平成19年度一橋大学附属図書館企画展示
阿部謹也と歴史学の革新
講演
日    時: 平成19(2007)年11月12日(月) 14:00〜15:30
場    所: 一橋大学 西キャンパス 本館 26番教室
講    師: 土肥恒之(一橋大学大学院社会学研究科教授)
演    題: 阿部先生の社会史研究と一橋大学の伝統


阿部先生の社会史研究と一橋大学の伝統

土肥です。よろしくお願いいたします。今、図書館長から紹介がありましたけれども、話に入る前に、最初にお手元の配布資料をご確認いただきたいと思います。最初は図書館の学術情報課が作製した、8ページの色刷りの大変きれいなパンフレットです。今日の私の話は多少内向きですが、私の話には出てこない点について簡潔に、かつ的確に言及されていますので、あとで是非お読みいただきたいと思います。それから、去年の10月29日に「阿部先生とのお別れの会」という会をやらせていただいたのですけども、そのとき作製した冊子です。かなり多めに作りましたので、今日は資料として使わせていただきます。それからプロイセンの地図、ニュルンベルクの街など図版が入ったB4の紙がありますけれども、これはすべて阿部先生の本から取ったものです。最後に今日の話のレジュメです。レジュメといってもごちゃごちゃと単語を並べただけのレジュメですけども、一応この順序で話を進めていきますので、ご覧いただきたいと思います。では、どうぞよろしくお願いいたします。

T まえおき

ただ今も斎藤図書館長から紹介がありましたけども、私は阿部先生の最初の赴任地である小樽商科大学で先生の歴史学の授業を聞いて、歴史学の道に入ったという者です。先生はまだ赴任されたばかりで、30歳前後という大変若い歴史家でした。それ以来、先生が書かれたものはだいたい読んできたように思います。10巻本の先生の著作集、『阿部謹也著作集』が筑摩書房から出ていますけども、それについても先生から頼まれ、少しお手伝いをしました。ただ、読んできたと言いましたけども、字面を読んできただけで、私の専門がドイツ中世史ではないこともあって、深く理解しているとはとても言うことはできません。しかも先生のご関心は、また視野も大変広くて、専門に狭く限定されているということはまったくありません。先ほどの著作集には各巻に月報が付いており、1巻に3人ですから全部で30人の方がエッセイを書かれているのですけれども、それを見ますと歴史家は少なくて、そのほか実にさまざまな人との交流があったことが分かります。非常に幅広い方だったのです。また、先生はよくドイツの詩人のリルケやヘッセなどを論文で引かれます。あるいは日本の高村光太郎や金子光晴といった詩人の西洋体験などを論じており、これもまた非常に幅広いのです。先生自身が詩を書かれたことはないと思いますけれども、詩人のような繊細な感性を持った歴史家であったことは間違いないと思います。

このように見ますと、世俗とは無縁な方のようなイメージになるかもしれませんが、そうではなくて、二期6年にわたって学長として手腕を発揮されたわけですから、誰よりも現実に精通していた方であったともいえるのです。従って先生は、正直申し上げますと凡庸な私の理解を大きく超えているわけで、先生の人間や人格について何か申し上げることはできないと思います。ただ、ご研究については、幸い先生は、例えば亡くなる1年前に自伝を書かれました。それから1988年に『自分のなかに歴史をよむ』という、これも自分のことをお書きになられました。1995年にも『北の街にて』、これは小樽の時代のことですけれども、地方での生活を前面に出されながらご自分のことを書かれています。ここでは自伝三部作と呼んだのですけれども、そういうものを書かれていますので、先生のお仕事についての手掛かりはもちろんあるわけです。そのほかに私たちは先生が60歳(還暦)を迎えられたときに著作目録を編集し、そのとき日ごろから疑問に思っている点を中心にインタビューをしました。その際、なかなか興味深い話を伺うことができました。これは非売品で、もう残部はないのですけれども、そういう本ができています。そういうことで私なりの理解をお話しできるのではないかと思って、今日ここに立っているわけです。

それから、もう1点「まえおき」を加えると、先生が亡くなられてから幾つかの阿部謹也論が出ています。その中で、長年、先生の同僚であった社会学部の安丸良夫名誉教授が、岩波現代文庫に収められた『ヨーロッパを見る視角』に短いけれども含蓄ある解説を書いておられます。安丸先生はそこで研究者としての阿部先生の人生を三つの段階に分けておられます。最初に一橋大学の大学院生として、そして小樽商科大学の在任中の「ひたむきな研鑚の時代」、これが第1段階です。次に、ヨーロッパ中世社会史研究者として広く脚光を浴びた「新しい社会史研究の旗手としての栄光に満ちた時代」という分け方をしています。そして最後に、「世間」論をひっさげて日本社会を批評し批判した「『世間』論の時代」という、この三つの時期に分けておられます。

大変明快な整理だと思いますけれども、もちろん1人の個人ですから、生涯を貫く底流といったものもあるように思います。例えば、一言だけ言うと、先生の「世間」論という第3期の時代には、金子光晴という詩人が大変重要な位置を占めているのですけども、先生は学生時代から金子光晴の詩に魅かれていたということをしばしば書かれておられます。それが30年後に「世間」論という形を取ったという側面があるように思います。それから、後でお話するのですけども、第2期についても前半と後半ではかなり様相を異にしているように思われます。従って、区分だけが独り歩きしてはまずいのですけれども、ここでは安丸名誉教授の区分に従って、第1期と第2期について、特に私が重要だと思っている研究を取り上げて、先生が目指されたものは何であったかという話、そして本学の伝統との関わりという問題について、できるだけ分かりやすくお話したいと考えています。

