鐘 No.10/11 (1982.10)





シカゴ大学レーゲンスタイン図書館を訪ねて

大川 政三

  去る3月31日から4月18日にかけて,東京都派遣アメリカ,カナダ大都市財政制度調査団の団長として調査におもむいたが,そのハードスケジュールの間を縫って,カナダのアルバータ大学なちびにトロント大学図書館,アメリカのシカゴ大学ならびにカルフォルニヤ大学(ロスアンジェルス)図書館を訪ねた。 いずれも垣間みる程度の時しかもてなかったが,その中でもとくに印象の深かったシカゴ大学レーゲンスタイン図書館の一端を紹介してみたい。
  かってその夫人が本学の客員研究員として在籍したことのあるジョン・ヴァンデンブリンク夫妻の紹介と案内で,この訪問は実現された。
  本図書館は1970年に新築されて間もない社会科学なちびに人文科学関係の大学院研究図書館 (graduate research library) である。 シカゴ大学学生総数7,500名のうち,5,000名は大学院生であることから,シカゴ大学における本図書館の重要さが推測されよう。
  地下2階,地上5階のサーヴィス・フロアをもち,蔵書収容能力は352万5千冊(書庫に300万冊,開架式書棚に22万5千冊),閲覧席は総赦2,897(このうちテーブル席940,キャレル席1,019,書庫内席275)に及ぶ壮大な図書館である。
  各サーヴイス・フロアは,専門分野別になっている。 地下l階は,経営学,経済学,地埋学,地上2階は,図書館学,政治学,社会学といったごとくである。 そして,各階は,書庫,読書区域,教授研究室の三区域から成り,その間を隔てる壁,扉はほとんどなく,利用者の便宜を重視している。 そして,なにより羨ましく思ったことは,本図書館が,「書庫内で拾い読みできるならば,利用者の研究が進む」という哲学をもち,できる限り開架式をとっていることである。
  「自由に探した書物を,その場で,あるいは,自宅に持ち帰って読める」ことが実現されている。 ただし,この裏に,図書館規則の違反にはきびしい罰則が適用されることを忘れてはならない。

(附属図書館長)



西川孝治郎先生と明治期簿記書コレクション

森田 哲彌

  本学の前身である商法講習所についての埋もれていた資料を発掘し,創立記念日などの機会に幾たびとなく本学に寄贈されてきた西川孝治郎先生は,明治期のわが国簿記書の収集家として,またその研究者として,世界的に有名な方である。 和式帳合から洋式簿記への移行期にわが国で刊行された主要な簿記書を網羅し,簿記会計史の研究者にとって垂涎の的であったこの西川コレクション370余点が,このたび先生の御好意により本学附属図書館に寄贈された。 わが国の簿記・会計教育の草創期に本学がその中心的な役割を果したことを顧るとき,本学図書館は,明治期簿記書の蔵書においては,西川コレクションとの重複は極くわずかにすぎないという。 まことに信じられない状態にあったのである。
  西川先生は,大正9年に神戸高商を卒業後,三菱商事に入社され,経理部長等を歴任,昭和25年に三菱石油に移られて取締役経理部長,監査役等を勤められた。 この間においても学会に所属され,研究活動を続けてこられ,昭和39年には日本大学商学部教授に就任された。 昭和56年に The Academy of Accounting Historians から終身会員の称号を授与されたことは先生について特筆すべきことである。
  また,「日本簿記史談」(同文館,昭和46年),「文献解題・日本簿記学生成史」(雄松堂,昭和57年)をほじめ,多くの著書・論文を発表されている。
  西川先生には,この機会に本誌に次に掲げる一文を寄せていただいた。 私はそれを読んで,本学に対する先生のたび重なる御好意をあらためて知ると共に,先生に対する感謝の念をあらたにした次第である。
  最後に,今回の寄贈図書の受け入れに際してお世話いただいた方々にお札を申し上げる。

(商学部長)



