開校五十周年を迎える一方、国立の新天地にキャンパス移転という一大事業にも取り掛かった。
 当時の神田一ツ橋キャンパスは、約一万坪で既に手狭になっており、大学は関東大震災を期に神田一ツ橋キャンパスを手放し、箱根土地(現コクド)が買収していた国立約百万坪のうち、国立キャンパスとして約七万五千坪を購入した。この時、佐野学長も南隣に約一千坪の私邸を購入、現在は佐野書院として使用されている。
 一九二七(昭和二)年、兼松商店(現兼松(株))寄贈によるロマネスク様式の兼松講堂が落成し、図書館、研究室、学部本部もこの様式に統一して一九三〇(昭和五)年に完成、翌一九三一(昭和六)年五月十日国立移転の記念式典が盛大に催された。
 東京商科大学は、予科、本科、専門部を三位一体としていたが、大学昇格三年後の一九二三(大正十二)年には、一九〇二(明治三十五)年以来の学生組織の一橋会が改組し、予科、本科、専門部の三会に分裂した。分裂後間もなく専門部の廃止問題が持ち上がり、一九二八(昭和三)年の専門部の独立運動、一九三一(昭和六)年の予科及び専門部廃止案に対する籠城事件へと進んだ。
 一九三一(昭和六)年十月一日の「東京日日新聞」で臨時行政財政審議会の行政整理案に東京商科大学の予科及び専門部の廃止が含まれているとの報道がされると、翌日、緊急三科連合教授会が反対決議、学生は総退学を決意して十月五日から一ツ橋の旧校舎に籠城した。参加人員二千有余名、猛反対の前に文部省は、十月十六日東京商科大学の予科及び専門部存続を決定したが、このような籠城事件は、わが国学生運動史上未曾有のものであった。
 また、一九三五(昭和十)年には、杉村広蔵助教授の学位請求論文「経済哲学の基本問題」の票決において、白票七をもって不通過となったことに対して、佐野学長はじめ審査委員の高垣寅次郎ら白票グループを糾弾する運動が起こった。これは、単なる学位請求問題ではなく、商業分野のウェートが過大だとする改新派と保守派の対立であり、また学内の佐野派と上田派の対立でもあった。
 白票事件によって一九三五(昭和十)年九月佐野善作は二十二年間在職した学長を辞任、十月に三浦新七が学長に就任した。一九三六(昭和十一)年五月高垣寅次郎、本間喜一、杉村広蔵の免官、同年十二月三浦学長の辞任を経て、上田貞次郎が学長に就任した。
 この頃、学生の機関紙として一九三七(昭和十二)年一橋学会から「一橋評論」が創刊され、一九三八(昭和十三)年には、研究活動の活性化の一環として「一橋論叢」が発刊された。
 戦時体制下、一九四三(昭和十八)年には、雨の神宮外苑競技場で、出陣学徒壮行会が挙行され、一九四四(昭和十九)年、東京商科大学は、東京産業大学と名称変更を余儀なくされた。兼松講堂は接収されて、中島飛行機の工場に早変わりし、国立本館も陸軍経理学校に接収され、図書館も貴重書を中心に長野県伊那町へ疎開した。幸い、このような苦労はあったものの、図書館は戦災で図書を失うこともなく、進駐軍に接収もされず、戦時期を乗り切った。





