大沢章先生について

 (1)この文献目録は,九州大学名誉教授故大沢章先生が所蔵されていた文献の目録である。文献は,真実を求めて倦むことのない先生のお人柄を反映して,多岐にわたっているが, とくに国際法・法思想史・宗教史の研究にとって貴重な基本書を多数含んでいる。それは本学図書館に一段と光彩を添えるものであり,ご遺族のご好意に心から謝意を表したい。

 (2)大沢先生は, 1889年(明治22年)にお生れになり, 1967年(昭和42年)にこの世を 去られた。77才であった。先生は,学習院中等科,旧制第一高等学校を経て, 1915年 (大正4年)に東京帝国大学法学部を卒業された。同法学部卒業の際には銀時計を 受けられた。大学に助手として残るようにという勧誘もあったが,内務省に入り富山県の 郡長に就任された。「民本主義」の普及をはかりたい,という意図と敬愛する南原繁氏が 同県の郡長をしていたこととによるところが大きいとうかがっている。理想とかけ 離れる政治の現実に批判の意味もこめて, 4年後の1919年(大正8年)に同省を辞職された。 同年国際連盟の随員として渡欧された。6カ月の任期満了後,さらに満3年にわたって パリ大学の博士課程等に在籍し,法学の研究を続けられた。 1922年(大正12年),新設の 九州帝国大学法文学部の教授(国際法・国際私法第一講座担当)に就任するために帰国 されたが,同年ひき続き3年間文部省の在外研究員として再度渡欧された。この再度の 渡欧の間に,第1次渡欧中に蒐集された書物を焼失された。帰国後,1946年(昭和21年)まで 同大学に奉職された。その間に, 「シャルモン=自然法の再生」 (1927年・岩波書店), 「国際法秩序論」 (1931年・岩波書店), 「新法学全集・平時国際法第1部」 (1937年・ 日本評論社), 「クロチュス自由海論の研究」 (1944年・岩波書店)などをはじめとして 多数の著書・訳書・論文を発表され,先生の後継者となった伊藤不二男氏をはじめとして 野見山温氏,川上敬逸氏,神谷龍男氏など多数の研究者を養成された。

 (3)大沢先生については,平凡な表現ではあるが, 「誠実な人柄」という言葉がもっとも ふさわしい。この言葉にふさわしい生活態度は,先生のあらゆる生活部面にわたって みられた。戦前・戦中の自己の行動について,先生は例をみない程に厳しい自己批判の 態度をとられた。この批判を媒介として,先生は,戦後においては「戦闘的」ともいいうる までに平和主義の擁護を徹底され,法学を人権と平和のために構築しようと腐心された。 昭和20年代の半には,学生と共に平和運動に積極的に参加された。また,朝から夜に至る まで先生は研究室を守り続けた。研究と取り組み,講義の用意をし,学生の問いに 応ずるためには,それが不可欠であることを強調されていた。
 所蔵されていた書物にも,先生のこのようなお人柄が反映されている。専門書を 別とすれば,社会主義と宗教にかんする書物が多いが,先生は,権力と名声の間をではなく,一生にわたって社会主義と宗教の間を歩き続けられたようである。また,先生は, 何十年にもわたって,ダンテの研究を続けられ,法思想史の体系書を完成することを 意図されていた。しかし,そのいずれをも公刊せずに世を去られた。あとには山ほどの 下書きが残されていた。
 先生のこのようなお人柄の故に,先生のご遺族は叙勲を辞退された。

 (4)先生のもうひとつの側面を示すものとしては,フランス語のポリグロット (polyglotte)という言葉がふさわしい。先生は,英独仏の3カ国語は日本語なみに読み 書きされた。イタリア人,スペイン人がやってくれば,それらの言葉で話された。 ラテン語の聖書を読むことは,先生の欠かすことのない日課であった。
 「ロマン・ロラン著・先立ちて来る者」 (1924年・改造社), 「クロード・ラフォレー著・ 音楽教養えの序説」 (1924年・古今書院), 「キュゲールゲン著・一老人の幼児の追憶」 (1925年・岩波書店・共訳), 「リヒアルト・ムウタア著・ジャン・フランソワ・ミレー」 (1946年・山野書店), 「ヨハネス・ヨエルゲンゼン他著・回心」 (1947年・山野書店), 「ローラン・ゴスラン著・聖トマス・アキナスの政治理論」 (1948年・エンデルレ書店), 「フルトン・シーン著・神の審判」 (1949年・春光社), 「ヨエルゲンゼン著・アシイシの 聖フランチェスコの巡礼の書」 (1950年・岩波書店・山村静一のペンネームで), 「ジェームス・アンソニー・ウォルシュ著・近代殉教者の思想」 (1952年・ドンボスコ社), 「ヨエルゲンゼン他著・アオスタの市の癩病者」(1955年・ドンボスコ社・山村静一), 「トマス・ア・ケンピス著・キリストにならいて」 (1960年・岩波文庫・共訳)その他の訳書の 存在は,先生の語学力を物語っている。
 このようなポリグロットとしての先生は,自己の内面的な欲求に誠実にこたえようと する先生の生活態度の反映にほかならない。晩年に,法思想史の理解をよりたしかな ものとするためにギリシャ語の学習を始められ,この社会の不正のしくみについての 理解を深めるためにマルクスの著書も読まれていた。

 (5)専門研究者としての先生については,門外漢の故に紹介する能力がない。先生が 専門の面でどのような仕事をされているかについては, 「比較法第六号」 (東洋大学 比較法研究所・1968年)を参照していただきたい。しかし,次のような点は,先生の一側面 を示すものとして紹介しておくべきであろう。
 戦前においては,先生は,毎年,国際法外交雑誌,法律時報,法政研究,中央公論などに 長文の論文を発表し,たえず学界に問題提起をされ続けた。それ故に,東の横田・西の大沢 と称されてもいた。
 先生の代表作のひとつである「国際法秩序論」については,戦前のものでは欧文に翻訳 して通用する唯一の国際法研究書であろうという評価が専門家によってなされていた。  ある書物についての先生の書評が研究の対象になったということもきいている。

 (6)先生には,もうひとつ注目すべき側面がある。随筆家としての先生である。 「丘の書」 (1938年・岩波書店), 「永遠を刻む心」 (1949年・春秋社)は,厳しく問いかけ つつも,同時に心をなごませる随筆集である。権威の府としての大学ではなく,労働し つつ学ぶアルバイト・シユーレの構想などは,学問をする者が忘れかけている学問や 教育の原点を問題とする。

 (7)しかし,先生の生活の中においてなによりも注目すべきは教育者としての先生で あろう。これほどまで受講者の信頼と尊敬を集めた師には接したことがない。先生が, 全力をあげて真実を求め,自由と平和のために闘い,受講者の正当な要請にこたえる 不断の努力をされたことのなによりの証というべきであろう。

(杉原泰雄記)