私のライフウヮーク

西川 孝治郎

1 W・C・ホイトニーのこと

  「ウイリアム・シー・ホイトニーは東京商法講習所最初の外人教師である。 私は明治初期簿記書を収集している関係から,わが国の簿記学導入に縁故深き彼の事績に大なる興味をもち,いささかこれが調査を試みた」 これは昭和14年6月10日の一橋新聞(第289号)における私の投稿の冒頭部分である。
  昭和26年10月には一橋大学創立75周年記念祭が,22日から29日まで8日間にわたって行われ,75周年記念「HITOTSUBASHI IN PICTURES」が刊行された。 私はその中で,創業の人々−ホイトニーと高木貞作(講習所教諭)の写真(pp.48-49)を提供し,小伝「W・C・ホイトニー」を書いた。
  上原專祿教授は「商法講習所の誕生」を執筆せられ,次のように書いておられる。
  一橋大学は明治八年八月,森有禮が東京尾張町に私設した商法講習所に始まるといわれている。 「明治十二年七月・東京商法講習所規則」というものには「前教師ホヰットニー氏来航の年月は則ち講習所の端を托し初を書するの時なり。 蓋し八年八月を以て米人ホヰットニー氏我国に来航し,旧会議所之が傭主となり,而して有禮氏之を借り,私学を尾張町に假設し,生員を招集す」と記されている。 (p.44)
  ここに「東京商法講習所規則」とあるのは私が古書展で発見したもので,表紙に羽田桂之進(明治15年本科卒業)の記名があった。 もしなお現存するならば,それはその時私が寄贈したものに相違ない。
  昭和30年 -- 一橋大学創立80周年の記念の年 -- には,私は「ウイリアム・C・ホイトニー -- 一橋大学創立八十周年記念によせて」を書いて一橋論叢十二月号(第34巻6号)に掲載してもらった。 ここにその一部を再録する。
  今年は一橋大学の初めである商法講習所が明治八年(1875)八月,わが国最初の商業学校として発足してから満八十年になる。 それについて思い起すのは,商法講習所最初の外人教師 William Cogswell Whitney 先生の事である。 先生は世間でいう雇教師・嘱託教師等とは凡そ趣を異にし,森者禮,矢野二郎等の諸先生と並ベて,講習所の産みの親の一人と稱えられねばならないのに,従来ほとんど忘れられていたのは甚だ遺憾である。 私は少しく先生の事歴を調べているので,この機会にそれを明らかにしたいと思う。
  以下本文は,  1) ホイトニー家の発祥  2) Bryant, Stratton & Whitney Business College 開設まで  3) アンナ夫人日本渡航の発意  4) 一家横浜上陸まで  5) 商法講習所関設  6) 在職中のホイトニー  7) 不幸なる最後 から成る(pp.63-72)。 このあと補足の雑稿をまとめて「ホイトニーと米系簿記の伝来 -- 一橋大学創立八十年に際して」(企業会計・1955年12月号)を書いた。
  一橋大学附属図書館史(昭和50年l0月30日刊)に,私が寄贈したホイトニー先生肖像画のことが次のように書いてある。 これは西川(神戸高商卒,後三菱石油株式会社取締役,現日本大学商学部教授,商学博士)の寄贈によるものである。 中山正実画伯(神戸高商卒,東京高商専攻部に学ぶ,洋画,壁画,版画家)によって完成されたものであるが,昭和三十六年十月二十二日の本学創立八十六周年記念日にその受贈式が挙行された。 同日は寄贈著によってホイットニー先生の略歴および画家中山正実氏の略歴と同肖像画の写真を添えた印刷物と,高橋学長の西川の略歴および感謝文をのせた印刷物が同時に参会者に配布された。 (pp.86-87)
  (贈呈式挨拶) 私は明治初期のわが国簿記書を集めることを永年楽しみにして来た。 初め複式簿記が外国から輸入されてそれが国内に普及発展するにつれ,数人の西洋人が関係をもった事が判ってきた。 中でもホイトニーの名は最も大きく浮き上ってきて,しかもそれが一橋大学の源である商法講習所最初の教師であることが明らかになった。
  ホイトニー先生は -- 後掲年譜参照 -- 1850年頃エール大学を出てM.A.の資格をとり,学識人格ともに優れた方であった。 New Jersey州 Newarkでブラィアント・ストラットン・ホイトニー商業学校を経営し,経済的にも恵まれた環境にあった。 たまたま日本公使森有禮氏が知り,すすめてわが国に招いたのである。 森は教育に熱心で,のち文部大臣になられたのだが,当時二人の米人を日本に招いている。 一人はラトガース・カレッジ教授ダビッド・マレーで,文部省最高顧問となり,その肖像は日本学士院の壁間高く掲げられてある。 いま一人はホイトニー先生で,文部省は商業教育を認めず,森の進言を容れなかったので,森は私費を投じて私学校として商法講習所を開設したのである。 先生の給料は年二千五百円だったが,それすら過大であるとして契約期間の途中,明治十一年解雇されたのであった。
  ホイトニーは商法講習所在職わずかに三年でその功績はその後の矢野校長等多くの先生に比して大であるとは言い得ないけれども,天をおおう大銀杏も一個のギンナンなしには生れない。 ホイトニーは一橋学園の最初のギンナンであった。 その存在の意義は在職期間の長短という時間を超越して大であると考える。 その意味でホイトニー先生の肖像は,矢野先生の銅像,その他諸先生の記念像と共に,この学園になくてはならないと思うのである。 幸いに今回中山画伯の好意により,また大学当局の理解によって,この肖像画が図書館の壁間に上げられることになり,誠に喜びに堪えない次第である。
  ホイトニーの令孫ババン(Willis Bevan Whitney, Ph.D.)(1888/3/21 - 1977/3/--)はこのことを非常に喜んでくれた。 そして当時健在の弟妹五人が,感謝の署名をした二冊の本を贈ってよこした。 彼等は欧米各地に散在していたので,次々にリレイして署名を集めたのである。
  ベバンは昭和33年秋,大英博物館所蔵パチョーリ・スムマ簿記論のマイクロフィルムを贈ってくれた。 「複製・パチョーリ簿記論」(森山書店・1959年12月刊)はそれを基にしたものである。 当時まだ珍しかったので学界でも喜ばれ,黒沢清先生は在ちに書評(会計 -- 1959年12月号)を書いて下さった。 B.S.Yamey 教授の斡旋により,Institute of Chartered Accountants in England & Wales. Historical Accounting Literature, 1975のパチョーリ文献(PACIOLIANA p.241)にも加えられている。
  ホイトニー家は英米両国にまたがる名家で,百科辞典に載っている名士が少なくない。 私はベバンのために小冊 Wllliam C.Whitney and his influence on the early development of bookkeeping in Japan を書いた。 彼はそれを大英博物館,米議会図書館等へ寄贈し,そのカタログに載せている。 その資料はいま一橋大学附属図書館に保存されている(一橋大学附属図書館史 p.99)。 ホイトニーには知れたる著書がないから,私のコレクションに網羅されている直弟子たちの著書は,彼の簿記の真相を伝える唯一の資料であろう。