国立移転
 大正期,本学が置かれていた神田一ツ橋のキャンパスは,敷地約一万坪と既に手狭になっていた。商大は,大正12年5月に,北豊島郡石神井村(現練馬区)に運動場を購入したが,半年も経たないうちに関東大震災に見舞われ,神田の大学の建物は図書館と三井ホールを残してほとんど倒壊,焼失してしまった。この震災による大被害は,学内の新天地を求めて理想的な大学として再建すべしという気運を高め,大学当局も移転の候補地を探し始めた。
 新キャンパスの条件としては,鉄道交通の便がよいこと,上下水道や電気が整備されていること,付近に工場や繁華街がなく閑静なこと,震災後で国にも予算が乏しいため,土地が高価でないこと等が考えられたが,国立はほぼその条件を満たしているといってよいだろう。都会の喧噪を離れ,勉学に相応しい環境下にあり,売り主の箱根土地(現コクド)とは,開発地内の道路・上下水道,電力供給設備を完成することが契約にもり込まれた。当時,国立駅に停まるのは,日に十本程度の汽車のみで,都心からの電車は国分寺までしか通じていなかったが,立川に軍事基地があり,近いうちに電車も延伸することが見込まれた。
 東京商科大学と箱根土地は,1924(大正13)年2月7日,神田の大学の敷地約一万坪と,国立で箱根土地が買収する予定の土地約百万坪のうち,大学の希望する七万五千坪を交換し,その差額を国債証券で箱根土地が大学に支払うという内容の契約を結んだ。
 翌大正14年9月2日に文部・大蔵両省の大学移転の認可が出ると,早速,9月9日付で正式な土地交換契約と覚書が交わされた。この契約と覚書は,日本でも屈指の学園都市である国立大学町の町づくりの基本を決定した歴史的にも重要な文書である。覚書では,大学を中核におきながら,駅前広場を起点にして南に延びる大学通りを中心として放射状に広がる,整然とした住宅区画で構成される学園都市構想が提示されている。大学を中心とする文教都市としての文化的環境と,大通りを中心とする整然とした街区形成の物理的・美観的な環境が,町を規定する二大要素である。国立は,職住を完全に分離し,豊かな自然に囲まれた学園都市という新しいユートピアとして売り出されたのである。
 箱根土地社長の堤康次郎*は,当時の東京商科大学学長,佐野善作とは友人であり,佐野は,商科大学キャンパスの南隣に,私邸用の土地(後の佐野書院)も求めている。
 この時期,箱根土地が開発した他の学園都市としては現練馬区の大泉学園都市,現小平市の小平学園町などが挙げられる。これらの土地にも商大移転が検討されたが,大泉学園都市は私鉄沿線であるため,候補地からはずされ,小平学園町には明治大学が移転する計画だったが,とりやめになったので,1933(昭和8)年,東京商科大学が石神井の仮校舎に移していた予科を移転した。

 * 堤康次郎(1889〜1964) : 西武グループの創業者。一代で西武コンチェルンを築き上げ,鉄道事業に進出したほか,
    箱根,軽井沢の開発を行った。1953(昭和28)年から翌29年まで衆議院議長を務める。




現在のキャンパスにのこる昭和初期の建築物

◇ 兼松講堂 ◇
 1927(昭和2)年8月竣工。築地本願寺の設計者として知られる大建築家,伊東忠太(1867〜1954)によるロマネスク様式の建物である。本学国立移転後の鉄筋コンクリート造りの建築物の嚆矢であり,そのデザインを基調にして本館や図書館が次々と建てられた。
 伊東は,この建物を設計するに当たって,デザインモチーフを北イタリア,ロンバルディア地方に求めている。建物の特徴としては,腰壁の日の出石張り,軒蛇腹のロンバルディアバンド,アーチ型の連続窓,単窓,ドリップストーン等が挙げられる。柱頭やベース,持送りなど各所に施されたグロテスク彫刻も特筆すべきものである。正面中央の車輪窓には本学の校章であるマーキュリーがはめ込まれている。赤松の林の中,蒼穹のもとに建つこの講堂は,まさに絵画的であり,異国情緒と過去への憧憬を示している。
 寄付をした兼松商店は現兼松株式会社。1889(明治22)年に兼松房治郎が神戸に設立し,主に豪州との貿易を業としていた。兼松講堂は,第2回記念事業として東京商科大学に寄付されたが,第1回記念事業では,神戸高商(現神戸大学)に寄贈された60万円の半分で鉄筋2階建の兼松記念館が建てられている。この記念館は神戸市筒井が丘にあったが,神戸商業大学となった神戸高商が現在の六甲に移転したため,市の建物となり,戦災に遭い,取り壊された。

◇ 附属図書館 (現時計台棟) ◇
 1930(昭和5)年6月竣工。以下の二つの建物と同様,伊東忠太門下の文部省建築課設計陣の手による。兼松講堂と本館の中央に東向きに建てられ,百余尺の時計台棟を抱く,堂々たる建築物である。軒蛇腹のロンバルディアバンド,アーチ型の窓やその上のドリップストーンなど,大小のアーチを巧妙につづり合わせて,壁面に軽く暖かい旋律的効果を与えている。玄関ホールと階段前室の中間に見られる装飾の施された横断アーチも,一歩足を踏み入れた人にヨーロッパ中世に紛れ込んだような驚きと,近代建築にはない人間的な暖かみを感じさせる。

◇ 本館 ◇
 本科の本館として,移転当時建てられた主要な建物としては最後の1930(昭和5)年12月に竣工した。これをもって赤松の林の中に重厚なロマネスク様式の建築物が点在する厳粛にして壮麗なキャンパスが完成した。玄関ホールとそこから延びる中廊下,階段室は特に意匠が凝らされている。

◇ 東本館 ◇
 1929(昭和4)年11月竣工。東京商科大学附属商学専門部本館として建てられたものである。平面的には口の字型のプランで中庭を有している。正面はシンメトリーに造られ,軒蛇腹,胴蛇腹を設けて水平線を強調した明確なデザインである。アーチ型の二連窓と張り出した車寄せが目を引く。




