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ドーデの短編小説「最後の授業」

Alors d'une chose à l'autre, M. Hamel se mit à nous parler de la langue française, disant que c'était la plus belle langue du monde, la plus claire, la plus solide: qu'il fallait la garder entre nous et ne jamais l'oublier, parce que, quand un peuple tombe esclave, tant qu'il tient bien sa langue, c'est comme s'il tenait la clef de sa prison...      そして次から次へと、アメル先生はぼくたちにフランス語について語り始め、こんなことをおっしゃいました: フランス語は世界じゅうでいちばん美しく、いちばん明晰で、いちばん力強い言葉だということ、また、ぼくたちのあいだでフランス語を守り、フランス語を決して忘れないようにしなければいけない、なぜなら、ある民族が奴隷の身に落ちたとしても、自分たちの言葉をしっかり保っているかぎりは、それはまるで自分たちの牢屋の鍵を握っているようなものだからだということ…。
「   「最後の授業」という文学作品がある。フランスの作家ドーデによって書かれた短編で、明治時代に我が国に翻訳紹介されて以来、今日まで多くの読者に親しまれてきた。また、教科書教材としての支持も高く、とりわけ国語教科書の教材として広範に採用されてきた作品でもある。」
(府川源一郎『消えた「最後の授業」 : 言葉・国家・教育』東京 : 大修館書店, 1992.7 (Taishukan 国語教育ライブラリー), p.i)
「   フランスの敗戦とともに、アルザスとロレーヌではフランス語の授業が禁じられ、フランス語教師アメル先生は、職を失ってアルザスを去らねばならない。先生は、「フランス語は世界じゅうでいちばん美しい、いちばんはっきりした、いちばん力強いことばである」などなどと述べ、最後に「フランスばんざい!」と黒板に書いて教室を去ったという物語である。それは「アルザスの一少年の物語」という副題がついていて、フランツという子供の目を通して眺めた光景ということになっている。」
(田中克彦『ことばと国家』東京 : 岩波書店, 1981 (岩波新書 ; 黄版 175), p.123)
「この「最後の授業」が教材として初めて教科書に取り上げられたのは、一九二七(昭和二)年のことだった。そのとき教科書教材として登場して以来、途中に一五年ほど掲載が途切れたことはあるものの、一九八六(昭和六一)年まで、この作品はおよそ五十年間も国語科の教材として機能し続けていたのである。さらに、戦後に限って言えば、国語教育の現場では、「最後の授業」は常に話題として取り上げられて論議される、代表的な教科書教材のひとつだった。
   それが、一九八六(昭和六一)年を限りとして、国語教科書からは完全に姿を消してしまった。」
(府川源一郎『消えた「最後の授業」 : 言葉・国家・教育』東京 : 大修館書店, 1992.7 (Taishukan 国語教育ライブラリー), p.iv-v)
「   ドーデのこの短編は、日本では「国語愛」を説くための伝統的な教材に仕立てあげられているが、その歴史的背景を考えてみると、これほど問題をふくむ作品はない。この短編の舞台アルザスの、土地の本来のことばはドイツ語、あるいはそれに近いことばである。独仏両国のあいだでたびたび帰属が変るその複雑な事情については第五章にゆずるとして、永年の言語弾圧にもかかわらず、いまなお七〇%のドイツ語(あるいはアルザス語)を母語とする住民 ... 。」
(田中克彦『ことばと国家』東京 : 岩波書店, 1981 (岩波新書 ; 黄版 175), p.51)
