鐘 No.14 (1985.4)





思い出すままに

磯野 修

  一橋大学図書館とは旧制「東京商科大学」学部学生のとき以来45年にもなろうというおつき合いだから,館報に何か原稿をと頼まれて一も二もなく引き受けたが,さて何を書くかということになると難しい。 新人生を迎えての4月号ということであれば,一橋大学新入生と後期課程進学生の諸君のために,何か「ためになる」ことを書かなければならないかとも思うが,そちらの方は役職にある然るべき方々に譲り,気のむくままに書かせていただくことにする。
  図書館の塔の下にある古めかしい学生閲覧室は,戦後半分に仕切られて,その一方は一時は接架・雑誌室となり,現在は倉庫がわりに使われて,戦前にくらべるとその面積が半分になっているが,図書館の建物を正面からはいって左右対称の階段を登り,ただ一つの人口を東にはいると薄暗い閲覧室という姿は,私が学生だった頃から少しも変っていない。 太平洋戦争中,閲覧室入口右側の壁に,物資節約のポスター「すべてに無駄のないように,ガスも電気も水道も」というのが貼ってあったが,誰かがその傍に「弾丸(たま)もタンクも銃剣も」と露営の歌の文句を落書きし,それが戦後までずっとそのままになっていたのを思い出す。
  学部学生の頃,講義に出席する間,閲覧室に荷物を置いたままにしても何かが紛失するということは一度もなかったのは,あれだけ物資の乏しかった時代を回想すると,何か不思議な気がしてくる。 学年末試験の論文作成のために,A. Wald のややこしい物価指数論や,経済史の F. Roerig の論文を,いずれも一・二週間かかって読んだのは今では楽しい記憶として残っている。 Wald の方は,数年後神戸の水谷一雄先生が同じ論文を種にして一篇の論説をものされたのを見て,大いに自身をつけたが,Roerog の方は経済史担当の村松恒一郎先生の講義にことさら反対の立場の論文を,増田四郎先生の一橋論叢の学会展望のなかから探し出して読んだという念の入ったものだから,村松先生のお気に召すはずもなく,いたずらに先生の気質を確認する結果になった。
  1943年の秋,研究科の学生になって初めて書庫にはいることが許されたが,文字通り山のような書物に自由に近づくことのできる感激は一しおであった。 とくに太平洋戦争中とその後しばらくの間は,外国の書物を入手することのできない時代であったから,図書館に蓄積されている文献の価値は今日の状況からはとうてい想像できないものがあった。
  学部学生の頃,左翼的な書物で閲覧禁止のものが書庫のなかの戸棚に鍵をかけて閉じ込められているという噂を耳にしていたが,それが事実であることを確認したのも,その頃であった。 ただし,戦争が終わるとともにそれらは解放され,そのかわりにGHQの指令か文部省の指示か知らないが,昨日まで大いに幅をきかせていた書物が,超国家主義と銘うたれて,その同じ戸棚に閉じ込められることになった。