II オステローデ、地域史の研究

では早速「オステローデ、地域史の研究」というところに入っていきます。阿部先生の「ひたむきな研鑚の時代」の成果は、1974年7月に『ドイツ中世後期の世界』という500ページに近い大著として実を結んだわけです。内容は、サブタイトルにありますように「ドイツ騎士修道会史の研究」ですけれども、騎士修道会というのは、一言で言いますと、詳しいことは私も知りませんけれども、12世紀の末の十字軍に起源を持ち、13世紀にバルト海沿岸のプロイセン地域に進出して領土を形成した「キリストの戦士たち」、騎士たちの国家です。そして14世紀には最盛期を迎えた「征服・植民国家」ですけれども、1525年にルターの宗教改革を受け入れ、ルター派を受け入れ、世俗のプロイセン公国になって歴史を閉じます。それが近代のプロイセン・ドイツ国家の基礎になったわけで、ドイツ史研究では大変有名なテーマであると言っていいと思います。このテーマを選択されたのは上原專祿先生のゼミナールですから、大学3年生のころで、個人的な背景としては、ご家庭の事情で、中学生のころ1年間だけ修道院で生活されたことが先生によって繰り返し語られています。本格的な研究はもちろん大学院に入ってからですけども、それ以来、2年間のドイツ留学を含め、当時は西ドイツですけども、ほぼ15年間にわたって、この研究に文字通り没頭された、心血を注がれたと言っていいわけです。研究がほぼ完成したころ、先生はまだ小樽商科大学におられたのですけれども、自信を持って「この本は50年持つ」と言われていました。私は当時、大学院の学生でしたけども、その話を先ほど紹介しました還暦のインタビューの際に披露しますと、「そんなことを言ったかな、でも20年は持った」と言って笑われていましたけれども、それから10年以上過ぎています。ですから、50年どころか、こういう本はもう二度と出ないのではないかと思っています。

そこで、『ドイツ中世後期の世界』ですけれども、すべての章がもちろん力が入っているのですけども、中心は第4章で、全体の3分の1を占めています。この部分は留学の成果であるドイツ語の著書、『コムトゥーライ・オステローデ』に依拠していると思います。コムトゥーライというのは、レジュメに書いておきましたように、修道院支配の行政単位ですが、同時に1つのまとまった社会経済的な生活空間ということです。配布した資料をご覧下さい。プロイセン(1310年から1466年)の地図ですけれども、全部でコムトゥーライ(行政単位)が27あります。番号が振ってあり、その21番目がオステローデというところになっています。地図のなかにも番号が振ってありますけれども、だいたい日本でいえば四国の香川県ぐらいの規模のところということで、このオステローデ地方の中世後期の約200年の国制、あるいは社会経済史の解明が、この本の目指すところであったのです。それから、地図の9番をご覧下さい。マリエンブルクというところで、ここがドイツ騎士団の総長のお城がある中心的なコムトゥーライです。それから、これは私が勝手に付けたのですけども、地図の端っこの図版の人物がアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハで、これは騎士団最後の総長です。参考までに付けておきました。

このようにオステローデの研究、地域史の研究、これが先生の留学の主要な目的だったのですけれども、では、なぜそのような地域史の研究を始められたのかという点について、先生は次のように説明されています。つまり、大学院の学生のころ、学界で支配的だったのは「大塚史学」でした。極めて理論的なヨーロッパ史理解で、簡単に言えば、これは語弊があるかもしれませんけれども、イギリス近代というものをモデルとして、尺度として、先進後進を測るような理論的な色彩が強い歴史研究の方法です。現在は「戦後歴史学」という言葉遣いが定着していますけれども、その「大塚史学」、「戦後歴史学」は戦後20年以上にわたって学会で支配的な学説だったのです。もとより首尾一貫した学説ではあるのですけれども、阿部先生はそれに対して強い違和感があったと言っておられます。どうしてかといいますと、そういう歴史理論、理論的な理解では、過去に生きた「農民の顔」がまるで見えないという感想を持っておられた。「農民の顔」というのは、多少、情緒的な言い方ですけれども、つまり「農民の生活や意識」が分かる研究が先生の当初目指されたところで、それにはどうすればよいかということなのです。そこで騎士修道会の歴史の勉強をしながら、対象をオステローデという地域に限定して、それに関してあらゆる関連史料を手に入れようとする。そういうことで研究が始まったらしいのです。なぜオステローデか、この21番目のコムトゥーライなのかということについては、我々のインタビューの中で答えておられます。それはたまたま1958年、このオステローデに関して、ある郷土史家が非常に便利な、地域の史料の抜き書きのような本を著した。そこには史料の所在なども書いてあって大変便利であった。また大した研究もなかったということで、対象をオステローデに定めて、徹底的な史料調査をやることにされたようです。

こうして日本でできることはすべて済ませて、生の史料を読むために西ドイツ留学をされたわけです。西ドイツ留学は1969年10月からですから、引き算をしますと、先生が34歳のときのことです。ところがドイツの受け入れ教授は、先生がオステローデをやりたいと言ったら、「そんなことは出来っこない」と言ったというのです。「それは無理だ」と断言したそうです。けれども先生は、「それをやるために来た」と言って頑張った。そうすると、その教授はぱっと態度を変えて、史料のある「ゲッチンゲンに一緒に行きましょう」と言ってくれた。こうしてゲッチンゲンの古文書館で手書き史料を読み始めたということです。こうして2年間の留学期間ですけれども、実質は1年半ぐらいで、その間、オステローデに関するさまざまな史料、ほとんどは手書きの史料ですが、それを読むことに費やされました。そのうえでドイツ語で200ページの著書にまとめられたということで、企画展示でも展示されています。本のカヴァーの裏側にたいへん若々しい先生の写真が載せられています。