籠城事件
 昭和2(1927)年の金融恐慌, 昭和4(1929)年の世界恐慌に加え, 昭和6(1931)年には東北, 北海道の凶作が重なって, 我が国は不況のどん底にあった。 一方国外では同年9月, 満州事変が勃発していた。 このような状況化で, 銃撃に倒れた浜口雄幸内閣を受け継いだ第2次若槻礼次郎内閣は, 前内閣から留任した井上準之助蔵相のもと, 緊縮政策を断行することとなった。
 昭和6年10月1日の新聞各紙は, 同内閣の設置した「臨時行政財政審議会」の行政整理原案を報道したが, それには北海道帝国大学の予科と, 東京商科大学の予科及び専門部の廃止が含まれていた。
 10月2日, 東京商科大学本科, 予科, 専門部の三科連合教授会は, 「光輝ある歴史を有し, 現に教育的効果の極めて顕著なる我が予科及び商学専門部の廃止案に対して絶対に反対す」との決議を行った。 翌10月3日, 予科, 専門部, 本科の三科合同学生大会が開かれ, 反対を決議し, 10月5日から旧校舎で籠城を決行することとなった。
 10月6日朝には, 「突如我予科及ビ専門部廃止ノ断案飛ンデ商学ノ殿堂危急ヲ告グ……遂ニ我等二千有余ノ同志一橋ノ故地ニ籠城スルニ至レリ……屈辱ヲ以テ生キンヨリハ寧ロ光輝アル母校ノ伝統ト生死ヲ共ニセン」との学生大会声明が発せられ, 同日午後, 学生デモと警官隊が大衝突する事態に至った。
 しかし, 学生, 教官, 如水会をはじめとする卒業生らも含めた, 大学をあげての猛反対に, 10月8日には廃止が撤回され, 10月16日, 予科及び専門部の存続が正式に決定された。
 こうして, 商法講習所以来の高等職業教育機関とアカデミックな大学とを兼ね備えた「三位一体」の体制は, 戦後に新制一橋大学が成立するまで温存されることとなった。





白票事件(五月事件・粛園運動)
【 『一橋大学百二十年史』 第2編第2章第4節 「実学の高度化と白票事件」より 】
 学制改革は1933〜34(昭和8〜9)年にかなり具体化し, 1934年度には第2学年から分科制が再度採用された。
……(中略)……
 学制改革の底流には商業技術学から, 哲学・人文科学を含む幅広い学問と教育をめざす Gründlich なものへという理念があった。 そして職業教育と大学教育, 「高商の学問」と「大学の学問」の対立・相克は形を変えて顕在化したが, 白票事件は一橋が商業教育・職業教育機関から最高学府に進化する過程で通過しなければならない一階梯であったかもしれない。
 1935(昭和10)年7月9日の大学教授会において, 3件の学位請求論文の審査報告と票決が行われ, 井藤半弥, 加藤由作の論文には学位授与が可決されたが, 杉村広蔵の論文にはそれが否決された。 杉村論文への投票の内訳は総数21, 可13, 否1, 白7で, 学位規定による可決の必要条件(出席教授の四分の三以上の賛成)を満たさないため否決となった。 これに対して, 当事者の杉村, 山口茂, 常盤敏太らの助教授が中心になって学長はじめ審査委員の高垣寅次郎ら白票グループを糾弾する運動が起こった。 杉村論文は三浦新七の勧めで『経済哲学の基本問題』として9月初めに岩波書店から公刊された。 10月三浦が学長に就任, 翌年二・二六事件の後, 平生釟三郎が文相となり, 5月に商大事件は高垣, 本間, 杉村の免官で解決することになった。
 白票事件前夜の教授・助教授の分野別構成は ……(中略)…… 経営学と会計学を除く狭義の商業分野がほぼ半分を占め, 助教授は経済が圧倒的に大きなウェートを占めていた。 年齢では51歳以上の教官は圧倒的に商業が多く, 49歳以下では商業のウェートはずっと小さい。 また, 佐野学長は1914(大正3)年母校出身者として初めて東京高商校長に就任してから, 1935(昭和10)年までにすでに22年間在職していた。 ……(中略)……
 『昭和7〜11年の東京商科大学』を執筆した木村増三によれば, 白票事件は経営学と会計学を除いた狭義の商業分野のウェートが過大だとする学問上の改新派と保守派の反目・対立であり, 保守派に対する先鋭的改新派の不満の表明であった。 ……(中略)…… それはまた学内体制上の満足派 ---- 佐野閥と不満足派 ---- 上田閥の対立でもあった。 白票事件によって佐野体制は終息し, 三浦学長下の暫定的体制を経て, 1936(昭和11)年12月から上田学長下の新しい体制が誕生することになった。