  戦争中から戦後にかけて長いこと事務長をしておいでだった川崎操氏は,広い事務室のまんなかに頑張って館員諸君を監督しながら,「三浦新七図書館長の時代から,地方史の文献を集めるのが本学図書館の仕事になっている」と,三浦先生のお名前を魔除けの護符のように振りかざしては,われわれ若輩の要望にお断りを喰わせ続けた。 本学図書館の人手不足は古くからの慢性的現象だし,一般教官のいうことを一から十まで聞くことは人手のうえからも予算のうえからもとうてい不可能なことは良くわかるが,「図書館について専門的知識のない一般教官からの干渉を受けたくない」という,ライブレリアンの専門職としての自負が,かえって一般教官との相互理解の途をとざし,今日の閉塞状態を招く遠因を作ったといったら言いすぎであろうか。
  ついてに申せば,戦後所蔵書の増加とともに書庫の不足が深刻となり,一時は製本された雑誌が通路に横積みにされている程であった。 現在の第二書庫が増築された当時,川崎事務長は将来の書庫増設を考えながらその設計をされたようであるが,担当者の交替の後二回に及ぶ増築工事の結果は,何か迷路に似た建物の配置と集密書架の設置という,まことに不便な形となった。 もとになる本体の建物が古い形の建築物であるし,予算の上からもやむを得ない面があろうが,いま少し工夫し,現場で働く人たちの希望や意見を取り入れたならば,いくらかでも使いやすいものになったのではないかと悔やまれる。 一般教官はさておき,図書館内部でさえも現場と管理部門とでどの程度の意志の疎通があったであろうかと思うと,何かうら淋しい思いがある。
  いずれにしても,書物を愛し書物を扱う人と,その書物を必要とする人との間に人間的に通い合うものがなければ良い大学図書館は育たないし,日常の図書館運営のうえでも,いたずらに管理の面だけが全面に押し出されたのでは,それでなくても年中休むことなく何万冊という怒涛のような書物に押しつぶされそうになっている館員諸君の気持がますます萎縮してしまうであろう。--
  嘗って莫大な書物の量に単純に驚いて書庫のなかを歩き廻っていた頃と比較すると,今日では同じく書庫のなかを歩きながらでも,ふっと人間の苦悩と失敗の記録のなかをさ迷い歩いているような気のしてくることがある。 それだけではない。 良く見れば自負と驕慢の書物もあるし,燃えるような情熱の灰燼もあろう。 そこには何か累々たる墓石に満たされた墓場をさ迷うにも似た趣きがある。 いずれにせよ,書かれたものは,書いた当人にとっては既に脱皮した過去の記録であってみれば,そのなかから然るべきものを取り出して,わが肥(こや)しとするのが後から行く者の努めなのであろう。 今後とも−と書いてきて,これが一橋大学図書館に対して希望を申しのべる絶好の機会であることを思い出した。 そこで最後に一つ,比較的に労力と経費を必要とせずに実現可能な要望を記して,このよしなしごとの記述を終わることとしよう。
  最近,外国からの留学生がふえ,ゼミナールで外国人学生に接した経験によることであるが,日本の自然・社会・経済・歴史・科学技術・美術などを紹介した一般教養書と,日本語学習のための参考図書やカセット・テープを小平と国立の接架室の一隅に集めてみてはいかがであろうか。 むろん日本の実状をそのまま伝えるという意味で,公害その他マイナス面についての書物も並べ,新進の諸国がわれわれの失敗をくりかえさないように配慮する必要があろうし,当事者の外国人学生諸君からの希望を聞くのも一案であろう。 図書館委員会でとりあげて検討していただければ幸いである。   (1985.2.18)