こうしたオステローデの地域史研究が先生の留学の主要な目的でした。しかも最大の成果だったと言っていいのですけれども、もちろんそこだけではなくて、騎士修道会の歴史の細かな部分に関して、さらに徹底的に調べるということは当然あったと思いますけれども、中心はオステローデの地域史研究だったのです。そこでコムトゥーライ研究ですけども、これは当然、ドイツ人の歴史家の研究もたくさんあるのです。例えば、先生の本を書評したハイデ・ヴンダーという女性の歴史家は、地図の上では11番目のコムトゥーライ・クリストブルクについて研究をしておりまして、1968年、つまり先生の本より前に著書を刊行しています。内容は別にしまして、私も内容はよく分かりませんけれども、先生のものよりはかなり大きな本です。けれども、もちろん先生はドイツ人ではなくて、2年間の限られた留学期間しかない日本人であったわけで、こうした著作を出すこと自体、大変稀なことだったように思います。

日本の西洋史家にとっては決して容易なことではありませんで、むしろ「至難の業」と言ってよいことだと思います。かつて日本の西洋史家は、外国の学者の「糟粕(そうはく)を嘗める」、嘗めてばかりいるといわれていたのです。「糟粕」というのは古い言葉ですけども、お酒の絞りかすという意味で、つまり自分で史料に当たらずに、成果だけを適当にまとめているという非難が西洋史家にはなされていたのです。現在では大学院博士課程の後期、後半になりますと、多くのものが留学して、地方の文書館にまで足を伸ばして勉強する者もいますけれども、戦中や戦後はまったくそうした状況ではありませんでした。しかも長期留学もなかなか望めませんでした。先生はフンボルト財団の奨学金をもらって留学されたのですけれども、それでも地域史の研究となると、別の意味で高いハードルがいくつもあったのです。先生の著作は、そういういくつもの高いハードルを乗り越えられたわけで、その点はいくら強調しても強調し過ぎることはないと思います。もう十年以上前のことですけれども、NHKのBS放送で『世界わが心の旅』という45分の番組に出演されていました。今、図書館の企画展示室でビデオが流れていますけれども、先生は現在ポーランド領であるオステローデに旅をされて、ある村を訪問されて、「夢のようだ」と言われていました。留学当時は言うまでもなく東西冷戦の時代で、そのような訪問はまったく思いもよらなかったことだと思います。

以上、阿部先生のオステローデ研究の動機や成果についてお話してきました。これからの話はその上のことですけども、先生のような地域史研究への志向は先生だけのものではなかったということについて、少し注釈しておきたいと思います。本学では戦前に上原專祿先生が、ドイツ中世の史料研究で大変優れた成果を上げられてきたのですが、戦後、上原先生は、「世界史像の形成」という問題に専念されまして、1960年に定年を前に退官されたのです。従って、阿部先生が大学院にいるときの実質的な指導教官は、元学長の増田四郎先生でした。私が言うまでもなく、増田先生も著名なドイツ中世史家ですけれども、ただ戦中戦後ということですから、増田先生も留学の機会は得られなかったのです。ようやく1956年に初めてヨーロッパに1年間留学されているのです。増田先生は1908年のお生まれですから、すでに50歳に近い年齢でした。そこで増田先生によりますと、自分の留学というのは「しばらく学をとどめる」、つまり学問は脇に置いて、ヨーロッパというものを体験することを目的としていたと謙虚に述べられています。事実、増田先生はヨーロッパ周遊旅行をされており、旅行記も書かれています。ただ増田先生は、主な滞在先であった西ドイツにおけるLandesgeschichte、地域史研究が活発だということに注目され、帰国後、いろいろな機会に地域史研究の重要性について指摘されたわけです。

現在の統一ドイツは16州、地方政府(ラント)がありますけれども、そうした行政的な意味ではラントのほかに、都市を含めて歴史的に自立的なラントがドイツにはたくさんあるのです。そうしたラントの歴史研究、Landesgeschichteの研究、増田先生はこの点に着目されたのです。地域史研究といいますと、少し硬いですけれども、郷土史、つまり郷土の歴史を学問的にやるということで、そういうことを日本に紹介されたわけです。ただ、増田先生によりますと、「我々日本人がヨーロッパの地域史をまねるなどということは、そもそも不可能なことである」、そう言います。だから向こうで出ている「個別研究の成果を縦横に利用することによって、『日本人が見た』ヨーロッパの歴史を工夫しなければいけない」というのが増田先生の立場だったのです。そのためにもできるだけ多くの地域史の雑誌を集めなければいけないというわけで、結果として本学の図書館にはドイツ各地の地域史の雑誌が数多くあるのです。30を超える数の雑誌が集められているのです。もちろん、それさえドイツ全体からするとごく一部ですけれども、おそらく日本の大学図書館では最も多く集められているのではないかと思います。

このように、増田先生は地域史の研究に目を配らなければいけないということを強調されたのですけれども、先生のこのような提言は、先生の直接のお弟子さんで、経済学部でドイツ中世史を講ぜられていた山田欣吾名誉教授、そして故人ですけれども商学部の米川伸一教授らに受け継がれたのです。山田欣吾先生の留学は、阿部先生と一時重なっていますけれども、同じくドイツ中世のヒルデスハイムという司教領国について、地域史研究に従事されたのです。また、阿部先生のオステローデの著書について、現在、斎藤図書館長が代表理事をされている学会の専門誌『社会経済史学』に書評を書かれていまして、そこでドイツの通説を一部覆した研究として高く評価されておられます。(40巻2号、1974年)

それからイギリス史の米川先生の場合は、「大塚史学」に強く影響はされますけれども、増田ゼミの一員として、ノーフォーク地方を対象とした地域史の大著を書かれています。のちに経営史、つまり企業経営の歴史に移られましたけれども、当初は地域史に没頭されていたのです。山田先生も米川先生も阿部先生よりは少し先輩に当たる方ですけれども、1988年に亡くなられたイタリア中世都市史の清水広一郎先生は先生と同じ年で、都市史研究者ではありますけれども、都市フィレンツェの背景になるトスカーナ地方についての論文をいくつも書かれています。

