| 日 程 | : | 2008(平成20)年1月31日(木)〜 |
| 場 所 | : | 一橋大学附属図書館 公開展示室(時計台棟1階) |
| 入場時間 | : | 9:00〜16:00(入場無料)(土・日・祝日は閉室) |
白票事件とは、1935(昭和10)年7月9日の東京商科大学教授会で、杉村廣藏助教授の学位請求論文への票決の際、白票が7票もあったために否決となったことに端を発する学内紛争をいう。紛争は、同年10月16日の佐野善作学長の引責辞任と三浦新七学長への交代によって一旦休止するが、翌1936(昭和11)年2月に教授14人が三浦学長に辞表を提出したことによって再燃し、3月から8月にかけての6教官(杉村助教授と辞表を提出した5教官)の退官によって終結した。その後、12月に上田貞次郎が学長に就任し、新しい体制が誕生することになった。
なお、事件当時、1935(昭和10)年9月の佐野学長が文部省に辞表を提出するに至った事件は「九月事件」、翌1936(昭和11)年2月の三浦学長へ辞表が提出された事件は「二月事件」、5月の杉村助教授を含む3教官が免官に至った事件は「五月事件」と呼ばれていた。また、学制改革の流れの中で起こった白票事件は、「粛園事件(運動)」において語られることもある。
この展示では、事件の発端となった論文を書いた杉村廣藏を中心に白票事件関係資料を紹介する。
「 学制改革は1933〜34(昭和8〜9)年にかなり具体化し、1934年度には第2学年から分科制が再度採用された。 ...(中略)... 。 学制改革の底流には商業技術学から、哲学・人文科学を含む幅広い学問と教育をめざす Gründlich[基礎的]なものへという理念があった。そして職業教育と大学教育、「高商の学問」と「大学の学問」の対立・相克は形を変えて顕在化したが、白票事件は一橋が商業教育・職業教育機関から最高学府に進化する過程で通過しなければならない一階梯であったかもしれない。
1935(昭和10)年7月9日の大学教授会において、3件の学位請求論文の審査報告と票決が行われ、井藤半弥、加藤由作の論文には学位授与が可決されたが、杉村広蔵の論文にはそれが否決された。杉村論文への投票の内訳は総数21、可13、否1、白7で、学位規定による可決の必要条件(出席教授の4分の3以上の賛成)を満たさないため否決となった。これに対して、当事者の杉村、山口茂、常盤敏太らの助教授が中心になって学長はじめ審査委員の高垣寅次郎ら白票グループを糾弾する運動が起こった。杉村論文は三浦新七の勧めで『経済哲学の基本問題』として9月初めに岩波書店から公刊された。10月三浦が学長に就任、翌年二・二六事件の後、平生釟三郎が文相となり、5月に商大事件は高垣、本間[喜一]、杉村の免官で解決することになった。
白票事件前夜の教授・助教授の分野別構成は ...(中略)... 経営学と会計学を除く狭義の商業分野がほぼ半分を占め、助教授は経済が圧倒的に大きなウェートを占めていた。年齢では51歳以上の教官は圧倒的に商業が多く、49歳以下では商業のウェートはずっと小さい。また、佐野学長は1914(大正3)年母校出身者として初めて東京高商校長に就任してから、1935(昭和10)年までにすでに22年間在職していた」(p. 142-144)
「 『昭和7〜11年の東京商科大学』 を執筆した木村増三によれば、白票事件は経営学と会計学を除いた狭義の商業分野のウェートが過大だとする学問上の改新派と保守派の反目・対立であり、保守派に対する先鋭的改新派の不満の表明であった。...(中略)... それはまた学内体制上の満足派―佐野閥と不満足派―上田閥の対立でもあった。白票事件によって佐野体制は終息し、三浦学長下の暫定的体制を経て、1936(昭和11)年12月から上田[貞次郎]学長下の新しい体制が誕生することになった。」(p. 145)