(経済学部教授)



ケンブリッジ大学図書館

-- 回想的走り書き --

山本 和平

  「あと二,三年もすればこの図書館も絶対的に満杯 (absolutely full) になります。 なにしろ一年一マイル以上の速度で棚がふさがって行くんですから。」
  図書館長ラトクリフ博士がそう嘆いたのは,1981年のことだったから,今頃は「絶対的に満杯」のずである。 イギリス人の‘absolutely’だから割引して受けるとしても,書棚全長60マイル(約100km)収納可能のこの研究図書館も,すでに350万冊をこえる蔵書が56マイルを占めていたのは事実らしかった。
  十五世紀の初め122冊の本から始まったこの図書館も,インキュナブラや貴重な手稿はもちろん,個人のコレクションの寄贈などによって拡大し,1911年の著作権法以来,オッタスフォード大学図書館,ロンドンの大英図書館と並んで,イギリスで刊行されるすべての出版物を一部寄贈される特権(?)を有する copyright library となってからは 一すべてを収納する義務はないにせよ一 やはり情報洪水の害をもろににかぶっていた。
  1981年の一時期,わたしはこの図書館の北翼四階の書庫のワークテーブルに坐ることを日課にしていた。 北翼の四階から六階までは英文学の書庫で,六階の一角には比較的最近の創刊になる文学理論誌,研究誌が製本されて収められていた。 十八世紀英小説などというカビくさい分野にひっかかっているわたしにも,当世流行の新理論の動向がいささか気にかかっていた。 時間は充分にあるはずであった。 なにしろ講義や会議から全面的に解放されていた。 ここで一介の書生に戻り,商売根性抜き,目的もなく,ガタの来た概念の仕掛けの入れ替えのヒント程度でも拾えればもっけの幸い ---- 要するに年甲斐もなく想像力のアソビを自らに果したのであった。
  書架を背にして明るい窓際に,横一列に20人は坐れるテーブルがあり,常時二,三人の利用者がいて,熱心に,あるいは悠然とページを繰り,ノー卜をとり,あくびをしていた。 図書館でいつも気になる机の高さ,椅子の坐り具合もよかった。 (それにしても,あの正面玄関左手のトイレットのアサガオの犯罪的な高さ! 東洋の短足矮人のわたしは,そのたびごとに屈辱に堪え,必死に背伸びをしたものだ。)
  書架からテーブルに移した本は,本人が元に戻してはならないのが原則。 したがって立ち去ったテーブルには何冊もの本が積み上げられていたりする。 ケンブリッジのように350万冊をこえる蔵書のうち三分の一が開架式,しかも利用者の多い図書館では,それが合理的,不可避的な整理方法なのかもしれぬ。 リザーブ用のスリップを挟んでおくと,片付けられずに三日間(だったと思う)はそのままテーブルの上に置いたままにしておいてくれるから,前日読みさしの本を次の日にすぐに読みつぐことができる。
  暑中休暇に入ると次第に大学の研究者たちの数は減り,人れ替りに大陸からの研究者の下手な英語が聞かれる。 紛れ込んで来た新入りに乞われて,時には大閲覧室の片側の新着雑誌の棚を図示してやったり,未整理新刊書の雑然と並べられた広大なアンダスン・ルームに案内してやったりしたのは,そろそろこちらの頭の働きが純って来た時刻であった。
  一階にはティー・ルームがあって簡単な食事もできた。 その一角にガラスで仕切られた喫煙室があった。 二時間と禁煙に堪えられないわたしは,四階の書庫から一階へ,荷物運搬用のガタガタきしむエレベーターで降り,安くてまずい,しかし確実に熱いコーヒーを啜り,タバコを喫う。 そして甘ったるいお菓子をいかにもうまそうに,いとおしげに食う老学者にあきれ,若い男女の研究者たちの熱っぽい饒舌の交錯のなかに登場する著名な教授たちの噂話に聞き耳を立てたりした。
  旧知にひょっくり出会わすのもここ,ワークテーブルの隣にいたフランス人と改めて挨拶を交わすのもここであった。
  わたしが息抜き用に使っていたもう一つの場所は,正面北側の四階にあった日本語文献の書庫で,わたしの定席からカギの手にまがったすぐのところだった。 責任者のホィットフォード夫人には,M.C. ブラッドブルック教授にはじめて図書館を案内してもらった時廊下で紹介されたことがあった。 その時の「お仕事お飽きになったらどうぞわたしどものところにお運び下さい」という,一時代前の,由緒正しい日本語が耳に残っていたので,英語の活字とのつきあいに疲れると,よく日本語の書棚を訪れ,山本周五郎を読みふけったものである。
  十八世紀の文献を見るためにはどうしても稀覯書閲覧室ヘ赴かなければならない。 ここでは註文してから本が手渡されるまでまず十分はかかる。 しかも目当ての一節をそこに直ちに発見,確認できるわけではないから,当の本や雑誌を入手するまでに下手をすると半日がつふれた。 室外へ持出せないから,コピーも係に依頼せざるをえないし,依頼しても,ものよっては不許可になるから,やむなく手写ということになる。
  このユニバーシティ・ライブラリのほかにも,50に近い学部学科,30をこえる学寮のそれぞれが図書館をもっていて,その所蔵冊数は200万をこえるといわれていた。
  英文学部の図書館は,わたしもしばしば利用させてもらったが,基本的図書はもちろん,英米の主要な文学研究誌のほとんど,教師の推薦するものなら独,仏語の本まで揃えられていた。 専門の司書一人,職員が三人,すべて開架式の見事な学習図書館であった。 学生代表二人,院生代表一人が加わる英文学部図書委員会が運営に当たっていた。
  借り出し期限に遅れると,一冊一日につき五ペンスの罰金,三週間をこえると罰金のほかに,同じ本を購入するために必要な金額を支払わされることになっており,これらは「厳重に徴収」される,と案内パンフにはあったと思う。
  イギリスの夏は八時でも明かるい。 窓から見えるトリニティーカレッジの庭園に,まだ陽は射しているのに,館内のどこか遠くで振鈴が鳴り出す。 それは廊下の奥から次第に近づき,書庫のドアの向こうで一瞬立ち止り五階の階段を昇って行く。 閉館15分前。 貸し出し業務終了。 読みさしの本をリザーブするためにスリップに名前と日付を記入して本にはさむ。 そしてのびをしながら「さあて帰るか」とつぶやく,日本語で。