このように増田門下生はいずれも、増田先生の言う「地域史の個別成果を縦横に利用してやらなければいけない」という段階を越え、自ら史料研究まで歩を進められたのです。もちろん地域史といっても幅広いわけで、方法やどういう内容を盛り込むかという重要な問題があるのですけれども、今日はこの点に触れることはできません。しかし、阿部先生が増田門下であったこと、そして地域史研究という考え方に共鳴されていたことは、おそらく確かなことだったと思われます。以上のように、阿部先生のオステローデという地域史の研究については、「戦後歴史学」とは一定の距離を置いた、本学の歴史学の伝統といったものを押さえておく必要があるのではないかと考えております。

III 「ヨーロッパ・原点への旅」、ヨーロッパと日本

次に、「『ヨーロッパ・原点への旅』、ヨーロッパと日本」に入ります。『ドイツ中世後期の世界』という本は、今お話しましたような地味な地域史研究に基づく成果ですけれども、阿部先生が広く注目されて脚光を浴びるようになったのは、同じ年に出た『ハーメルンの笛吹き男』であったことは言うまでもありません。おそらく皆さんも読まれたかと思います。「出色の歴史書」という評価の言葉だけ引いておきましたけども、絶賛を浴びた歴史研究だったわけです。先生はさきほどの地域史研究を進めるなかで、偶然「笛吹き男伝説」に出会われたわけですが、この伝説を手掛かりにして、近代市民社会の原型とされていた中世都市における市民権を持たない下層民の広範な存在や差別の問題に着目され、下からの斬新な視点を打ち出されていったのです。ただ、私は多少疑問に思っていた点がありまして、それは当初は「農民の顔」が見える研究ということを言っておられながら、この本の後は、そういったことはほとんど言われなくなった。農村のことはやられなくなった。この辺はどうなのですかと先のインタビューでお聞きしました。そうすると、それは差別の問題に強い関心を持ったからです。差別ということは職業差別ですから、農村ということにならなくて、やはりどうしても都市にならざるを得ない。このように素材の問題として、農村よりは都市に視点を移すことになったという説明をされております。以後は都市へ視点を移されて、次々と著書を発表されていったのです。お別れの会のときに配布した冊子をご覧下さい。開いたところに著作目録がありまして、1974年の7月と10月に、今お話した『ドイツ中世後期の世界』と『ハーメルンの笛吹き男』が出ています。それから、いわゆる第三期の「世間」論が出るまでに、『「世間」とは何か』が1995年に出るのですけれども、それまでの20年間に、著書15点、そして共著、翻訳を含めると合計27点、20年間に27点、驚くというか、あきれるほどの数の本が出ているのです。これは安丸先生の言う「栄光に満ちた時代」になるわけですが、大変な数の本を出されたわけです。

ただ、この時期にはもう1つ考えておかなければいけないことがあります。それは、阿部先生はいつもヨーロッパ全体を視野に収めておられましたけれども、言うまでもなくドイツ中世がご専門で、そこから先生独自の「民衆史を中心とした社会史」という構想を打ち上げられたわけですが、ちょうどこのころ、フランス近世史の二宮宏之氏、当時、東京外国語大学でしたけども、二宮氏を中心にしてアナール学派の紹介が始まります。「アナール」というのはフランス語で「年報」という意味で、『社会経済史年報』という歴史雑誌の名前からアナール学派と呼ばれているのですけども、その成果が続々と翻訳、紹介されるのです。この学派の存在は、日本でももちろん以前から知られていて、紹介されていたのです。ただ、戦後20年間は、「戦後歴史学」の支配の下では、ほとんど注目されなかった(マルク・ブロックだけは例外ですが)。それがこの時期に至って、二宮氏の魅力的な解説が大きいのですけれども、一気に広がったわけです。さらにまたこのころ、網野善彦氏の日本中世に関する斬新な研究が始まるのです。日本史の場合には、ヨーロッパ史と比べて、専門家はけた違いに多いわけで、従ってその影響は非常に大きなものがあったのです。この辺については、図書館が作ったパンフレットに簡潔に記載されていますので、あとでご覧下さい。こうして「社会史ブーム」という大きなうねりが歴史学界を席巻したのですけれども、これは単に学界だけではなくて、阿部先生、網野先生は2人とも意識的に広く一般読者に向けて発信されています。阿部先生の場合、本の形にもこだわっておられまして、『ハーメルン』以来、A5変型判という本の形を愛用された。先生のみずみずしい文章でつづられた著書は、どれも大変多くの読者を引きつけました。俗に言えば驚くほどよく売れたということになりますけども、多くの一般読者を引きつけたのです。

以上のことはここでは「流れ」としてだけ押さえておいていただいて、次の問題に入ることにします。1982年の10月、阿部先生は今お話した二宮氏ら3人の同人とともに『社会史研究』という雑誌を創刊します。その雑誌の創刊号に「ヨーロッパ・原点への旅:時間・空間・モノ」という巻頭論文を書いておられます。これは80ページの大論文ですけれども、ここではこの論文の内容と意義について、お話しておきたいと思います。この論文の中で先生は、これまでの自分の歩みを顧みる、そしてそこに言葉を載せておきましたが、今や「自分の内奥から発する要請としての社会史」について語らなければいけないということを書かれております。自分が社会史に至った経緯を振り返るとともに、新しい展望、斬新な中世史像をそこで打ち出されたわけです。そこで、私の解説を交えながら論文を簡単に紹介しますと、一口で中世ヨーロッパと言いますけれども、ご承知のように前半と後半ではまったくと言っていいほど違うわけです。中世後期というのは、おおよそ11世紀から15世紀末ごろまでとされているのですけれども、この間に、特に12世紀ごろからは、ヨーロッパの中世都市が誕生していきます。あるいは三圃制という農業上の革新が起き、そして封建制が確立します。また宗教的にもカトリック世界がこのころようやく形成され、さらに12世紀ルネサンスという言葉で示されるような、新しい文化的な活動が見られました。そういう時代であるということです。