「 著者はここに東京商科大学教授会を通過せざりし論文を公刊して大方の批判を仰がんと欲する。同大学教授会がかかる結果を著者の労作にあたうるに至った理由が、学問上の意義をそなえたものでないことは、著者として甚だ物足らなく感ぜざるを得ない。あえてひろく学界の人々の叱正をうけたいと考えるに至った所以である。 さきに著者が論文を提出するや、同大学教授会は、專門の近接の故を以て、最近同大学の経済学講義をも担当する貨幣論専攻の教授と哲学及び哲学史専攻の教授とを挙げて審査委員とした。爾来十二分の時を費して審査をつづけ、今般教授会に報告せられて審議があった。同大学教授会が否決した理由として伝えられた唯一の学問的なるものは、その論文の内容が哲学に属するものであって、経済学に交渉なく、従って同大学の学術的処置の圏外にあるものだという解釈である。著者の提出せる「経済社会の価値論的研究」及び副論文二篇は、本書の第二章並びに第三章であって提出者自らは純乎たる経済学理、貨幣価値論を内容とするものと信じまた何人もこれを疑うの余地なきものと考えて居る。論文を閲読する便宜を有せざりし教授諸氏をして、かかる不当の判断に達せしめたのは、おそらく審査委員の陳述が著者の論文の主たる内容を故意につたえなかった結果であっただろうと思うの他はない。それはとにかく、吾々にとって学位が意義をもつのは、学界に共同財を寄与せるものと認められることにある。この共同財たり得るものは学問研究に妥当すべき「方法」をいうので、決して論述の厖大や目あたらしき定義の類いではあり得ない。方法なくしては学問はない。東京商科大学教授会が論文の主たる内容にふれざりしと共に、またその「方法」について何らの考慮をもはらわざりしことは遺憾にたえぬ。しかし「学問の世界」は一大学に閉じこめられ、一教授会の議決に左右せられるほど狭く浅いものとは思われない。著者は自らの論文が学問の方法に対していかなる重要性をあたいするかの認定を学界の明察に仰ぐことを理由あるものと信じ、学問上の義務と感じて居る次第である。」(初刷 序 p. 1-3)*引用にあたり現代表記に改めた
「 学園の粛正を旗印とし、「少壮」教授の一団が長老教授に対して敢然抗争の烽火を挙げたということは決して日常茶飯事ではなく正に我が学問発展史上の記録的事件である。
9月14日の午後1時、東京商大ではいよいよ今回の紛争の発端となっている杉村助教授学位論文「経済哲学の基本問題」を中心とする研究会を開き、その是非を今迄傍観していた学生に問うこととなり、紛争は一層深刻化するに至った。二千に学生果して動くか?その動向はすこぶる注目に値するものであった。・・・(中略)・・・
・・・(中略)・・・次いで問題の人、杉村助教授登壇するに及び、会場俄かに熱狂的な拍手が起った。この圧倒的な人気、拍手のやむのを待って、杉村氏は例の金切り声で「経済哲学の基本問題」の序文につき詳細な説明を加えたる後、「今回私が通過し得なかった論文を公けにしたのは決してイマイマしいからそうしたのではない。またある人は酷いことをやったと云うが私は決してそうは思わない。凡そ学者には芸はない。その代り自分の骨折った労作は、学界に発表して大方の批判を仰ぐのが当たり前である。これが学者の喜びであり、それを度外視して著書をああしてくれ、こうしてくれという学者が多くなって来たから学問は堕落した」と、辛辣な皮肉を以って著書の出版延期を要請した一部の意見を反駁、続いて、「私はこの中でどなたか卒業後、学位論文を本学において審査してもらおうという希望を養うがため、また虚心坦懐の下に安心して出される様にしたくてこのようなことをした。」と飽くまでも学園粛正を目ざして行動する旨を述べ、またもや嵐に拍手に中を降壇。・・・(以下略)・・・」*引用にあたり現代表記に改めた