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― 第1回常設展 ―

2002.1.17〜2002.2.28


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【展示室】


【資料】
明  治  時  代  の  校  長  の  写  真
<矢野二郎>
<河上謹一>
<由布武三郎>
<小山健三>
<清水彦五郎>
<駒井重格>
<寺田勇吉>
<松崎蔵之助>
<坪野平太郎>
<創業の人々>
<歴代校長>
<ホイトニーの娘クララの料理
レシピ本および週刊誌記事>
                 ホイトニー夫妻の墓

  ホイトニーは1882年8月29日再来日の途次ロンドンにおいて病死した。写真(上3枚)は
  ロンドン・ハムプステッドのホイトニーの墓。夫人アンナも翌年病没し、東京青山墓地に
  葬られた。(写真下)墓碑はそれぞれ次のとおり。

   IN MEMORY OF / WILLIAM COGSWELL WHITNEY / Born Jan. 25, 1825 /
   Died Aug. 29, 1882 / ASLEEP IN JESUS.

   In Memory of / ANNA L. WHITNEY / of New Jersey. / Died April 17th., 1883. /
   Aged 49 Years. / The Just shall live by Faith. / Also of Her Twin Grand son, /
   Isaac Braithwaite Whitney, / Who died Feb. 21, 1890.
   明治十六年 / 四月十七日 / 骸化土霊帰天 / ホイトニー氏親友 / 勝安芳 拝誌
<西川孝治郎 著『W.C.
ホイトニーと簿記』 1959>
<矢野時代の授業、
第一回・第二回卒業式>
<東京商法所の教科書類>
<商法講習所発祥の地 記念碑>


    商業模擬実践の図 (上は東京府商法講習所略則)


  明治14年4月の日付のある「略則」の裏面に描かれており、略則とともに『一橋大学学制史
  資料 第1巻』に複製が収録されている。明治14年の「東京府商法講習所規則」に当時の
  教科目、時間数があげてあるが、「…且ツ実践科ノ教場ニハ商家社店ノ模型証書式並貨幣
  雛形度量衡等ヲ備ヘ置キ其使用ヲ教ヘテ以テ之ヲ活用セシムル等凡テ実地商業ト異ナル
  コトナシ」とあり、上級生には模擬実習が課せられていた。

<テニス部>

<本学教官の書簡類>
<ボート部の活躍>
<佐野善作先生肖像、
本学教官の留学状況>

    本学の建学の精神 “Captains of Industry”

  英国の思想家カーライル(T. Carlyle)の『過去と現在』(Past and Present. 1843年刊)第4編
  第4章にある言葉。明治後期、ヨーロッパ留学から戻った少壮教授たちが大学昇格を目指
  して用い、東京高等商業学校から東京商科大学への昇格運動の際のスローガンとなった。
  近代的商業道徳によって真の産業人(経済騎士道を体得した産業界の指導者)の育成を
  目指す本学の精神的ルーツである。
<専門部の旗>
<国立移転時の
東京商科大学鳥瞰図>
   展示ケース4  <神田一橋時代の校舎全景写真>
展示ケース5
   展示ケース6    <一橋大学の校章


【パネル】



 右から

 長男ウイリス

 長女クララ

 次女アデレード
<森有礼>
<W.C.ホイトニー>
<ホイトニー夫人アンナ>
<ホイトニーの子供たち>

  ホイトニーの弟子たち

  図書館に寄贈されている西川孝治郎氏蒐集のホイトニー関係資料の一部であ
  る。アメリカでホイトニーの簿記学校に学び、商法講習所の発展を支えた富田
  鉄之助(後の日銀総裁、東京府知事)、高木貞作を始め、最初の卒業生であり
  講習所の助教としてホイトニーを助けた森島修太郎、成瀬正忠ら明治初期の
  商業教育に各方面にわたって大きな貢献をなした。
  左は左上から横に富田鉄之助、高木貞作、数江三左エ門、森島修太郎、
  成瀬正忠
  右は同じく井田忠信、倉西末次郎、図師民嘉、田鎖綱紀、上野栄三郎である。

 御大典記念図書館(上)
               大閲覧室
(下)

