日・EUフレンドシップウィーク企画展示
EUの公用語

民族と言語

たとえば、平凡社の『世界大百科事典』の「百科便覧」の「言語」の項には「世界の主要言語と言語人口」が掲載されています。その出典の The world almanac and book of facts には、native と total の2本立てで数値が挙がっており、より新しい版では、人口増に伴って、順位もかなり入れ替わっています。また、柴田武(編)『世界のことば小事典』東京 : 大修館書店, 1993, p.555には「<付録2> 話者5000万人以上の言語・20」が掲載されています。

この種の数値は、ある程度の目安にはなりますが、言語の使用人口を正確に集計することは、原理的に不可能です。

「 ... あることばが独立の言語であるのか、それともある言語に従属し、その下位単位をなす方言であるのかという議論は、そのことばの話し手の置かれた政治状況と願望とによって決定されるのであって、決して動植物の分類のように自然科学的客観主義によって一義的に決められるわけではない。... 。
   たとえば、埼玉県よりまだ小さいルクセンブルクでは国民の大部分にあたる約三〇万人が、ドイツ語によく似た方言、あるいはことばを母語としている。このことばは、外国人であってもドイツ語にある程度堪能であれば十分意志が通じる。... 。かれらは、ドイツ語とははっきり別の、固有のレッツェブルギッシュを、すなわち、ルクセンブルク語を話しているのだと言い張り、ついに、初級学校の授業科目として、隣接国の言語であって自国の公用語でもあるフランス語、ドイツ語と並んで、ルクセンブルク語の授業を導入しようかというところまでこぎつけている。
   もし、言語学だけからみた尺度を、いわゆる中国語という一大方言群にあてはめるならば、漢系民族だけのなかに、二〇も三〇もの独立言語をもった独立国家を誕生させねばならないであろう。しかし、相互に会話が通じないほどへだたった言語でも、そこでは漢字という共通の文字でつながれており、意識としても、たかだか方言関係の差であるとしか感じられていない。」
(田中克彦『ことばと国家』東京 : 岩波書店, 1981 (岩波新書 ; 黄版175), p.9-10)
「   本書で「話し手」というばあい, 原則として,「その言語を母語として話す人」という意味であって,臨時にその言語を話す人は加えてない.しかし,二つ三つの言語をほとんど同じ程度に話す人の母語をどれと認めるかについて問題が生じるばあいがある.また,絶滅に瀕した少数言語において,現実には,その母語の能力がかなり落ちていても,「母語愛」の心情から,自分はその母語の話し手であると調査者に答えたり,アンケートに記入することもある.したがって,「母語話者」の基準のとりかたによっては,統計上の数値に大きな揺れがあらわれるという結果になる.」
(田中克彦, H. ハールマン『現代ヨーロッパの言語』東京 : 岩波書店, 1985 (岩波新書 ; 黄版 292), p.198)
「   こうした言語統計上のやっかいな問題と並んで,言語名の表記そのものにもむつかしい問題がある.たとえばフラマン語のばあい,それは独立の言語なのか,それともオランダ語の方言かといった議論が生じるような,本書でいう「文化方言」の取り扱いである.... .
   以上の説明によって,読者は,言語統計のむつかしさと,こうした数字は調査報告者の観点によって,いかに変るものであるかも知って,今後この種の統計を利用する際の参考にしていただきたいのである.」
(田中克彦, H. ハールマン『現代ヨーロッパの言語』東京 : 岩波書店, 1985 (岩波新書 ; 黄版 292), p.200)
「 ... 言語の数
   この地球上にはいったいどれだけの数の言語が存在するのか ... かつてフランスのアカデミーが,世界の言語の数を2,796と数えたといわれるが,それ以来,大体3千というのが,通俗言語学書にあげられている数字である.ところが近年になって,これまで調査のゆきとどかなかった地域の調査が進むにつれ,予想される言語の数は,ぐんぐん増えてきている.... 今日,多くの研究者は,その数は5千に及ぶと考えており,一部では,7千からさらにそれ以上に及ぶのではないかとも考えられている.この「世界言語編」では,3,500余の言語に言及されている... .
   このように,誤差とはいい難いほどの数の差があるのは,なぜであろうか,そして,良心的な言語学書が,大体の数すらあげていないのは,いかなる不確定要素が存在するからなのであろうか.まず第一にあげなければならないのは,今日,依然として調査の行き渡っていない地域のあることである.....
   調査が行き渡っていないというのは,いわば物理的な困難であるが,それは,険しい地形とか,厳しい気候条件だけを意味するのでは決してない.絶えず移動している民族もあれば,旱魃や飢餓によって,やむをえず移動する人々もいる.戦争ともなれば,言語調査どころではなく,政治的に不安定な地域には立ち入ることもできない.....
   次に,言語の数を明確にできないもう1つの理由は,何をもって1つの言語であると認定するかの基準がないことである.....数多くの言語で,方言の話し手の間で相互の理解が不可能であるのに,それを1つの言語と見なすのに対し,逆に,数多くの言語で,話し手どうし相互に十分意志が通じるのに,その2つの方言は別な言語であると見なされる.このような場合,独立の言語なのか方言なのかの区別は,しばしば,政治的,宗教的,地域的,歴史的などの,言語的特徴以外の基準によって行なわれる.... .
   ... 中国語やアラビア語のように,文字のレベル,すなわち,文語のレベルでは1つの言語と見なされるが,話しことばのレベルでは,地域的な方言ごとに別の言語であると見なされる場合がある.」
(亀井孝,河野六郎,千野栄一(編著)『言語学大辞典』第1巻「世界言語編」上. 東京 : 三省堂, 1988, p.xiv-xv)