「アメル先生はフランツたちに母語ではなく「外国語」を教えていたのにほかならなかった。アルザスをめぐるそのような言語環境に視座をおいてこの作品を読み返してみると、フランス語の美しさを語りフランス万歳と大書して授業を終えたアメル先生の行為は、滑稽でもあり、またある見方をすれば、アメル先生はアルザスにフランスなるものを押し付けようとした「ひどい人」にほかならず、自分たちの言葉を奪われようとする子どもと祖国愛を最後まで説き続けて教壇を去ろうとする教師という『最後の授業』の悲劇の構図は、まったくの虚構にほかならないことになる。」
(小西正雄「『最後の授業』をめぐる批判的ディスクールの再解釈」. 国際異文化学会(編集)『異文化研究』1. 東京 : 文化書房博文社, 2004.10, p.95-122 より p.96-97)
「ドーデのアルザス理解が、現実的な裏付けをまったく欠いた恣意的なものであったというわけではない。というより「最後の授業」に登場してくるオゼールじいさんや、元の村長、郵便配達夫などが、アメル先生の最後の教室に自発的に集まったように、アルザス住民たちがフランスという「去りゆく祖国について敬意を」持っていたことも、また確かなのである。」
(府川源一郎『消えた「最後の授業」 : 言葉・国家・教育』東京 : 大修館書店, 1992.7 (Taishukan 国語教育ライブラリー), p.17)
「歴史的に言えばドイツの一部であったエルザス・ロートリンゲンは、普仏戦争前には、政治意志共同体として完全にフランスに属していたのである。
... 。
... アルザス住民の間に、普仏戦争前後に反プロシア親フランスの感情が広く行き渡っていたことは確かなようである。」
(府川源一郎『消えた「最後の授業」 : 言葉・国家・教育』東京 : 大修館書店, 1992.7 (Taishukan 国語教育ライブラリー), p.19)
「   アメル先生は、こうも言う。
   今あのドイツ人たちにこう言われても仕方がありません。どうしたんだ、君たちはフランス人だと言いはっていた。それなのに自分の言葉を話すことも書くこともできないのか!
  ここで言われている「自分の言葉(votre langue)」というのは、文脈からいってもむろんフランス語のことである。ということは、フランス人であると思っている、あるいはフランス人でありたいと願っているアルザスの人々は、実際にはフランス語を話すことができないのだ。つまり、アルザス人たちは政治意志共同体として自ら進んで選んだはずのフランスの言葉を、「話す」ことはできないのである。」
(府川源一郎『消えた「最後の授業」 : 言葉・国家・教育』東京 : 大修館書店, 1992.7 (Taishukan 国語教育ライブラリー), p.24-25)
「編集部からまわって来た次のような「誤り」の指摘は、 ... 著者をパニックにおとし入れる十分な迫力があった。 ... 。
——最近貴社が出版されました『ことばと国家』に内容上の誤りがありましたので指摘させて頂きたいと思います。ドーデの「最後の授業」の引用部分「ドイツ人たちにこう言われたらどうするんだ、君たちはフランス人だと言いはっていた。だのに君たちの言葉を話すことも書くこともできないではないかと」は原文では “Vous prétendiez être Français, et vous ne savez ni lire ni écrire votre langue!” となっており、下線部分の訳は「読む」の誤りです。従って以下に続く著者の記述「……いったい自分の母語であれば書くことはともかく話すことができないなどとはあり得ないはずだ……」という指摘も不適当だということになります。貴社を通じて著者に知らせて頂ければ幸いに思います——
   もしこの手紙にあるように、ほんとに原文が「読む」であったなら、たしかに私のあの部分の議論はすべて崩れ去ってしまう。それは、単純な思いちがいでしたと詫びて、「話す」を「読む」に入れかえたくらいの手なおしですむことではない。しかし、言語学が教える言語というものの性質を考えれば、ここはどうしても「話す」でなければならない。「読む」能力は、人間が長じてから二次的に与えられる、つけ加え的で受動的なものであるのに対し、「話す」は教養の如何を問わず、誰にでもできる本源的な能動の行為であって、ある言語とか方言とかがよどみなく自然に話せるか否かが、その話し手にとって、そのことばが母語であるかどうかを知る決め手になるからである。こうしたりくつによる思い込みもあって、私は持ち前の軽率さで、うっかり「読む」を「話す」にとりちがえてしまったのだろうか。大あわてで、手近のテキストを見ると、そこにはたしかに parler(話す)とある。しかし、手紙の主はきちんと原文の抜き書きまで添えているではないか。 ... 。とにかく、手紙の主には、さきの引用文の出どころを問いあわせる一方で、フランス語の各版と、我が国で現われた対訳書等にあたってみることにした。 ... 。
