平成19年度一橋大学附属図書館企画展示
阿部謹也と歴史学の革新

「新しい歴史学」の黎明

『社会史研究』を編んだ同人たち

阿部が『ハーメルンの笛吹き男』を発表した1970年代には、彼と同じく、従来とは異なる新しい視座から人間の生を再構成しようと試みた者たちが存在していた。ここでは、のちに『社会史研究』(1982−1988)の編集同人として阿部と名をつらねる3氏について紹介したい。

西洋史家の二宮宏之(1932−2006)は当時とくに、リュシアン・フェーヴルの歴史観に強い関心を寄せていた。フェーヴルは、1929年にマルク・ブロックとともに、アナール学派の由来となった『社会経済史年報』Annales d'histoire économique et sociale を創刊した人物である。二宮が共鳴したのは、個々の史実を確定することに終始してそれらの連関性を問わない歴史学を問題視し、複眼的な眼を持って社会を「深層」において捉えようとする、フェーヴルの「全体史」への志向であった。二宮は、この「全体を見る眼」を常に意識し、近世フランスにおける権力の構造を明らかにしようとしていた。

二宮宏之『全体を見る眼と歴史家たち』(1986) ▲

社会思想史家の良知力(1930−1985)は『向う岸からの世界史』(1978)のあとがきで、同書の意図は、「これまで自分が無自覚に依拠してきた歴史の見方や歴史的概念を根底から洗い直すこと」にあったと書いている。「近代主義的」「大国主義的」「図式主義的」史観など従来の歴史観とは距離を置いた彼は、それとは異なるヴェクトルを持つ歴史観を展開しようと考えたのであった。同著作では、1848年革命を描くなかで、プロレタリアートと呼ばれた未定型な流民」を「形象化」(強調は引用者)することが試みられている。

文化人類学者の川田順造(1934−)もまた、従来の歴史学に対し、深刻な疑問を呈したひとりである。彼の『無文字社会の歴史』(1976)は、文字資料を偏重して人間や社会を研究してきた者すべてにとって、大きな衝撃であった。なるほど、文字による過去の記述だけが「歴史」と認められるならば、未だかつて文字を持たなかった者たちは、いっさいの歴史を持たないことになってしまう。必ずしも文字によらずとも、伝承や遺物によってとどめられた人間の生および社会の形態が存在し、それらを再構成する試みは無駄な営為ではないはずだという強い思いが、川田を突き動かしていた。

▲ 『社会史研究』(1982−1988)      ▲ 良知力『向う岸からの世界史』(1978)      ▲ 川田順造『無文字社会の歴史』(1976)

日本史における新たな潮流

日本史の分野では、すでに1920年代に「社会史」という言葉が用いられ、1922年には雑誌『民族と歴史』が『社会史研究』へと改称している。しかし今日一般的に社会史という用語が指すのは、1970年代後半に登場した研究動向だと考えてよいだろう。

この新しい潮流を牽引したのが、網野善彦(1928−2004)である。遍歴する非農業民に注目して作り上げたその歴史像は、それまでの農民中心史観を根底から覆し、「網野史学」という言葉までも生んだ。代表作に、中世の遍歴民を支えた「無縁」の原理―所有や支配といった世俗の縁の対極にある関係原理―の存在を主張し、その盛衰を論じて学界の内外に大きな影響を与えた『無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和』(1978)がある。作家の隆慶一郎や、宮崎駿の映画「もののけ姫」に影響を与えたことでも知られている。

中世の人々の意識に迫る網野の研究は笠松宏至(1931−)・勝俣鎮夫(1934−)らの法意識・法慣行の研究と近接し、中世史家石井進(1931−2001)を含む4名によって『中世の罪と罰』(1983)が編まれた。一般的な知名度は網野に及ばないとはいえ、笠松・勝俣・石井もそれぞれ代表的な社会史研究者として、その研究は高く評価されている。

網野はまた絵画史料にもアプローチし、1986年に『異形の王権』を上梓した。本作は絵画史料を利用した優れた研究のひとつとして知られるが、この分野を開拓したのが、黒田日出男(1943−)である。絵図や絵巻を読み解いた先駆的な著書『姿としぐさの中世史―絵図と絵巻の風景から』(1986)以後、肖像画・屏風絵へと対象を広げて精力的に成果を発表している。

網野は社会史の代表的な論者として阿部と並び称され、両者は数度にわたり対談を行った。その一端は『中世の再発見』(1982)に収録されているほか、阿部・網野・石井・西洋史家樺山紘一(1941−)の4名による座談会の記録も『中世の風景』(1981)として刊行されている。対談が両名に与えた影響は大きく、その成果は網野の『無縁・公界・楽』や阿部の『中世を旅する人びと』(1978、サントリー学芸賞受賞)・『中世の窓から』(1981、大佛次郎賞受賞)といった彼らの代表的著作に盛りこまれた。両名は互いの知的交流によって視野を拡大し、それぞれ自身の歴史学を深めたのである。


一橋大学附属図書館 学術・企画主担当