ウイリアム・シー・ホイトニー年譜

  William Cogswell Whitney, M.A. は商法講習所最初の教師であり,森有礼と共に講習所創立の功労者である。
1825年(文政8)
    1月25日 米国首都郊外 Georgetown, D.C. に生る。 父はウイリアム (1800-1878) 造船業。 母は Permelia Cogswell (1796-1839) という。
1846年 エール大学に入り,ギリシャ語,仏文学を学び,48年病気中退。 50年再人学し,1年間在学。
1852年 Newark, N.J. の Wesleyan Institute 教授を経て,同地にBryant, Stratton & Whitney Business College を経営す。
1854年 アンナ夫人(当時20歳)と結婚。 55年に Willis,65年に Clara,69年に Adelaide の三児をもうけた。
1870年11月 1日 最初の日本人富田鉄之助ホイトニーの学校に入学。
1872年 駐米公使森有札の勧めにより日本渡航を決意す。
1873年 森有礼はホイトニーを招き商業学校を設立するよう文部省に要請たが容れられず大久保一翁,渋沢栄一等を動かして商法講習所設立を計画する。
1874年 ホイトニーは家具を日本に送り渡航準備をする。
   11月 1日 森有礼は福沢諭吉に「商学校を建るの主意」(商法講習所のため寄付金募集趣意書)の起草を頼む。
1875年(明治8)
    8月 3日 ホイトニー夫妻,一男二女横浜に着き,ひとまず東斉木挽町森有札邸に入る。
    8月28日 勝海舟金千円を商法講習所に寄付す。
    9月13日 東京会議所がホイトニーを雇い入れ,これを森有礼私設の商法講習所に貸与する形式とし約条書調印。雇入期間は5年,給料は年2,500円。
    9月24日 銀座尾張町2丁目23番地たいみそ屋二階に商法講習所開設。
   11月   高木貞作(ホイトニーの学校卒業)商法講習所助教授となる。 生徒数26名。
1876年 5月   商法講習所は木挽町10丁目新舎屋に移転。 東京府の管轄に移り,26日矢野二郎所長となる。
1877年 2月   成瀬隆蔵,森島修太郎の2名(最初の卒業生)出る。
1878年 5月   商法講習所経費節約のためホイトニー契約期間の途中で解職さる。
1879年12月   子息ウイリス医学研究のため一家は帰米す。
1882年(明治15)
    4月   日本再航の途中ロンドンで病気になり,8月29日永眠。 Hampstead墓地に葬る。

  遺族はその年日本に来て,夫人は翌年病死。 息ウイリスは医師として1911年まで日本に留まり,18年英国で亡くなった。 日米修好百年には,父子が文化功労者として表彰された。 (1965.9.22)

2 私のコレクション

  「我国初期簿記書目」(会計・昭和10年3月号・14年1月号追加)には19世紀末までの日本簿記文献263種を集録した。 これは私の当初の収集目標だった。 しかるにいつしかマニアに陥り,太田哲三先生には西川は「明治以来の文献の殆んど全部を所蔵し,且つ読破している」といわれ(「会計学の四十年」中央経済社・昭和31年・p.57),アメリカ会計学会・会計史委員会報告にも書かれるに至った。 …… Japanese scholar, Professor Kojiro Nishikawa, is known to have an excellent collection of Japanese books on bookkeeping dating from 1870 to 1890.(The Accounting Review, Supplement to Vol. XLV, 1970, p.62)
  明治6年はわが国近代会計制度の起源を画する年であり,昭和48年は以後満百年にあたり,日本会計研究学会は明治初期以後の会計文献・資料を収集して「近代会計百年 -- その歩みと文献目録」(昭和53年11月刊)を出版した。 そのために私が委員会の求めに応じて製作した蔵書カードの数は約500枚 -- 正確には497枚 -- であった。 このカードは私のコレクションの全容をエキザクトに示すものである。 ほとんど全部が明治の出版で,私が昭和の初期から古書展に通い続けて買いあさった集積である。
  私の明治簿記コレクションは,近代会計百年・文献目録でわかるように,一橋・神戸その他諸大学図書館所蔵を超えて圧倒的に豊富である。 そしてこれには,より抜きの善本が含まれている。 第一は福沢諭吉訳「帳合之法」であるが,この書第二編の初版本は,このコレクションの外にはない。 次は商法編纂局編「商事慣例類集」(16年7月)である。 これは日本帝国憲法の起草者井上毅の旧蔵書である。 本来法部門に加えられるべきなのだが,私はこれに基づいて「わが国会計史研究について -- 和式帳合のニ重構造」(会計・昭和46年12月号)を書いている。 近代会計百年・文献目録の解題を託されて,多年かき集めた資料を活用し得たのは幸いであった。 与えられたスペースが限られたので,出版が早く残本の少ないものに重点を置いて,なるべく広汎に隠れたる資料の紹介に努めた。 滋賀大学教授小倉栄一郎博士の書評(会計・昭和54年5月号)で高い賛辞を頂いたのは光栄であった。
  私のコレクションがわが国簿記発達史資料として重要であることは,太田哲三先生の「会計学の四十年」にも書かれている(p.57)。 それは数が多いばかりでなく,外にない貴重書を含んでいる。 「銀行諸帳面取扱手続書」と「尋常簿記法」とはその第一である。 前者はシャンドの英文原稿の邦訳文であり,後者は原訳者宇佐川秀次郎の自筆本である。 雄松堂はその原寸大写真複製・200部を限定出版した。 雄松堂はこの外,わが国古典簿記書あわせて16点を復刻し,久しく等閑にされてきたわが国会計発達史のブランクを埋めた。 近代会計百年の学界記念出版「日本会計発達史」(昭和51年4月刊)を始めこれまでみな「帳合之法」と「銀行簿記精法」とで書きはじめられているが,日本会計史の発祥 -- 簿記ことはじめ -- は,かくの如く,極めて多様多彩である。 特に西洋諸国と比較してその感が深い。 外国人もそれを認めている。 拙稿「第二回会計史国際会議の記」(会計・昭和51年12月号)参照。
  私がライフウヮークとして簿記書収集を選んだのは幸運だった。 コレクションの範囲を最小に限定して内容の最善を期したのもよかった。 Excellent collection の一つといわれて幸せであった。 アメリカ会計学史学会の The Accounting Historians NOTE BOOK, Spring, 1982 に Accounting History Hobbies 連載のことが書いてある。 それについてこのコレクションにも若干の光が向けられはしないかと,私はひそかなる期待をもつものである。