 1917(大正6)年5月落成、同9月開館。
 閲覧室・事務室のある木造煉瓦張2階建
 ての本館と、鉄筋コンクリート4階建ての
 書庫からなる。「御大典記念図書館に関
 する説明及平面図」によれば、大閲覧室
 は200名を収容、書庫は約8万5千冊を
 収容できた。
 大閲覧室の書庫入口に「TEMPUS FUGIT」
 が架けられているのが分かる。
<矢野二郎>
<渋澤栄一>


  震災直後の東京商科大学


 1923(大正12)年9月1日の関東大震災は、
 翌朝まで火災が続き、校舎の大半を失った。
 しかし、図書館は壊滅を免れ、整理のため
 三井ホールに置かれていたメンガー文庫・
 ギールケ文庫も焼失を免れた。
 上下とも、後方に見えるのが図書館である。
<福田徳三>
<三浦新七>



   昭和27年頃の図書館景観


  『BULLETIN OF HITOTSUBASHI UNIVERSITY 1952-1953』から。

  図書館前のヒマラヤ杉や池の周辺の有様も当時と現在では大分

  変化している。遠景には富士山がくっきり映っている。
<上田貞次郎>
<大久保一翁あて森有礼書簡>
<一橋大学発祥の地 記念碑>
<商法講習所の篇額>
<東京商法講習所 (木挽町)>


      商法講習所略則 (明治14年4月)


   『一橋大学学制史資料 第1巻(明治8−18年 商法講習所−東京商業学校) 第
    5集』 (一橋大学学制史専門委員会 昭和58年)に複製が掲載されている。入学
   資格、修業年限、教科目等が記されている。13歳以上にして普通小学校科を卒業
   した者で修業年限は5ヶ年であった。授業料は「一月金一円」と定められている。

   商品陳列所


  1888(明治21)年東京商業学校に商品見本陳列所として開所した。商品見本は、
  授業上必要不可欠のものとされ明治25年にはその数七千有余点に達した。「商品
  陳列所は…本校学生をして常に商品の実物に接し研究するを得しむる用に供する
  を以て主眼とす。而して其標本たる専ら現時の貿易売買上重要なる商品に就き広
  く内外各国より蒐集して之を陳列す」 (明治36年東京商業学校一覧)


      図書閲覧所


   木造2階建。1908(明治41)年落成、1909(明治42)年2月開館。
   「一橋会雑誌第49号」(明治42年2月)に、「新築図書閲覧室開かる」 「瀟洒たる
    白亜の一館」と紹介されている。これによると、当時の開館時間は午前7時55分
   から午後6時までとなっている。

   申酉事件 「校を去るの辞」

  1907(明治40)年、商科大学が設立されることとなり、東京高等商業学校教授側は高
  商附属の専攻部を独立の商科大学とする案を主張したが、文部省及び東京帝大側は
  東京帝大法科大学内に商科を併置し、専攻部を廃止するとした。これに対して全校生
  徒、同窓会は抗議運動を展開、1909(明治42)年5月11日の学生大会は学生総退学を
  決議、この「校を去るの辞」(武井大助起草)を朗読して学校に訣別した。
  専攻部廃止を撤回させた、この「申酉事件」は、一橋リベラリズムの源流となり、以後、
  大学昇格のためにアカデミズムの基礎を固めようという動きが進行していった。
               御大典記念圖書館設計立面圖

 『Hitotsubashi in Pictures 1950』(一橋創立七十五周年記念アルバム委員会 昭和26年)
 収載の『図書館の沿革』(川崎 操執筆)によると図書館が独立の小さな建物を持ったのは
 明治19年のこととされており、その後明治23年に書庫の新築がなされたとある。その頃の
 閲覧室は30人程度の収容人数であったというが、明治42年2月に木造2階建の閲覧室が
 新築され、収容人数も約100名と拡張された。明治30年に既に専攻部規定が設けられ、同
 35年には東京高等商業学校と改称されて本学の前身として名実ともに備わった高等商業
 学校として発展しつつあったが、大正6年5月御即位御大典記念事業として同窓会及び如
 水会の寄贈により、近代的図書館としての容装を整えた新図書館を竣工することができ
 た。総費用58,607円、鉄筋コンクリート造(書庫4階)155坪、木骨煉瓦張造(2階が大閲覧
 室、1階は教官閲覧室、卒業生閲覧室、新聞雑誌室、事務室等)197坪であった。