こうした現象はよく知られていますけども、堀米庸三(1913-75)という、先生よりも二廻り年上の東京大学文学部の中世史の教授は、これらの現象を総合しまして、「12世紀の革新」という論を主張していたのです。つまり近代、あるいは現代と言ってもいいのですけども、近代ヨーロッパの出発点は、これまでルネサンスと宗教改革Reformationというところに求められてきたけれども、変化としては12世紀の革新の方がはるかに大きいという主張で、近代ヨーロッパの出発点は、むしろ12世紀だという主張なのです。簡単に言いますと、そういう議論を展開されていたのです。阿部先生は「12世紀革新論」それ自体には特に異論はない、自分もそう思うということですが、個々の政治、経済、社会、いろいろな新しい現象が起こっているということよりも、より重要なことは11、12世紀に人びとの時間意識、それから空間意識、そして特にモノをめぐる人と人との関係に大きな変化が起きたことにある、これこそが重要だという議論なのです。「時間・空間・モノ」というサブタイトルが付いていますが、それはそのことを指しています。

この点をごく簡単に整理しておきますと、まず時間意識の転換ですけども、これは象徴的にはヨーロッパ中世都市の市庁舎、都市の真ん中の市庁舎に公共時計、大時計が現れたことがあります。つまり、この歯車時計が現れたということは、技術史の上では大変大きな意義があるけども、それにも増して人々の時間意識に大きな変化をもたらしたことこそ重要だというわけです。1時間を60分、1分を60秒に分割されるのは14世紀半ばのこととされますけれども、このようにして時間によって日常生活を律する生活が始まった。現代人はまさにそうですが、その起源は中世後期にあるというわけです。人びとの行動と思考の枠が、この新しい時間意識によって規定されたという議論なのです。それが時間意識の転換です。

それから、空間意識の変化の例としては、例えば十字軍の遠征や聖地を巡礼することによって、世界の地理地形への関心が高まったということもありますけれども、先生が特に強調されているのが「アジールの消滅」という現象です。つまり、かつて空間というものは均質ではありませんでした。聖なる場所があって、例えば森や墓所など、そういうところは一種のアジール、つまり誰の手も及ばない場所であったということです。ところが13世紀ごろから、中世都市の内部で「家のアジール」という、それまで認められていたアジールは認められなくなりました。15〜16世紀には、アジールがほとんどの国で、ヨーロッパ中で廃止されていったということが指摘されています。資料の地図の下に、これは私が勝手に付けたのですけれども、16世紀の商業都市のニュルンベルクから各都市への距離を示す「里程標識」の図を載せておきました。真ん中にニュルンベルクという町があって、ニュルンベルクから何日かかるかということを示した地図です。空間の均質化を端的に示すものと言ってよいわけですけども、このような時間意識、また空間意識の転換の舞台となったのが中世都市であると。都市は新しい時間意識と空間の観念を生み出す母体になったという主張をされたのです。

それから、最大の変化はモノとの関係です。モノをめぐる人と人との関係ということで、ここで特に強調されているのが、マルセル・モースという人類学者の見解です。つまり、モースなどは伝統社会における贈与慣行、互酬という言葉も使いますけど、贈与慣行ということを言っています。特に難しい話ではなくて、簡単にはモノを贈り物を贈られる関係なのですけれども、そうしたモノを贈り贈られるという関係が生活のすべてまで及んでいたのが伝統社会の特徴だという議論をしているのです。阿部先生は、そのモースの議論を引きながら、10世紀ごろまではヨーロッパも贈与慣行が支配する世界であったと指摘されます。象徴的には、かつてゲルマン人の王や権力者が死ぬと、一緒に金銀財宝が地中に埋葬された。これを「死者への贈与」という言葉を使って説明されていますが、ところが11、12世紀からは、そうしたことはされなくなったというのです。中世都市が誕生して、貨幣経済が浸透していく。そうすると、人と人の関係は、モノを媒介とする関係から売買の関係へ徐々に移行していくというわけです。

けれどもさらに重要な問題は、そうした従来の古い贈与慣行がカトリック信仰、つまり教会に入り込んだことにあるというのです。具体的に言いますと、お金でも何でも地上の財を教会に「寄進する」ということは一般に行われているのですけれども、それはつまり「贈与する」ということで、そうした贈与に対して、教会は「罪の赦し」を与える。旧来、贈られたらお返しをするという慣行だったのだけども、教会の場合はそうではないというのです。「神への贈与」、教会への寄進に対するお返しは直接的ではなくて、「神の恩寵」「死後の救済」という形で与えられると説かれたのです。こうして「死者への贈与」から「神への贈与」という形で、それまでとは根本的な違い、変化が起こったというわけです。11,12世紀以降、各地の中世都市に立派な教会が建ち始めるわけですが、それはもちろん彼岸、つまりあの世における救いを確かなものにするための、自分の救いを確かなものにするために、教会に多くの財産を寄進できる豊かな市民たちが誕生していたということがあるのですけども、その背後にはこのようなモノをめぐる人と人、人と神との関係の変化があったという議論を展開されたわけです。