言語の数は、日常用語では「nか国語」という数え方をするので、あたかも国家の数と同じく百数十程度であるかのような錯覚を招きます。しかし、圧倒的多数の言語は、いずれの国家の「国語」でもありません。個々の言語の使用地域の境界線は、国境線と一致することの方がむしろ稀です。複数の言語を公用語とする国もあれば、逆に複数の国で常用されている言語もあります。世界の言語の数は、数千種類といわれ、正確な数は不明です。

「   私たちは、「外国語」とひとことでよんでいるが、ことばは、基本的に国を単位として成り立っているものではない。世界の国の数はせいぜい二〇〇たらずだが、言語の数はじつに五〇〇〇にもおよぶ。そのひとつひとつの言語のにない手が民族であるとすれば、ことばは民族を単位として考えるべきものである。
   民族がますます顕在化していく今日、これから日本語以外の言語は、「外国語」とよぶより、「他民語」とよぶのがふさわしいのではないか、と思っている。」
(福井勝義「「他民語」の修得は、異文化理解の基本」. 阿部謹也(編)『私の外国語修得法』東京 : 中央公論新社, 1999 (中公文庫), p.137-159 より p.156)
「   そもそも、ある言語のことを言おうとするとき、それは言語以外の名によってしか呼ぶことができない。おかしなことに、ふつう言語の名は言語そのもののなかからは出てこないものなのである。たとえば日本語というとき、それは、日本というを本拠としていて、同時に日本民族の話すことばとして指されている。」
(田中克彦『ことばと国家』東京 : 岩波書店, 1981 (岩波新書 ; 黄版175), p.11)
「たとえば、あなたは何カ国語を知っているかというふうにたずねる。それが、国家のない言語、たとえばエスキモー語であっても、こういう表現のなかでは語と言わざるをえない。
   あるいは、日本語以外の言語を呼ぶにも外語という以外に表現が見出されないのである。たとえばバスク語は、バスク語国家が存在しないのにもかかわらず外語と呼ばざるをえないし、それどころか日本国家内の異族であるアイヌの言語をも外語と呼ぶ以外に、日本語は適切な表現手段をもたないのである。」
(田中克彦『ことばと国家』東京 : 岩波書店, 1981 (岩波新書 ; 黄版 175), p.109)
「   人類においてはどの人口集団の間でも交配が可能だから、人類はただ一つの種を構成している。生物学者によって人種概念が使用されなくなったのは人種差別を助長しないための人道的配慮などからではなく、この概念がそもそも無意味だからである。
   人種とは客観的な根拠をもつ自然集団ではなく、人工的に区分された統計的範疇にすぎない。どの身体的特徴 (身長・体形・髪・血液型・皮膚色・眼色・頭形・鼻形・唇形・体毛の濃さなど) に注目するかによって (その) 分類の仕方は異なってくる。 ... 。
  ある形質を軽視し、他の形質を重要視する理由はまったくない。」
(小坂井敏晶『民族という虚構』東京大学出版会, 2002.10.10, p.3-4)
「   バルカン半島やアフリカで民族紛争が絶えないのは民族の境界と国境とが一致していないからだという説明がしばしばなされる。しかしそれは正しい状況分析ではない。アフリカ大陸の直線的に区切られた国境線を見れば、そこに過去の植民地形成の歴史が一目瞭然に映し出されるが、歴史的偶然に大きく左右されながら成立するのは国境だけではない。民族という単位も同様に、政治・経済など外的条件の下に人々が分断され境界が設けられることをその成立契機としている。
   複数の国民や民族がいるために国境や民族境界ができるのではない。その逆に、人々を対立的に差異化させる運動が境界を成立させ、その後に、境界内に閉じこめられた雑多な人々が一つの国民あるいは民族として表象され、政治や経済の領域における活動に共同参加することを通して、次第に文化的均一化が進行するのである。」