(商学部教授)



プリャーニク(糖蜜菓子)のおじさん

坂内 徳明

  3年近くも前のことになるが,レニングラードに半年ほど滞在した折りのことである。
  市内中心部のロシア博物館に隣接して立つのが,頭文字をとってグメGMEと呼びならわされているソ連邦諸民族民族学博物館である。 同じ市内にあるソ連科学アカデミー附属人類学・民族学博物館で世界各地の民族文化に関する資料を見ることも,あるいはエルミタージュ美術館で世界に名だたる絵画の数々を見てまわることも有益であろうが,ロシア民俗文化に関わる筆者としてはグメの展示品の方がはるかに興味をひき,足しげく通ったものである。 加えてこのグメの手稿部門には革命前のロシア民俗(族)学関係の未刊資料が収蔵されていて,許可を得れば閲覧できる。 グメの文書・マニュスクリプト資料については,この種の案内書としては定評のあるP.K.グリムステッド編の文書・マニュスクリプト所蔵目録(モスクワ・レニングラード篇,1972年)にも紹介されている。
  私がグメの手稿部で判読したものは,前世紀末のロシア人の民衆生活に関する調査報告,いわゆる「テーニシェフ文書」であった。 これはテーニシェフ侯爵なる人物が自ら作成した収集プログラムを各地の調査官に配布し,それに対する回答として送られたロシア版「風俗問状答」である。 報告を行った通信員は全部で348人,草稿総数1218点という規模ゆえに,この文書の全体像をとらえることは本国ソ連でもまだ行なわれていない。 しかしこの調査報告が全体としてきわめて信頼性が高いことはこれまでにも指摘され,断片的には資料として使用されてきている。
  手稿部で資料を閲覧できるのは,外国人であるなしを問わず,木,金曜の週2回に限られている。 これまでアメリカ人学者がごく短期間来訪したことがあるとのこと,筆者が通った間にはロシア人研究者以外は来なかった。 閲覧は,ごく簡単に内容を記してある目録で読みたいものの番号を提示し,保管所の天井までの棚にぎっしりと納められた箱の中からそれを出してもらって行なわれる。 コピーなぞはまったく無縁の世界である。 私が目にしたものは上記のとおり,各地に散在した多数の通信員が送付した記録(2,3枚のものから数百ページのノー卜まで)だが,筆跡は想像どおり実にさまざまで,習字練習帳に書かれたような端正な筆跡にあたればよいが,そうでないことの方が,圧倒的に多い。 時節は春から夏にかけてであったので室内暖房はすでに切られ,日本の土蔵にそっくりの底冷えのする手稿部の建物の中で長時間じっとすわっていると,読める文字もボーとかすんでくる。 もとより自分の判読の力量と時間からして多大な成果を期待すべくもない作業であった。 閲覧の後は,文書の納められた紙ばさみの表紙に閲覧者の名前と閲覧の日付を書き込むことになっているが,自分の名を書き入れる時に私のソ連での指導教授のサインを見出してひそかな喜びを覚えたこともあった。
  そんな古文書読みの作業にも息抜きがひとつあった。 それは,この手稿部の責任者であるボイコフ氏との談笑のひとときであった。 彼は60をかなり越えた,一見海坊主のごときいかつい風貌の老人だった。
