一橋大学公開展示室

一 橋 大 学 へ の 歩 み

 創設期から一橋大学の成立まで



▲「商法講習所」扁額(福地源一郎(桜痴)書) (名誉教授室)

 1875(明治8)年9月24日、東京会議所は東京府知事大久保一翁にあてて銀座尾張町2丁目23番地(現中央区銀座6丁目)に森有礼私立の商法講習所を開所する届書を提出した。開所にあたり、森有礼は、アメリカの商業学校の校長をしていた、William C. Whitney(1825-1880)を招聘した。


▲「商法講習所発祥の地」碑 絵はがき (学園史資料室所蔵)


▲明治8年8月3日Whitneyの横浜到着を知らせる大久保一翁宛森有礼書簡 (図書館所蔵)
 
 

創設期(明治時代)



▲初代所長 矢野二郎 1883(明治16)年まで、商法講習所の存続に奮闘した。


▲商法講習所木挽町校舎 1876(明治9)年に移転し、約10年間使用した。 (2枚とも「東京高等商業学校創立四十年記念帖」より)


▲「商法講習所略則(明治14年4月)」 (図書館所蔵) 1876(明治9)年8月に、矢野二郎所長が発表したもの。


▲明治36年当時の東京高等商業学校正門 (卒業アルバム(明治36年)より)
 

  1874(明治17)年3月、商法講習所は、東京府から農商務省に移管され、初の国立の商業学校として東京商業学校と改称される。
 1885(明治18)年、東京外国語学校(現東京外国語大学)等と合併、神田区一ツ橋通(現中央区神田一ツ橋)に移転、さらに東京外国語学校と分離し、また所管も文部省となり、1902(明治35)年に東京高等商業学校と改称した。
 1901(明治34)年2月、欧州留学中の神田乃武、福田徳三、関一ら八名による「商科大学設立ノ必要」(いわゆる「ベルリン宣言」)が起草され、その影響によって、商科大学設立運動が進められていった。
 
 

申酉事件


 1907(明治40)年、商科大学が設立されることとなり、高商教授側は高商附属の専攻部を独立の商科大学とする案を主張したが、文部省及び東京帝大側は東京帝大法科大学内に商科を併置し、専攻部を廃止するとした。
 これに対して全校生徒、同窓会は抗議運動を展開、1909(明治42)年5月11日の学生大会は学生総退学を決議、「校を去るの辞」(武井大助起草)を朗読して学校に訣別した。
 専攻部廃止を撤回させた、この「申酉事件」は、一橋リベラリズムの源流となり、以後、大学昇格のためにアカデミズムの基礎を固めようという動きが進行していった。


▲「校を去るの辭」 明治42年 (図書館所蔵)
 


▲明治44年当時の東京高等商業学校全景 (卒業アルバム(明治44年)より)
 
 

大学昇格

 渋沢栄一は、申酉事件の際にも、商議員を代表して学生の復学のために尽力した。
 東京高等商業学校の大学昇格は、1920(大正9)年4月に実現し、東京商科大学と改称した。
渋沢栄一が、1900(明治33)年に初めて世に昇格を訴えてから、20年の年月を要した。


▲福田徳三博士講義風景
  (卒業アルバム(大正8年)より)
 


▲三浦新七博士講義風景
  (卒業アルバム(大正8年)より)


▲三浦新七講義ノート (図書館所蔵)
 
 

大正期の図書館


「"TEMPUS FUGIT"の文字は光陰如矢のラテン格言を記し其の上に時計を配して惜寸陰の意を表はせるなり」と「御大典記念圖書館に關する説明及平面圖」にある。御大典記念図書館は、大正6年5月に落成、9月に開館し、その正面に掲げられた。現在は、図書館本館の書庫入口に掲げられている。
 


▲「御大典記念圖書館設計立面圖」                ▲「御大典記念図書館」
     (額入)(図書館館長室)                              (卒業アルバム(大正15年)より)
 

 大正期から昭和初期にかけて、福田徳三、左右田喜一郎、上田貞次郎ら本学出身の教官層の充実やその社会活動にはめざましいものがあり、「一橋の黄金時代」と言われた。
 それは、図書館の充実にも反映され、1921(大正10)年にはギールケ文庫、1922(大正11)年にはメンガー文庫、1929(昭和4)年には左右田文庫が収められた。
 


▲大正14年頃の図書館(卒業アルバム(大正14年)より)
左上に、「TEMPUS FUGIT」が架かっている。
 
 

関東大震災と国立移転


   
▲▼関東大震災後の東京商科大学 (神田一ツ橋) (写真2枚とも 図書館所蔵)

 1923(大正12)年9月1日の関東大震災により、構内の木造建築物は概ね全壊・半壊し、さらにその後の火災により甚大な被害を被った。写真は、倒壊の危険があったため大正12年10月4、7、10日の3日間に渡って工兵隊によって行われた残存校舎爆破後の様子。
 図書館(写真後方に見える)は旧専門部教室(三井ホール)とともに多大の損害はあったものの、奇跡的に震災火災を免れ、約30万冊の蔵書と三井ホールに収容されていたメンガー及びギールケ文庫も無事であった。
 
 震災後、本科及び専門部は神田の仮校舎において、予科は幡ヶ谷の東京高等学校の校舎を借りて授業を再開するが、予科は大正13年4月から石神井の仮校舎に移り、専門部は昭和2年4月、本科は昭和5年9月に北多摩郡谷保村(現国立市)に移転した。


▲大正15年3月頃の国立 (箱根土地(株)の宣伝用絵はがき 学園史資料室所蔵) 中央付近に建設中の兼松講堂らしきものが見える。


▲昭和6年移転直後の国立全景(卒業アルバム(昭和7年)より) 左から、大学本部及び教室、図書館、兼松講堂
 
 

昭和〜敗戦


  
▲大学本部及教室(現本館)              ▲図書館 (2枚とも「國立移轉記念」絵はがきより図書館所蔵)


▲兼松講堂 (「東京商科大学兼松講堂落成記念」絵はがきより 学園史資料室所蔵)
 
 

籠城事件

 1931(昭和6)年、臨時行政財政審議会による行政整理案が東京商科大学の予科及び専門部の廃止を含んでいることを知った東京商科大学各部科連合教授会は、10月2日、反対を決議、全学生大会は「声明」を発し、10月5日から旧校舎で籠城を決行することとなった。この大学をあげての猛反対に、文部省は10月16日、予科・専門部の存続を決定した。

▲籠城事件の「聲明」 (図書館所蔵)


▲米軍艦載機来襲により被弾した大閲覧室スタンドと薬莢 (図書館所蔵)
 

 戦時中、本学では、兼松講堂、本部建物等が中島飛行機を中心とした第一軍需工廠等に接収されていた。空襲が夜昼となく行われ、このスタンドは、1945(昭和20)年2月17日午前10時10分に図書館が銃撃された時の傷跡である。

 1949(昭和24)年、敗戦により、新制大学として、「社会科学の総合大学」を理念とする一橋大学が誕生した。
▲「一橋の鐘」 (図書館所蔵)
 
 

図書館所蔵の貴重資料の一部


 ▲戦前期アジア諸国写真コレクション              ▲札差事略                       ▲札差会所文書箱
 


  ▲岡田家文書                 ▲長谷川木綿店古帳                   ▲水沢藩地籍帳
 
 
 
 


      ▲大明会典                   ▲中支金融史資料


一橋大学附属図書館 
update: 1-nov.-2001