〈資料室めぐり〉

一橋大学附属図書館小平分館

  小平分館は,中央線国分寺駅で西武多摩湖線に乗換え一橋学園下車徒歩約10分の“緑とオゾン”の小平キャンパスの一角にあります。

1. 概要

  小平キャンパス正門左側の2階建の建物が小平分館で,開架閲覧室及び図書館事務室(昭和44年8月竣工)と書庫(昭和54年3月完成)から成り,延床面積は2,131平方メートルです。
  1階に貸出カウンター,目録コーナー,新刊雑誌コーナー,休憩コーナー,開架閲覧室があり,2階は開架閲覧室です。 1階書架は主として指定図書(教官指定学生専用図書),参考図書(辞書・事典類),相京文庫,政府刊行物等が配架してあり,2階は一般和書,和雑誌(製本済)が,書庫には洋書,洋雑誌,石原文庫,旧専門図書等が配架してあります。
  閲覧座席数は276席で,閲覧室は冷暖房完備,豊富な資料と静かな読書環境に恵まれています。
  小平分館は,主に1・2年の学生が利用する学習図書館です。 そのため, (1)蔵書(特に和書)は,一般教養書,参考書及び学習研究のための図書資料が多く,洋書は文学関係の収書が比較的多い, (2)時間外開館(9:00-20:00,土曜日9:00-16:30), (3)自由接架制(開架式), (4)指定図書 等が小平分館の性格となっています。
  職員は,分館長1名(教授),受入1名,参考1名,洋書1.5名,和書3名,洋雑誌1名,和雑誌1名,閲覧2名(パート)です。
  蔵書数(昭和57年3月31日現在)は,和書の内開架図書は90,738冊です。
  継続受入雑誌種類数は,和雑誌230,洋雑誌188で,新刊雑誌コーナーには,和雑誌の全てと,75種の洋雑誌の新着雑誌があり自由に閲覧ができます。

2. 小平分館の利用

  小平分館を利用できる人は,原則として一橋大学に在籍する学生及び教職員です。 小平分館では図書館利用証の発行はしていません。 学生証の呈示で入館することができます。 学生の館外貸出しは,4冊まで2週間です。但し貸出禁止図書(辞書,事典,統計,年鑑類,貴重書,美術書,地図,法典,未製本雑誌等)は閲覧のみです。
  学外者の場合は,所属する大学等の図書館長の紹介があれば,閲覧は可能です。 また,小平分館は国立大学図書館相互利用制度に加入しています。なお文献複写設備はありません。
  休館日は,日曜日,国民の祝日,本学創立記念日(9月24日),年末年始(12月28日-1月4日)及び毎月第2,第4水曜日の午後(館内清掃,配架調整のため)です。
  小平分館に備えているカード目録は,

和書: 書名目録,著者名目録,分類目録,旧専門部図書分類目録
洋書: 著者名目録,分類目録,旧専門部図書分類目録
です。分類表は小平分館独自のものを使用しています。

分館分類表(主題表のみ)
0 総記
1 哲学・宗教・教育
2 文学・語学・芸術
3 歴史・伝記・地理・風俗
4 法律・政治
5 経済・社会
6 商業
7 理学
8 工業
9 軍事・医事・体育・家事

3. 小平分館所蔵文庫

  石原宗助文庫 (英文学,洋4430冊,和959冊)
  佐藤文庫 (独文学,洋1590冊)
  海老原文庫 (英文学,洋1790冊,和602冊)
  相京文庫 (禅林関係,和341冊)
  小場瀬卓三文庫 (仏文学,洋1677冊)
  山田欽一文庫 (数学,和洋504冊)
  岸野文庫 (英文学,洋1366冊)

(小平分館 相馬 豊次)