以上が論文の骨子です。この論文は「ヨーロッパの原点」を求めた学術論文ですけれども、通常の意味での学術論文ではないことも事実です。つまり、この論文は単にヨーロッパ中世、中世後期の話をしているのではないのです。日本の社会の特質を明らかにしようという明確な意図を持って書かれております。つまり11、12世紀のヨーロッパでは、時間意識、空間意識、とりわけ人とモノとの関係に根本的な変化、転換が起きた。そのことを確認するとともに、日本ではそういう転換は起きなかった、という問題です。そのため日本では時間、空間についての古い意識がそのまま存続したというわけで、そういう視点がはっきりと表明されている論文なのです。例としては、日本人は今現在でも「忘年会」をすることで時間に区切りを付けているとか、あるいは、原子力発電所などの最新の科学的な設備を建てるに当たっても、竹を四方に立てて、しめ縄を張り巡らせて「地鎮祭」をやっている。そういう身近な事例が強調されていますけども、日本社会の「古さ」という、これは先進的、後進的という話では全くなくて、たんに「古さ」という話ですけども、そういうことが具体的に指摘されたわけです。

さらに贈与慣行という話になると、とりわけお歳暮やお中元という形で、贈与慣行が今なお根強く日常的に行われているということで、そうした理解の延長線上に先生の「世間」論が生まれてくるといっていいと思います。先生の「世間」論の中心は贈与慣行という問題にあるわけで、繰り返しますと、単にヨーロッパの原点を求めた論文というよりも、日本社会の特質も同時に明らかにする明確な意図を持って書かれているのです。先生はこの論文の後で、12世紀のヨーロッパにおける個人の誕生、あるいは男女の恋愛が誕生したのは12世紀であって、そういう問題についてつぎつぎに書かれますけれども、それは今のような理解に立っての話なのです。ですから、先生の後の「世間」論につながる論点の芽が、すべてこの論文にあると言っても過言ではないと思うのです。先生ご自身も、この論文をもって、自分は「社会史研究の新しい一歩を踏み出した」と言われているのですけれども、これ以降は徐々に日本社会の問題性に傾斜していきます。安丸先生のいわれる第三期の「世間」論の時代につながっていくわけです。もちろん、その間に非常に多くの中世社会史研究が刊行されていますけれども、第二期の「社会史の旗手の時代」に関して言いますと、この論文をもって前後に区切ることができるというか、その方が分かりやすいかと思います。

それから、あと1、2点、簡単に指摘しておきますと、この論文に見られたヨーロッパ中世理解というのは、もとより先生ご自身の文献研究、つまりオステローデのような史料研究というよりも、すでにある文献の研究から生まれたと言っていいわけですが、特に人類学や民俗学、その成果がどんどん取り入れられているのです。社会史が時に「歴史人類学」だといわれることがあるのですけれども、それもこういうところから来ているのですけれども、歴史家としてはこの論文でしばしば挙げられているのは、フランスの著名な中世史家であるジョルジュ・デュビーという人です。彼はかなり引用されているのですけれども、とりわけ先生が依拠されているのが、旧ソヴィエトのアーロン・グレーヴィチという歴史家の『中世文化のカテゴリー』という本です。先生は騎士修道会史の研究者ですからポーランド語もお出来になりますが、かつてロシア語も勉強されていたこともありました。けれども、この場合はドイツ語訳で、グレーヴィチの本のドイツ語訳を読まれたということなのです。グレーヴィチの本について、一言だけ言っておきますと、1972年にモスクワで出版されて、すぐにセンセーションを引き起こし、多くのヨーロッパ語に翻訳されています。

グレーヴィチは最近『歴史家の歴史』という自伝を書いているのですけれども、それを読みますと、現在では15カ国語に翻訳されているとのことですが、西ドイツで翻訳が出たのは1980年です(東ドイツで1978年に翻訳されますが、西ドイツのベック社に版権が移されます)。恐らく先生はすぐに、西ドイツから出た訳本を読まれたようで、この論文のなかでも「基本的にわたしの考えと非常に近いことに気付き、大いに意を強くした」と書いておられるのです。先生の学部のゼミナールでは、毎年のようにグレーヴィチをテキストとしていたと聞いていますけれども、1992年に日本語訳が出たときには、「中世史に関する今世紀最大の業績」と評価されていたのです。先生にはグレーヴィチの本にはない重要な論点もありますけれども、この本との幸福な出会いが先生の構想を、「ヨーロッパ・原点への旅」という論文に見られるような構想へと、大きく広げたといえるのではないかと思います。グレーヴィチは1924年生まれの人で、まだ現役です。ソヴィエト・ロシアの歴史家がこのような重要な本を出すということは決して偶然ではないと思うのですけれども、本題から外れますので、それは何か質問がありましたら答えていきたいと思います。

最後に、この論文の目次をご覧ください。資料に「ヨーロッパ・原点への旅」の目次を載せておきました。全体で6章までありますけども、第3章に「過ぎゆかぬものを見る目 ― 二人の歴史家」という章があります。ほかの章と比べて非常に短いのですけれども、そこで先生が強い影響を受けた2人の歴史家、つまり先生が学生のころから文通を通して教えを受けていたヘルマン・ハインペル、そして上原專祿先生という2人の歴史家の時間意識に言及されています。冷静に読みますと、この章はなくても「論文」としては立派に成り立つのですけれども、先生はそうは考えません。むしろ逆で、あえてこの二人の師の指摘を、時間論を取り上げられているのです。また先生が卒業論文のテーマを選択するときに、上原専禄先生から「それをやらなければ生きていけないと思われるようなテーマを探すことです」と言われた。このことは先生ご自身によってその後繰り返し語られていますけれども、そのエピソードが初めて紹介されたのが、この論文ではないかと思います。そして、この論文が、そうした上原先生の問いかけに対する回答でもあると位置づけられているわけです。