  そもそものはじめからこの老人は私に対して強烈な関心を示した。 何かと面倒を見てくれ,典型的ロシア人のつねとして時にわずらわしいまでの配慮をしてくれた。 4,5人もすわればいっぱいの手稿閲覧室では,最も日当りのよい窓辺の席を私に確保し,他のロシア人に対しては「はるばる日本からきた客である」とか何とか言って彼らを丁寧に別の席に移すのだった。 1,2回行かないと病気ではなかったのかと真顔で心配してくれる。 昨晩のテレビで日本のことが放映されたぞ,とか,「プラウダ」にのった日本関係の記事の小さな切り抜きを見せては次々に質問を浴びせる,といった具合である。 筆者の日本での生活のすべてに興味を寄せ,はては同行していた私の一家を必ず一度は連れて来いと何度も念を押すのだった。
  お茶を飲むのは私と老人にとって欠かせぬルゥティンとなり,昼食後か3時すぎには閲覧室となりの文書保管室に呼ばれることになる。 時にそれはお茶の時間をはるかにオーバーしてしまうことにもなったが,私としても何となく机に向かいたくない気分の時もあり,喜んで彼との話に花を咲かせるのだった。
  ある時,いつものようにお茶とお菓子をごちそうになっていたところ,筆者の研究テーマのひとつであるロシアの定期市のことが話題になり,かって定期市の広場の売り物であったプリャーニクに話が及んだ。 プリャーニクとは糖密やはっかを混ぜて焼いた菓子で,さまざまな木型の模様を楽しむものでもある。 大きさは5,6センチから30センチ,あるいはそれ以上のものまである。 すでに12,3世紀には作られていたことが,当時の木型が発掘されていることからわかる。 かっては祭や結婚式など各種の宴に不可欠な美味であり,引出物や贈物として珍重された。 後世には街頭で売られる駄菓子ともなった。
  ボイコフ老人の問いに対して私が,言葉では知っているが実物ではお目にかかったことがないし,口にしたこともないと答えると,彼はひどくびっくりし呆れ返ったらしい。 レニングラードはブリャーニクの名産地でネフスキイ通りでもお上りさん用の土産品として売っているし,一般の菓子屋でも袋売りで売っている,早速買ってみなきゃいけない,と言う。 彼は立ち上がって部屋のすみの本箱の中から一冊のパンフレットを取り出してきて,私にそれをくれた。 それは1973年に当民族学博物館で開催されたプリャーニク展の際の出品(菓子そのものならびに木型の)カタログであった。 そしてこのパンフレットの序文を書いているのがほかならぬボイコフ老人だったのである。 彼の筆になる序文は短いながら,この菓子の歴史,流布,種類はもちろん社会的・儀礼的機能や職人史との関連などにも言及しており,なかなか立派な解説文であった。
  私はボイコフ老人のような隠れた研究者の存在に驚いたが,同時にまたブリャーニクというごく日常的かつ伝統的な,素朴で愛らしい事象がこの老人の研究対象になっていることに心暖まる思いであった。 ボイコフ老人は夏には自ら果物を砂糖で煮てロシアのテザートであるコムポー卜作りにいそしむとも言う。 プリャーニクをかじりながら老人とお茶を飲み,今一度ロシア庶民の生活を実感したいと思いを馳せるこの頃である。

(社会学部助教授)