■参考室から

文献複写と参考業務

大橋 渉

  現在のように複写機器の性能が向上し,極めて良質のコピーが簡単にとれるようになると,図書館間の複写依傾が急激に増加して行くのは自然の成行きであり,その場合,蔵書量の多い図書館に申込が集中して来るのも避けられないことで,本学の図書館もその例外ではありません。
  複写に関連してさまざまな問題が生じていますが,ここではその中から一つだけ取り上げて考えてみたいと思います。
  禎写をするには,当り前のことですが,まず複写されるべき文献を探し出して,持って来なければなりません。 文献は,探せば必ず見つかる筈なのですが,実際に,禄写の申込を受けて,探してみるとそう簡単には行かないことがあります。
  その原因の一つに,文献に関するデータが誤まっていたり,不十分だったりということがあります。
  例えば,雑誌名,巻号,年度,頁数,論文の著者名,題名,まで明記してあるので,指定の雑誌を調べてみると,該当する論文がのっていない,というような場合がときどきあります。 こういう例で,比較的多いのは,巻号,あるいは年度の数字を間違えているものです。 恐ら〈は,その文献を引用した人が,間違って引用ししているか,あるいは,印刷の際,誤植されたのに気付かず,そのまま発表してしまうことがあるのではないかと思います。 また,引用は正確になされていても,読む人,つまり複写を申込んだ人が,間違って引き写したという場合もあり得ることです。
  雑誌の巻数や年度が違っているだけならば,その雑誌を丹念に調べて行けばいつかは,必要な論文が見つかる筈ですからある意味では単純なことだとも言えます。 また,依頼をする側でも,その程度のことは受付ける方でやって貰いたいと考えるのかも知れません。
  しかし,受付館の立場からすると,これは決して単純な問題ではありません。 歴史の良い雑誌だと,何十年と続いているものがあり,それを一冊一冊しらみ潰しに調べて行くのは大変な時間と労力を必要とします。 もちろん索引が出来ている雑誌ならば,この手間は大してかからないから良いのですが,文献データの誤まりには,また別のタイプがあるので厄介です。
  それは,巻号,年度といった数字の間違いの他に,雑誌名そのものが違っているという例も皆無ではないからです。 私の記憶している例では,English Historical Review と Economic History Review を混同しているものが二,三度ありました。 English と Economic を取り違えるとはふつうではちょっと考え難いので,憶測をしてみると,恐らくこれは,雑誌名を略号で引用しているのではないかと思います。 この二つの雑誌はどちらも EHR と省略されます。 これを,読む人が,English 或いは Economic と思い込んだために起きた誤まりではないかと思われます。 これは,引用した人の段階では誤まりとは言えませんが,不十分だったとは言えるでしょう。
  この他にも,引用された文献そのものと,文献データをつき合わせてみても,引用箇所を確認できず,もとの論文を読んでみて,初めて分ったというような例もあります。 複写申込書には,文献のデータだけが記されていて,データの出所が書いてないためにもどかしい思いをすることも一再にとどまりません。
  文献を引用する人,それを読む人が十分慎重であれば,こういう問題は本来起きない筈ですが,それが不可能だとすれば,誤まった,或いは不十分なデータを訂正して,正しく文献を探し出すことも,参考業務の重要な仕事だといえるでしょう。

(図書館専門員)


訃報  本館整理課書誌係長佐々木正氏は病気療養中のところ,去る4月25日脊椎腫瘍のため死去されました。 享年57歳。 ここに慎んで哀悼の意を表します。



佐々木さんと私

田辺 広

  佐々木さんと私とのおつきあいは,時間的にも短いものであるし,それも決して深いとはいえないものであった。それ以前にも一度お自にかかったことはあったが,そもそもの始まりは私が一橋大学図書館に着任した昭和53年の4月のことであった。 当時洋書整理の直接責任者であった佐々木さんに仕事の状況をたずねたときの困ったような苦しい表情を忘れることができない。 数千冊の洋書が書庫の入口に廊下に,堆く未整理のまま積まれていたことに,温厚で誠実そのもののような佐々木さんは,人一倍深い責任を感じていたに違いない。 図書館の規模に比較して,他とは較べられぬ程の量の洋書の重みが永い間佐々木さんの肩にかかっていたのだろう。 抜本的な機構の改善と思いきった整理業務の合理化が必要であった。 その後の変革が良かったか悪かったかは別として,佐々木さんに専念してもらいたい仕事が他にも沢山あった。 佐々木さんが一橋大学図書館に残された仕事の大きなものの一つは「鐘」の編集である。 その創刊以釆,各号は,佐々木さんお一人の努力の結晶といっても過言ではない。 この小きな冊子の隅々まで,その誠実な人柄とゆきとどいた配慮がゆきわたっている。
  私が図書館に勤務してしばらくたってから,何か行事があるとか海外からの賓客が来訪したときとか決ってベレー帽をかぶった佐々木さんがカメラを持って後におり,あとで鮮明な写真を届けてくれた。 又写真室で複写の仕事を一手に引受けていることを知った。 メカに強い佐々木さんがその威力を発揮したのが図書館機械化についてであった。 ことに文部省科学研究費による「大学図書館における情報処理トータルシステムの開発」に参加し,オンラインによる LC MARC 利用実験をするに当り,熱心に端末機を操作する彼の姿は,私のみならず館員の印象に強く残っている。 (注)
  佐々木さんは上野の図書館養成所の卒業生でその同窓の方々は各所で活躍されている。 私としては当然,彼の昇進を画策したが,結果として様々の壁があり実現しなかった。 しかし終始一橋大学図書館を仕事の場とされたことを,これが良かったのではなかったかと今にして思っている。

(鶴見大学教授,前一橋大学附属図書館事務部長)

注: 大学図書館のシステム化 紀伊國屋書店 1981 p273〜276 実験報告(6)