今日の話は、阿部先生の社会史研究の狙いがどの辺にあったのか、ということを私なりに解説するということだけであり、特に「結論」はありません。ありませんが、一言だけ加えておきますと、阿部先生は増田四郎先生が1997年6月に亡くなられたときに追悼文を書いておられまして、その中に大変印象深い言葉を記されているのです。どういうことかといいますと、阿部先生によりますと、増田先生という方は、学士院の会員になった後でも、「自分は素人として学問をしている」と常に言われていたというのです。「何のために学問をするか」という問いが、増田先生には常に念頭にあった。だからそういうことを言われていたということで、その理由については長くなりますからやめますけれども、そういう理由の後に阿部先生は、「学問の世界から普通の人の視点が消え、専門家が幅を利かす時代になりつつあるように思うこのごろ、増田先生が去られたことは、唯一の支えがなくなったような寂しさを感ずる」という文章を記されています。これは追悼文ですから、あっさりと見過ごしてしまうかもしれませんけれども、阿部先生の学問には、先ほど紹介した上原先生の言葉が重要な意味を持ったということは、ご自身、繰り返し指摘されるのですけれども、それとともに、増田先生の「普通の人の視点」や「日本人の視点」、そういう部分が絶えず意識されていたのではないかと思います。増田先生には『ヨーロッパとは何か』という本がありますけれども、「日本人の視点」でヨーロッパとは何かを問い続けられたという方で、そういう増田先生の姿勢が阿部先生にも、意識的、無意識のうちにあったのではないかという感想を持っています。私の話は以上です。


質疑応答

(司会) 先生、どうもありがとうございました。

続きまして質疑応答に移りたいと思います。マイクをお持ちいたしますので、ご質問のある方は挙手をお願いします。

(質問者1) この大学のOBですが、ありがとうございました。私の質問は、公という概念なり意思なりについて、阿部先生がどういうふうにとらえていたかということを、先生のお立場なりご感想なり、教えていただきたいと思っています。この資料にも「ヨーロッパ・原点への旅」ですか。その目次の中の最後に、「ヨーロッパにおける『公的』なるものの成立」という1章がありましたが、「世間」論 …… 概念ということで、非常に …… 解釈がこの中に出されているかと思いますが、阿部先生自身はどういうふうに考えておられるのですか。また土肥先生のご見解を …… 。以上です。

(土肥) 一概に答えられない質問ですけれども、その前にご関心を伺いたいのです。どうしてそういうことにご関心を持たれるのですか。

(質問者1) 私が非常に関心を持っているのは、官民という縦の関係と公私という横軸。縦軸・横軸の関係が日本ではめちゃくちゃに混同されているのではないかという私自身の問題意識です。近年は公的というのが、どうも官と公が交じっていますので、日本の社会は官と公を截然たる区別もなければ、何となくごちゃごちゃして議論されています。これがいろいろなところで問題の解決を困難にしている面もありましょうし、具体的なお話は別にしまして、そういう問題意識があります。

(土肥) 何と答えればいいか分かりませんけども、阿部先生の「ヨーロッパ・原点への旅」という中の第6章「ヨーロッパにおける「公的」なるものの成立」というのはかなり具体的な話です。それほど込み入った話ではなくて、人が2人いれば、個人と個人の関係になれば、公が成立するという原理的な話を書いておられて、そこから史料に入っていき、細かい分析をされています。私は字面だけ読んでいるだけで、それ以上の先生の公に対する考え方や官に対する考え方は、私は明確な形で答えることができないです。誰か知っている方がいたら教えていただきたいという、むしろそういうことです。答えになっていませんけども。

(司会) どうぞ。

(質問者2) 私は日本世間学会というところのメンバーで、数年前から阿部先生も顔を出して、直接いろいろ教えていただいたことがあったのですが、急にお亡くなりになると思っていなかったものですから、だったらもっといろいろお話を聞いておけばよかったと思ったのです。1つか2つぐらいになるかもしれませんけど、阿部先生は世間について、日本人は世間を非常に恐れるという言い方、世間とおっしゃっていますが、この前、柳田国男と森正蔵の対談を読んでいたら、柳田国男が世間という言葉ではないのですけども、日本人は、これは昭和25年の対談ですが、仲間の面目、思惑を、神を恐れるように恐れるという言い方をしたのです。だいたいこれは重なるなというイメージなのです。それで二宮さんの話が出ましたけど、二宮さんがマルク・ブロックについての、についての …… 本日ありました。その中で集合心性、民衆の心性史の必要、集合心性というものを、やはりこれが社会史の中で必要だろうとおっしゃっていて、そうしますと世間を恐れるとか、あるいは仲間の思惑を神を恐れるように恐れるとか、こういう心性の歴史は、やはりあっていいのではないか。あるいは、すでにそういう研究は社会史の中にあるのかどうか。そのあたり、ご意見を伺いたいと思います。

(土肥) これもなかなか難しいですけども、二宮先生の話から先にしますと、私もあまりたくさん読んでいるわけではありませんけども、「心性」というのはフランス語で「マンタリテ」、英語のメンタリティーと同等の言葉だと思いますけども、それはアナール派の歴史家たちが心性史ということを言い始めて、意識の歴史、あるいは最近は感性の歴史といわれ、それが重要だということです。二宮先生としては、そういう問題を指摘されていることは承知しているのですけども、「恐れ」という論点はないような気がします。阿部先生の「世間」論に行くまでには、今日の話はごく上っ面だけなのですけども、差別の問題が原点にあって、差別というのは単に職業的な差別に加えて、先生には「恐れ」という問題がそこにあるようです。例えば、先生はマクロコスモス、ミクロコスモスという話をされます。マクロコスモスとミクロコスモスの境界の「勤め」というのは、重要な役割を担っているのだけども、例えば「刑吏」ですけども、彼らにそういう差別が向かうが、それは「恐れ」でもあるという議論を展開されるのです。その問題と柳田国男の問題と、おそらくつながるところがあるのではないか。そういう私の感想ですけども、先生のものしか読んでいなくて、柳田国男について特に何か意見があるわけではありません。

(司会) よろしいでしょうか。

(質問者3) 「阿部先生の社会史研究と一橋大学の伝統」というお話で、大変いいお話を伺ってありがとうございました。社会史研究から少し外れるかもしれませんが、教育者としての阿部先生、生徒との関係について、どのようにご覧になっておられたのか伺いたいと思います。それは一橋大学の伝統ということに引っ掛かると思いますので、あえてお伺いしたいと思います。

(土肥) 例えばどういうことを想定される?