何からカードを引けるか

-- 洋書目録の手びき --

1. 目録とは何でしょうか。

  一口で言って図書の目録です。 本館に備えつけてある洋書のカード目録は,本館・経済研究所・産業経営研究施設が所蔵している図書のリストです。 カードには,著者や書名,出版社や発行年などが記載されていて,ある著者にはどんな著作があるかとか,ある資料にはどんな版があるか,またその本がいつ,どこで出されたのかどのくらい大部な本なのかとかがわかるようになっています。 さらにカードの左端に記載されている請求記号によって,大まかな内容(経済学,経済学史,文学,歴史など) と本が置かれている書架上の位置を知ることができます。 およそ一枚の小さなカード,この中にその本の書誌的情報や所在の情報がもりこまれているのです。
  現在,洋書のカード目録の主体は著者名目録です。 目録記入の一番最初にあたる部分(これを図書館では標目 heading といいます)を著者でとり,それが不可能な場合だけ書名を標目にした目録です。 勿論,共著者やシリーズ名,また伝記や社史の場合は被伝者や会社名を標目の上にタイプして,それらからもひけるようにしておりますが,この目録ではまず著者名を手がかりとして検索することになります。
┌──────────────────────┐
│Qb  Radice, Lisanne.           │
│C278   Beatrice and Sidney Webb ; Fabian │
│    socialists. London, Macmillan, 1984.│
│     x,342p. ports. 23cm.       │
(この場合 Webb, Beatrice Potter, 1858-1943. と Passfield, Sidney James Webb, 1859-1947. からも引けます。)

2. 著者とは何でしょう。

  著者とは何かといわれて面喰らわれた方もあることでしょう。 けれども目録の上で標目に選ばれる著者は,著者の内容の創造に主な責任をもつ個人(原作者・発表者)や団体に限定されています。 その上,著者の形が本によってまちまちに表示されていて,同一の著者であるかどうかわからないという問題も出てきます。 図書に載っている形のままに目録をとる方法(no conflict のルール)もあって,確かにこの方がいちいちフル・ネームを調べる必要もなく目録作業としては楽なのですが,蔵書が大きくなればなるほど,同一著者の著作が一ヶ所に集まらなくなり,検索がかえって大変になってしまいます。 そこで図書館では「英米目録規則」に準拠して,どの著者を標目にするのかを決め,その著者の形も出来るだけ統一してカードを作っています。

3. 標目の形とは何か。

  では色々の形がある中から選ばれ,それのもとに統一して作られる標目の形とは一体どんなものでしょうか。 原則として,最も多く表示されている形(慣用形)あるいは正式名称,言語に関しては母国語が原則ですが,最も一般的な言語(英語形)が使われる場合が多々あります。 別の形からは統一標目へ導く参照(see…  …を見よ)カードが入っています。
  具体例をあげながら目録カードの標目がどのように記載されているかをみてみましょう。

A. 個人名の場合

B. 団体名の場合

C. 書名が標目になる場合

D. 法律関係書の場合

  国名(英語形)の次に Laws, statutes, etc. という副標目がつけられます。 憲法・憲章の場合は Constitution 又は Charter,条約の場合は Treaties, etc. となります。

E. 宗教書の場合

  聖書の場合はBible (旧約はO.T.,新約はN.T. と指示),ユダヤ聖典はTalmud,ヴェーダはVedas,ウパニシャッドはUpanishads,コーランはKoran等の統一書名が使われます。


 

 

 
(1) 著者一人の場合
著者から
(2) 著者二人の場合
責任著者またはタイトルページに最初に表示されている著者/共著者からも
(3) 著者三人の場合
責任著者または最初の著者
(4) 多数著者(四人以上)の場合
書名から/編集者の一人あるいは最初の著者からも
(5) 無著者名図書(Anonymous)
書名または統一書名から
(6) 合集の場合
→ 総合書名があれば総合書名から,なければ最初の著者から/編者および他の著者からも

 

 

 
(1) 団体が責任著者の場合
団体名から/書名からも
(2) 国際機関の場合
機関名(主として英語形)から/書名からも
(3) 政府・官公庁の場合
国名(英語形)+機構名から/書名からも
(4) 地名を伴う団体(大学,図書館,美術館など)
地名+団体名から/書名からも
(5) 会議,集会の場合
会議名または集会名から/書名および編者からも
(6) 個人名を伴う団体(会社など)
姓を最初に転置した形から/書名および編者からも