佐々木さんから聞いたこと

山田 欣吾

  図書館の正面玄関を入ってすぐ右手,総務の事務室につづいて,物品や古い書類の置き場に使われている部屋がある。 部屋には書架が何本か並んでいるが,中ほどの一本の上には,小型のダンボール箱が十個ほど無造作にのせられている。 しかし,これらの箱に何が入っているのかを知る人は,大学の中にもはや誰もない。 それを知っていた唯一の人,佐々木正さんが,周囲のよもやの思いをよそに,アッという間に急逝されてしまったからである。
  去年の九月なかばだったと思うが,ある必要に迫られて,60年以上も前のギールケ文庫購入の事情を調べていたとき,ひょっとしたら何か材料があるかもしれないと佐々木さんが教えてくれたのがそのボール箱群であった。 事実,二人でたまたま降ろした最初の箱からは,「文庫関係書類」と上書きされた紙包みが出て来,ギールケ文庫やメンガー文庫の購入にかかわる資金繰りを記した帳簿などもみつかった。 その時,佐々木さんは,そうした「貴重な史料」の保管の悪さに驚いて無神経に非難する私に対し,例の,まず自分を責める口調で,この書類のことは今では自分だけしか知らないので,何とか整理をしたいと思いながら手が回らなくて困っでいる,と申しわけなさそうに言っておられた。 佐々木さんの話しによると,ボール箱の中の書類は,六,七年前の事務室模様替えの時,大金庫から,「一時」の積りで移したものであって,以前には「非常持出」扱いになっていたとのことである。
  並はずれて責任感の強い人だったから,佐々木さんはこの資料の整理を,日常のそれ自体過大な業務に加えて,少しづつ人手を借りずにこなそうと心積りされていたようである。 そのためには,定年までの年月が余り残されていないことに焦りを感ずるともらしておられたのを思いだす。
  ボール箱の中味が果して何であるのか,本当に「貴重な」資料なのかどうかは別として,もしそれが無智のために散佚するようなことがあっては,佐々木さんもさぞ無念だろうと思われたので,書きとめた次第である。

(経済学部教授)


佐々木さんのこと

岡崎 義富

  一橋大学図書館の佐々木正係長が亡くなったとの知らせを受けたのは4月26日のことで,私にとって信じ難い事実であった。 この長寿の時代に現職の人を失うなどまれなことである。 まして私は同氏とこの正月に楽しい雑談の時を過したばかりで,そのときは氏が月なかばに入院するなどその気配はまったくなかった。
  佐々木氏は大連第一中学から大連経済専門学校(昭18卒)に進み,昭和22年帰国,教職を数年経験し,その後文部省図書館職員養成所に人所,一橋大学に就職したのは26年である。 私とのかかわり合をいうなら55年に私が一橋を去るまでの30年近くを同じ職場で過したことになる。 渉外や館外の会議に出席する仕事に携わることがなかったので同氏の名が知られる機会は少なかったと思う。 同氏の養成所同期生には私の知る国立関係では丸山昭二郎,石山 洋(国会図),藤田全一(元広大事務部長),永芳弘武(九大整理課長),井上啓也(科博)など館界で個性的活躍をしている方がおられる。
  一橋大学の洋書構成の評価が高いことはいうまでもない。 佐々木氏は館内にあって,ひたすらその整理の仕事に専念された。 気の遠くなるような多量の資料を整理する作業は曇天の山登りのように重く長い道のりの仕事で愚痴には事欠かない。 労働の配分,特別なチーム編成による文庫の山崩し,目録の発行など解決には専門的知識や経験の外に強力なエネルギーと人々のカをつなぎ合せる働きがなくてはなちない。 佐々木氏の誠実な人柄はその働きに永く耐え,かつ,よく機能してきたのであ。
  昭和26年の就職後しばらくして病が氏を襲い数年間の療養生活を余儀なくされた。 老いた両親と兄弟をもつ同氏にとってこの期間が苦しい歳月であったことは想像に難くない。 しかし私には,同氏がこの永い闘病生活の間に逞しい精神力を養い無責任にならぬ寛大さを築き,人の心に信頼感を与える人格を磨き上げ,またその誠実さを宗教的信条に固く連鎖させて行ったように思えるのである。
  療養生活を終った氏は復帰後,当時の川崎事務長が感嘆するような精励恪勤の仕事ぶりを続け,36年には洋書目録係長に就任した。 以来,54年書誌係長になるまで18年にわたってその席を替えることはなかった。 書誌係長の任務にはこの館報の発行の外,一橋大学百年記念事業の一環として購入された多量の洋書群の整理のための戦略を氏の二次資料に関する深い知識を背景に計画立案することが含まれていた。 その外,私の去ったあと,最古参の一人として一橋の歴史資料や諸問題の経緯について調査の仕事や対応が氏の負担となったことはいうまでもない。
  私の名刺のファイルに既に少し黄ばんだK.T.C.C.(国立・立川・サイクリングクラブ)と肩書きのある佐々木氏のそれがある。 ニコンを肩から下げ,石仏,特に道祖神を元気に撮影して廻っていた頃のものである。 自転車もカメラもよく手入れがしてあった。 機械のもつ正確さは同氏の嗜好によくあっていたようだし,几帳面な性格は活字のような氏の筆跡からもよく伺われた。
  残念ながら葬儀に参列することができなかった私は5月になってすぐ国立市の氏の家を訪ねた。 「人を写すばかりで自分のものは殆どなかったのです」という夫人の説明を聞きながら百合の花の間に納められているいつもより少し厳しい氏の写真と対面した。 床の間にはフロイスの「日本史」が積みあげられている。 彫の深い東北人(山形県鶴岡)の風貌は既に無機物となって,想像のなかでしか私に語りかけてはくれない。

(兵庫教育大学助教授)