(質問者3) 例えば、昔の卒業生はゼミ会会合というものがありまして、よく自分たちのゼミナールの会合をやります。それは先生との関係に基づいているのです。もう1つがいろいろな随筆で、先生を追慕する …… わけです。今の代表的なものは …… 先生や大塚金之助先生だと思うのですけれども、そういう先生に対して畏敬の念、あるいは敬慕の念を持って書かれています。まだ時間があまりたっていないので、そういった形のものが阿部謹也さんに出るとは思わないのですけども、どのような教育者であったか。例えば …… 先生などは教育論を非常に書かれています。それから日教組の …… わけですが、もちろん学長として、あるいは文部省との関係においては、いろいろと議論があったと思うのですけれども、自分のひざ元の大学の生徒との関係について、もちろん随筆や何か、生徒から聞くのが一番 …… かもしれませんけども、当時は後輩として、土肥先生がどのような印象、多少であっても持たれていたか、あるいはどんなことを聞かれていたかということをお伺いしたいと思います。

(土肥) 本学の同窓会の強固な組織については私も知っていますけども、阿部先生の「世間」論の中では、同窓会は世間であるということで、世間というのは、もちろんいろいろポジティブなものもあるけれども、普通は日本社会においてはネガティブに働いている。排他性というか、同窓会もそういうものだという理解があると思うのです。それと先生の教育、先生のゼミナールとのかかわりをどう見るかということですけども、先生は非常に個人の意識が強い方で、学生に対しても個人として自立した人間であるということを求めるということで、それは学部の学生に対してもあるように思います。私は2年間、といっても四十年前の大昔に小樽で教えていただいただけですけども、稀にそういうところがありました。ただゼミといっても学部と大学院ではかなり違うような気がします。大学院の学生に対しては、ときに厳しいものがあったように思いますが、ただそうした「衝突」をバネにして、後に立派な研究者になったものもおります。先生はあまり団体生活を好まれない、制服を好まれない思想が根本にありまして、そういうところから来る甘えに対しては厳しいということだと私は思っています。それから、先生ご自身のゼミナールになりますが、上原先生に対する尊崇の念は別格なものがあったように思います。それに対して大学院のときの増田先生に対しては、多少批判的なことを発言されておりまして、書いたりもしているのですけれども、ただ根本には温かいものを感じておられたという印象を私は持っております。

(司会) お二方いらっしゃいますので、先に奥の方から。

(質問者4) 日本世間学会の理事をしています。今日はどうもありがとうございました。先生は贈与慣行の核とする「世間」論という形で、最後のところをレジュメでまとめられているのですが、先生から掲載されましたので …… 取らせていただきますが、2004年だったかと思いますけれども、早稲田大学高校でイシミネさんのことに触れて講演なさった中で、互酬を日本に適用するのは間違いだったような気がするという意味の、非常に重大な発言をされていた記憶があります。その辺について、どういうお考えをお持ちになっているのか、もし伺えればと思います。

(土肥) どういう質問? 「世間」論をどこに適用するのが間違いだったと言われていた。

(質問者4) 互酬、贈与慣行を日本の「世間」論に適用することが間違いだったのではないかという、非常に「世間」論の根本にかかわるような発言をされていた記憶があるのですが。

(土肥) 阿部先生に代わって私が答えることはできない質問ですけれども、82年の論文では全面的に人類学の成果として贈与慣行、互酬論を全面に出して、日本の社会、10世紀以前のヨーロッパ社会についても、鮮やかに分析されたわけです。最近のモースを適用できないといわれていたという話については、実はよく知りません。あまりデタラメを言ったらいけませんので、留保させていただければと思います。

(司会) よろしいでしょうか。その後、先ほどもうおひとかた挙手されていた。

(質問者5) 土肥先生、どうもありがとうございます。非常に …… 阿部先生が最初、オステローデを勉強になったというのですが、なぜここをやられたのかということなのですけど。私は阿部先生も上原先生もよく知っているのですが、大塚先生も講義を受けたことがあるので、非常に言いにくい話で。

(土肥) そんなことはないと思います。先ほど言いましたけど、私どもは著作目録を先生が還暦のときに作り、そのとき、先生の研究室でインタビューしたのです。「著作を語る」というのがそうです。そこで私もやはり疑問でしたから、ちゃんと聞いております。そこで先生が答えているところがありますけども、それはたまたまだということです。ただ、それは理由があるわけで、1958年、ですから先生が騎士修道会の研究を始められたころだと思うのですけども、ハルトマンというオステローデに関する郷土史家ですが、史料の抜粋のような本を出して、そこには史料がどこにあるかということもちゃんと明記されて、非常に便利なものを出した。それを手に入れて、向こうに行けばどこに史料があるかも分かるということで、ではここをやってみようということのようです。先ほども紹介しましたけども、ハイデ・ヴンダーの『コムトゥーライ・クリストブルク』という本、それはなかなか立派な研究ということで、これが先生の本の1つの目標になるようですけれども、そのほかについては、あまりいい研究がなくて、オステローデについてもなかったことがキッカケになったようです。

(司会) あと1つだけご質問を受け付けたいと思いますけれども、いかがでしょうか。ありませんか。

そうしましたら、ちょうど予定時刻となりましたので、本日の講演会をこれで終了させていただきたいと思います。いま一度、土肥先生に盛大な拍手をお願いします。


一橋大学附属図書館 学術・企画主担当