   一九〇七年アルマン・コラン版、... さらに一九三〇年の全集版——そのすべてが parler とする点で一致している。 ... 。
... 。
   そうこうするうち、「話すは誤り」と書いてきた読者から返事がとどき、一九八〇年版のリーヴル・ド・ポシュの名があげてあった。私もリーヴル・ド・ポシュを手にとってみて、たしかに、そこには「読む」となっているのを見とどけたのである。」
「   (二〇〇二年七月の付けたし) ... 。
   ... 「最後の授業」がはじめて発表された『レヴェヌマン』紙一八七二年五月十三日号の写し ... を読みなおしてみると、はっきりと「話す」になっている。これでこの「始末記」にも最終的に始末がついた。「話す」をいったいいつ、誰が「読む」に改ざんしたかという問題のみを残して。」
(田中克彦『法廷にたつ言語』東京 : 岩波書店, 2002 (岩波現代文庫 ; 社会 ; 68), p.264-274 より p.265-268, p.273-274)
「   「最後の授業」の掲載されている短編集は『月曜物語』(Contes du lundi)である。この短編集は、「月曜(lundi)」の「物語(contes)」という題名からも推察されるように、ほぼ毎週月曜日、新聞紙上に連載された小話を集めて一書にしたものである。
  ドーデが、この『月曜物語』に収録されている短編を、パリの新聞『ソワール』に連載し始めたのは一八七一年七月のことであった。その仕事は翌年三月まで続き、ついで四月からは掲載紙を変え一二月まで、やはりパリの新聞『レヴェヌマン』に続編を発表、一八七三年の三月に『ビアン・ピュブリック』紙上で連載を終えた。そしてこれらの作品群はただちにルメール書店から『月曜物語』(Contes du lundi)として刊行されたのである。」
(府川源一郎『消えた「最後の授業」 : 言葉・国家・教育』東京 : 大修館書店, 1992.7 (Taishukan 国語教育ライブラリー), p.1)
「  ドーデが、パリの新聞『レヴェヌマン』に「最後の授業」を掲載した一八七二年五月一三日という日は、それ[1871年5月のフランクフルト条約によるアルザス・ロレーヌ地方の割譲]からちょうど一年後のことだった。普仏戦争による愛国心の高揚と敗戦の屈辱とを共に体験したパリ市民たちの心情の中で、この短編が書かれたことは重要である。」
(府川源一郎『消えた「最後の授業」 : 言葉・国家・教育』東京 : 大修館書店, 1992.7 (Taishukan 国語教育ライブラリー), p.7)
「   「最後の授業」は、72年5月13日の L'Evénement 紙に発表された、シリーズ41篇中34番目の作で、73年版『月曜物語』では掲載31篇中の3番目に位置したが、75年の第二版で巻頭に置かれることになった作品である。」
(川那部保明「アルフォンス・ドーデ「最後の授業」の問題域 : 「市民」と「人間」=「ひと」のあいだ」『論叢現代文化・公共政策』1, p.1-19 (2005.3) より p.2)
「この作品が、初めて日本に紹介されたのは、一九〇二(明治三五)年のことであった。発表誌は「新小説」の三月号で、邦題は「をさな心」、紅葉山人(尾崎紅葉)と羝夢生の共訳となっている。冨田仁によれば「この翻訳は、英訳文からの重訳である」ということである。」
(府川源一郎『消えた「最後の授業」 : 言葉・国家・教育』東京 : 大修館書店, 1992.7 (Taishukan 国語教育ライブラリー), p.37)

  Daudet, Alphonse. "La dernière classe" 「最後の授業」

一橋大学附属図書館 学術・企画主担当