大学図書館建築シンポジウムに参加して

金沢 幾子

  1982.7.19“大学図書館建築の理念と計画”と題するシンポジウム(於東大)が開かれ,今年完成したばかりの慶大,名大,金沢工業大図書館の三つの事例が報告された。 これらはそれぞれ15,000m2(増築予定なし),10,000m2(増築予定5,000m2),15,000m2(増築可能)の面積をもち,全館開架制である。 設計は慶大と金沢工業大が専門家へ,名大は施設部へ依頼している。
  図書館建築の場合,その機能と造形とを如何に合致,調和させるかが最大の課題となる。 図書館の理念と機能を図書館側が設計側に十分伝え,設計過程で生じる疑問や意見は徹底的に論議するなど,両者のコンタクトやフィードバックが緊密になされなければならない。 この点,慶大と金沢工業大からは利用者サービスに基づく明快かつ明碓な図書館構想をきくことができた。 中でも金沢工業大はサブジェクト・ライブラリアン(教授・助教授が授業と同時に図書館において専門分野のレファレンスやオリエンテーション,図書選定などを行なう),オン・ラインLC資料検索システム(従ってカード目録を一切使わない)の導入,1時間授業に対して2時間自習に対応する開館(将釆24時間)など,これまでの図書館にみられない積極的なサービスを目ざしている点で注目される。 これは自然科学系の単価大学だから出来るという面もあるが,それを可能にしているのは図書館を実質的に大学の心臓にしようという大学ぐるみの熱意である。 報告者も図書館建築は図書館側だけの問題ではなく,大学全体の存在とする“巻込み”が必要なことを強調していた。
  フォーラムでは,新築の図書館が増える一方,実際には使いにくさが一向に解消されない現実に疑問が出された。 これに対しては,部屋だけの機能は満たしても部屋と部屋との機能連関の検討の不足が指摘された。 そのほか全館開架に伴なう問題(スペースをとること,書架上の乱れ,利用率の少ない資料の扱い etc.),面積や業務量は増えても人員は増えないことからくる問題や,コンピュータと図書館建築との係わりなどについても言及された。
  確かに全館開架は望ましい。 しかしつぎはぎの増築で資料の別置につぐ別置を余儀なくされている図書館にとっては,却ってサービスに支障をきたしかねない面もある。 図書館建築は大学及び図書館の理念と機能の具現であり,それに対応する能力が問われる重要な問題であることを改めて痛感した。

(洋書係)



カナダ・アメリカ図書館見学記

川津 朋子

  第48回IFLA(国際図書館協会連盟)モントリオール総会に出席し,会議のテーマ「ネットワーク」に関連したいくつかの図書館を見学するという,JLA(日本図書館協会)企画の旅行に参加した。
  会議は,8月23日から1週間開かれ,日本人は70名以上出席した。 語学力不足のため,会議の内容についてくわしく報告することはできませんが,paperだけは沢山持ち帰りました。
  会議の一日は,5つのコースで見学ツァーがあり,モントリオール市内の公共図書館を見学しました。 モントリオールは,人口の70%がフランス系の人々が住み,中央図書館は英語の図書も半分くらい見られたが,見学した他の3つの図書館は,私の見たかぎりではほとんどが仏語の図書でした。 地下鉄の駅とショッピングセンターとの通路に図書を並べた貸出専門の図書館が印象的であった。
  この旅行の参加者は,現職の司書よりも,図書館学の教官の方が若干多く,それぞれ興味の対象も異なり,また見学といっても,全般的な説明を受けて,建物の中をツァーするという方法で,細かい点までは理解できなかった。 さらに,説明はほとんど英語であったので,全体にかすみがかかったような具合でした。 それでもいくつかの都市を訪れ,街のたたずまいを見,日本の図書館とは較ぶべくもない豊かな施設に驚き,そこに働くさまざまな人々にわずかながらも接することができました。 忙しいスケジュールの合い間を縫って訪れたケベックでのセントローレンス河畔のながめ,2回も行った広大なモントリオール植物講演,遊覧船にのったワシントンのポトマック川,など楽しい思い出もできました。
  会議のあるモントリオールに入る前に,トロントに寄り,トロント大学ロバーツ図書館,UTLAS (University of Toronto Library Automation Systems)本部,トロントメトロポリタン図書館の,3ケ所を一日で廻りました。 トロント大学図書館の建物は,図書館学部,ロバーツ図書館,Rare Book Library のビルが連絡通路で結ばれている。 ここは地城の住民に開放された図書館であり,貸出は受けられないが,public service のためのセクションがある。 目録はCOMが多く利用されているようあり,さまざまなパンフレット,リストがたくさん出されている。 UTLAS,メトロポリタン図書館には日本人職員がおり,後述するLC,OSUにも日本人 librarian が活躍している。
  会議の後,ワシントンのLC(議会図書館)でオンライン目録 MARC の編集の研修を受ける予定であったが,私は午前中のみ,5人のグループですぐ近くの Shakespeare Library を見せてもらった。 first folio が79点もあるという rare book の書庫には,きれいにみがかれた図書が大切に保存されていた。 LCでは初めてオプティカルデイスクを見た。
  ワシントンでの2泊の後,コロンバスに行き,オハイオ州立大学(OSU)とOCLC (Online Computer Library Center) 本部を訪問した。 CSUは1970年の circulation system より機械化が始まり,OCLCと発展をともにしている。 大学のコンピューターセンターの4人が図書館専門に働いており,OCLCからの更新テープにより金曜日の真夜中2時間かけてメンテナンスされ,土曜日の朝からは新しい書誌情報が使える。 業務以外の端末が114台あり,1982年6月でカードカタログは close された。 学生は端末の操作も含めた図書館の利用法についての講義が必須となっており,図書館職員,学部,院生のボランティアの協力により実習が行われ,館独自のオリエンテーションもある。
  最後の訪問地,シカゴではノースウェスタン大学とALA(アメリカ図書館協会)を見学した。 大学図書館は建築構想そのものがすばらしく,教授を含む委員会が学生へのインタビューなどを重ね,利用者本位の,学問をする人々の共同社会としての図書館という理念のもとに建てられた。 またここは,UTLAS,OCLCとは異なったNOTIS (Northwestern Online Total Integrated System) というコンピューターシステムを開発している。
  上記の会議及び施設等の資料が多数ありますので,興味のある方は,御連絡下さい。