   TEMPUS FUGIT


  1917(大正6)年、御大典記念図書館の大閲覧室書庫入口に架けられた。
  「御大典記念図書館に関する説明及平面図」によれば、「光陰如矢のラテン格言
  を記し其の上に時計を配して惜寸陰の意を表せるなり」。
  国立移転後も、書庫入口に掲げられ、現在は図書館本館の書庫入口に架けられ
  ている。


      東京高等商業学校敷地全図  縮尺千二百分之一


   『東京高等商業学校創立四十年記念帳』(大正4年9月)の付図。
   明治42年2月新築の閲覧室の位置がわかる。既設の図書館施設(書庫、図書係、
   教員閲覧室)がその上部にあり、教室とともに廊下で繋がっている。朱色は建築計
   画をあらわしていると思われるが、如水会館、御大典記念図書館、専攻部教室・研
   究室などが描かれている。
                     関東大震災後の神田一橋校舎鳥瞰図

  大正12年9月1日の関東大震災により、構内の木造建築物は概ね全壊・半壊し、更に
  その後の火災により甚大な被害を蒙った。図書館は旧専門部教室(三井ホール)とと
  もに多大の損害はあったものの奇跡的に震災火災を免れることができ、約30万冊の
  蔵書及び当時三井ホールに収容されていたメンガー文庫・ギールケ文庫も無事であっ
  た。
  本科、専門部は震災後の仮校舎において、予科は幡ヶ谷の東京高等学校の校舎を
  借りて授業を再開するが、専門部は昭和2年4月、本科は昭和5年9月国立新校舎へ、
  予科は大正13年4月から石神井仮校舎に移ることとなった。本鳥瞰図は大正14年3月
  の卒業アルバムにも掲載されている。また、昭和6年10月の予科・専門部廃止阻止の
  籠城事件の舞台ともなった校舎である。


      昭和初期の国立駅周辺


   昭和2年に専門部仮校舎において授業が行われていたが、昭和5年には本館、図
   書館・研究棟の建物が完成し、移転が完了することになる。昭和4年2月に省線電
   車が国分寺−国立間に延長開通された。写真はその頃の国立駅周辺の鳥瞰風景
   である。(昭和4年3月卒業アルバムより)


   移転当時の国立キャンパス


  図書館(上)、兼松講堂(右)、本部及び教室(現本館 左)。図書館の書庫

  を除いては今とまったく変わらない。(国立移転記念絵はがきより)

      籠城事件 「聲明」


   1931(昭和6)年、臨時行政財政審議会による行政整理案が東京商科大学の予科
   及び専門部の廃止を含んでいることを知った東京商科大学各部科連合教授会は、
   10月2日、反対を決議、全学生大会はこの「聲明」を発し、10月5日から旧校舎で
   籠城を決行することとなった。この大学をあげての猛反対に、文部省は10月16日、
   予科・専門部の存続を決定した。


   米軍艦載機来襲により被弾した閲覧室スタンドと薬莢


  戦争末期昭和19年12月に兼松講堂、本部建物等が中島飛行機株式会社を中心
  に新設された第一軍需工廠に貸与されることとなった。空襲も昼夜となく行われた。
  昭和20年2月17日午前10時10分頃本学に来襲があり、図書館が銃撃されたとき
  の痕である。
    戦前期アジア諸国写真コレクション

  「中支那軍票交換用物資配給組合(軍配組合)」関係
  資料に同梱されていた約3,000枚の写真コレクション。
  第2次世界大戦前及び大戦期のアジア、太平洋諸地
  域の農業、林業、漁業、紡績業、工業等の各産業並
  びに風俗、地勢等の記録写真である。当時のアジア、
  太平洋諸地域の産業、自然、風俗、習慣等を一望す
  ることの出来る、学術上極めて価値のある資料であ
  る。

<一橋大学及び附属図書館年表>


<沿革図>
<主な特殊文庫一覧>
<Hitotsubashi Digital Archives>


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