(1) 伝記や特定の研究対象者
著者から/被伝者,編者からも
(2) 記念論文集
書名から/被記念者,編者からも
(3) 社史
著者または書名から/会社名および編者からも



(1) セットとして扱った場合
シリーズ名から/個別の著者または書名からも
(2) セットとして扱わない場合
個別の著者または書名から/シリーズ名からも




(1) 学術団体の出版する逐次刊行物
誌名から/学術団体からも
(2) 商業出版社の逐次刊行物
誌名から
*逐次刊行物にはまた別に独立した誌名目録および分類目録があります。
**マイクロフィルム,フィッシュも図書と同様です。

  以上大まかに洋書のカード目録を利用する際の手がかりとなる事がらをあげましたが,わかりにくいことは館員におきき下さい。 またカードがどんな順序で並べられているかについては前号でふれましたので参照して下さい。

(文責 金沢 幾子)



新規購入外国雑誌 (追加)

  今年度の新規購入外国雑誌については,前号(No.13)でお知らせしましたが,下記の雑誌も追加して購入することになりました。 いずれも国立本館購入分になりますが,前号に掲載した雑誌ともどもご利用ください。 なお*印がついているものは,バックナンバーが部分的ながら受入れられております。 また8番目の The Times literary supplement は,小平分館でも以前から購入しているので,今後は国立と小平の両館で利用することができます。

(雑誌係)

  1. Journal of accounting and public policy. (New York)
  2. Journal of accounting education. (Harrisonburg, V.A)
  3. Journal of accounting literatures. (Gainesville)
  4. Journal of band research. (Rolling Meadowss, IL.)
  5. Journal of banking and finance. With supplement: Studies in banking and finance. (Amsterdam)
  6. New serial titles. (Washington, D.C.)
  7. Social sciences citation index. (SSCI) (Philadelphia)*
  8. The Times literary supplement. (London)*



ゴールドスミス・クレス文庫マイクロフィルム版第II期分購入完了

  古典資料センターでは,ゴールドスミス・クレス文庫所蔵図書マイクロフィルム版 (Goldesmiths' Kress Library of Economic Literature: Resources in the Economic, Social, Business, and Political History of Modern Industrual Society. 35 mm Positive Microfilm ed.) を昭和53年度よち分割購入していましたが,第I期分(1800年までに出版されたもの)に続いて第II期分(1801年から1850年までに出版されたもの)の購入が完了しました。 これで第I期,26,446タイトル(1672リール),第II期,29,412タイトル(1716リール)が全巻揃いましたが,ひきつづき,第I期のサプリメント(356リール)の購入を予定しています。 (ゴールドスミス文庫,クレス文庫およびそのマイクロフィルム版の簡単な内容については,「鐘」第3号(1980.2)を参照して下さい。)




◆会議

〈学内〉

図書館委員会
 第14回 (1.21)
図書館業務改善のための当面の方策について
その他
 第15回 (2.20)
昭和59年度専門図書費追加予算の配分について
その他
社会科学古典資料センター運営委員会 第21回 (3.6)
昭和59年度事業報告
昭和60年度事業計画並びにセンターの運営方針をめぐって
その他

〈学外〉

昭和59年度国立大学附属図書館事務部長会議
1月24・25日 於:岡山郵便貯金会館
第16回国公私立大学図書館協力委員会
2月1日 於:国立国会図書館
外国雑誌センター館会議
2月22日 於:東京工業大学附属図書館


◆委員異動

社会科学古典資料センター人事委員会委員
2月1日付 今井賢一(商学部長)




一橋大学附属図書館 “鐘” No.14
1985年 3月31日発行
編集委員
澤井文男・及川励一・大島朋子・大橋渉・金沢幾子・砂川淑子・藤原孝子・松尾恵子
発 行 人
杉山裕
発 行 所
一橋大学附属図書館