(閲覧係)



寄贈図書紹介

  このたび,前図書館長,本学名誉教授木村増三先生より御所蔵の図書39冊(和14冊,洋25冊)が図書館に寄贈されました。 財務管理,証券市場論関係書が中心となっています。
  また,去る昭和54年に死去された本学名誉教授石田龍次郎先生の旧所蔵71冊(和10冊,洋61冊)が御遺族の御好意により寄贈されました。 内容は地理撮要(明治16年刊),出雲国地理書(明治12年刊)等を含む地理学関係書です。
  いずれも本館に所蔵されます。




■社会科学古典資料センターから

◇ 古典資料センターでは,ゴールドスミス・クレス文庫マイクロフィルム版を昭和53年度より分割購入していましたが,このほどその第1期分(1800年までに出版されたもの)の購入を完了し,1669リール全巻が揃いました。 (ゴールドスミス・クレス文庫,およびそのマイクロフィルム版の内容等については,「鐘」第3号(1980.2)をご覧下さい。)
  センターには第1期分のマイクロフィルム版のカード目録,冊子目録が備えられており,センター内のマイクロリーダーによる閲覧,貸出(2週間),プリントサービスを行っています。
  現在販売中の第2期分(1801年から1850年までに出版されたもの)と第1期のサプリメントについても,ひきづづき購入を予定しています。

◇ 第三回西洋社会科学古典資料講習会の日程が下記のように決定し,11月17日から三日間,以下の講師によって,古典資料の整理または調査研究に従事している図書館員及び大学院生を対象として行なわれます。

第一日 11月17日(水)
「西洋書誌学入門」 武者小路信和
「西洋古版本の製本」 石井幸弘
第二日 11月18日(木)
「写本文化から印刷文化へ」 高宮利行
「革命史におけるビラと壁新聞」 良知力
「古典目録法講義・演習(1)」 岡崎義富
第三日 11月19日(金)
「古典目録法講義・演習(2)(3)」 岡崎義富
「社会科学ドキュメンテーション」 水田洋


■会議

◇図書館委員会
2月17日 昭和56年度追加予算の配分について他。
◇社会科学古典資料センター運営委員会
3月11日 昭和57年度の事業について他。
◇国立大学図書館協議会東京地区総会
4月27日
◇図書館委員会
5月6日 昭和58年度概算要求について他。
◇社会科学古典資料センター運営委員会
5月19日 昭和58年度概算要求について他。
◇国立大学附属図書館事務部課長会議
5月21日
◇第29回国立大学図書館協議会総会
6月17,18日 於:信州大学。
◇図書館委員会
7月19日 専門図書費の配分について他。


■各種委員異動 (新)

  1. 附属図書館委員会委員
    伊藤邦雄(商学部) 山崎昭(経済学部) 谷口晉吉(経済学部) 上原敏夫(法学部) 竹内啓一(社会学部) 4月1日付。
    矢野敬幸(商学部) 6月1日付。
    松坂和夫(法学部) 7月1日付。
    片岡寛(商学部) 8月3日付。
  2. 創立百年記念募金図書購入委員会委員
    伊藤邦雄 山崎昭 谷口晉吉 上原敏夫 竹内啓一 堀内昭義(経済研究所) 4月1日付。
    松坂和夫 7月1日付。
    片岡寛 8月3日付。
  3. 小平分館図書委員会委員
    矢野敬幸 秋谷治(経済学部) 6月1日付。
    松坂和夫 7月1日付。
  4. 社会科学古典資料センター運営委員会委員
    米川伸一(商学部) 浜林正夫(経済学部) 勝田有恒(法学部) 古賀英三郎(社会学部) 津田内匠(経済研究所) 4月1日付。
    松坂和夫 7月1日付。
  5. 社会科学古典資料センター人事委員会委員
    藤野正三郎(経済研究所) 3月1日付。
    広海孝一(商学部) 浜林正夫 勝田有恒 古賀英三郎 倉林義正(経済研究所) 4月1日付。
    杉原泰雄(法学部)5月1日付。
    松坂和夫 7月1日付。
    中村喜和(社会学部) 8月1日付。


■人事異動

小平分館長
松坂和夫 再任 7月1日付
社会科学古典資料センター
武者小路信和 採用 3月1日付
閲覧課閲覧係
松下彰良 小平分館から配置換 4月1日付
柳田圭吾 採用 4月16日付
整理課和書係
鎌田陽子 筑波大学附属図書館から転任 7月16日付
整理課書誌係長
砂川淑子 昇任 7月16日付
退 三好敬慈 (閲覧課閲覧係) 3月6日付退職
八隅明子 (小平分館) 3月15日付退職
佐々木正 (整理課書誌係長) 4月25日死亡




一橋大学附属図書館報 “鐘” No.10/11
1982年10月20日 発行
編集委員
大橋渉・砂川淑子・諸沢菊雄・松尾剛
発 行 人
杉山裕
発 行 所
一橋大学附属図書館