(小坂井敏晶『民族という虚構』東京大学出版会, 2002.10.10, p.14)
「   民族対立とか民族紛争とかいう表現があるが、これらの言葉が使用される際には、複数の民族の間に相容れない利害関係や、信仰上の相違、文化内容の差異などという与件がまずあり、そのためにこれらの民族が平和に共存することが難しいのだという理解が普通なされている。しかし今まで説いてきたように、固定した同一性を出発点として民族を発想すること自体がすでに誤っている。集団の対立は必ずしも現実の利害関係や考え方の違いがあるために生ずるとは限らない。
   社会心理学における実証研究は、二つの集団の間に利害対立がまったくない場合でも、単に範疇化が起きるだけで、自らが属する集団を優遇し、他の集団の構成員を差別する傾向を明らかにしている(21) [Tajfel, Henri(ed.) Differentiation between social groups : studies in the social psychology of intergroup relations. London ; New York : Academic Press, 1978 (European monographs in social psychology ; 14)] 。二つの集団の間に差別的認知が生じるための必要かつ十分な条件を調べる目的で実験が試みられたが、驚くほど簡単に差別が現れる事実が確かめられた。例えば硬貨を投げて裏が出るか表が出るかによって無作為に選ばれた半数の被験者を「紅組」と名付け、残りの半数を「白組」と呼ぶだけで、各被験者は自らが属する組をひいきするようになる。むろん組分け以外の要因は慎重に除外されている。被験者の間に知り合いはおらず、誰もが初めて出会った人ばかりだし、被験者どうしの実験中における接触は、同じ組に属する者に対しても、また相手の組に属する者に対してもまったくないように注意されている。また被験者に知らされるのは自分の所属のみであり、他のどの被験者がどちらの組に属するかはまったく知ることができない。すなわち匿名状態で実験は行われた。また各被験者は、他の被験者に対する評価はするが、自らに対してはまったく評価を行わない。したがって自分の組に属す他の被験者を優遇することによって自分自身が得られる利益は何もない。それに組分けは、くじのような完全に無作為かつ人為的な方法で行われた。
  常識的に考えると差別する動機があり得ないこのような条件の下でも、組分けすなわち範疇化をするだけで、他の組の構成員を差別し、自らが属する組の他の構成員を優遇するようになる。例えば一人の構成員が描いた絵の評価をさせると、その者が自らと同じ組に属す場合には高い点を付け、全く同じ作品でも、他の組の構成員が描いたことにして評価させると低い点数しか与えないという現象が現れる。」
(小坂井敏晶『民族という虚構』東京大学出版会, 2002.10.10, p.16-17)
   民族は虚構に支えられなければ成立し得ない現象だが、我々の生存を根底から規定している現実でもある。民族同一性が錯覚の産物であることを今まで詳らかにしてきたのは、このような錯覚から目を覚まし、自律した個人として生きよなどという結論を導き出すためではまったくない。
   民族が虚構にすぎないならば、なぜ民族問題がかくも恐ろしい力で人々を襲い、苦悩に巻き込むことがあり得るのかという疑問が持たれるかもしれない。しかし民族だけに限らず、個人心理から複雑な社会現象にいたるまで実は虚構と現実は密接な関わりを持っている。虚構と言うと、嘘・偽り・空言のように事実と相違するという消極的な側面がふつう表に出されている。しかし虚構とは事実の否定ではない。それどころか虚構の助けなしには我々を取り巻く現実がそもそも成立し得ないということに気づかねばならない。
(小坂井敏晶『民族という虚構』東京 : 東京大学出版会, 2002, p.59)

一橋大学附属図書館 学術・企画主担当