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一橋大学附属図書館レファレンス・ブログ

レファレンス・カウンターに寄せられた相談などの中から、日誌風に掲載していきます。

  • 質問等は個人が特定されないように適当に脚色している部分があります。
  • その他のご相談についてもレファレンス相談へお寄せください。
 

清田龍之介

清田龍之介(せいた りゅうのすけ 1880-1943)

 現在、三鷹市山本有三記念館において「山本有三記念館への道―住宅・接収・青少年文庫―
という展示会が開かれています(会期2009年10月3日~2010年6月2日)。
 そこでは、現記念館となっている山本有三の住居が、東京高等商業学校教授であった清田龍之介が建てたものであったことから、これまであまり知られていなかった清田の経歴や、その住居が山本有三の手に渡った経緯などが、展示会およびその図録『解説 三鷹市山本有三記念館』にまとめられています。
 『一橋大学学問史』によれば、英作文・英文購読・商業英語を教え、「立教大学を出てから、米国オハイオー州ケニオン大学とエール大学を卒業し、明治44年9月に東京高等商業学校講師に、大正2年2月に教授に就任した。学校が昇格した年の大正9年5月に一旦退職して浜口商事株式会社総支配人の任に就いた。しかし結局その事業が破綻し、11年後の昭和6年4月に再び予科講師として商大に戻った(p.1088)」
 濱口商事は、醤油醸造業の濱口家が販売のために興した会社で、ちなみにヤマサ、ヒゲタ、キッコーマンいずれも濱口家ゆかりの会社です。
 また、上記展示の元になった研究が、以下にまとめられています。
平山 育男,

 なお、筆者未見ですが、
嶋津拓, オーストラリアにおける日本語教育の位置 : その100年の変遷
 にオーストラリア時代の清田龍之介の行跡が書かれているようです。

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 やはり、東京高等商業学校初期の英語教師として、ジャバース・ホームズという人物についても別の方から問い合わせがありました。『一橋大学学問史』によれば「明治24年度から25年度にかけて嘱託にジャバース・ホームズがいるが、この人の国籍その他については不明である(p.1061)、また、当時の「高等商業學校一覽」を見ると、確かに明治24~25年の2冊に、「嘱託 英語 マスター・オブ・アーツ ジャバース・ホルムス」と記載があります。しかし、本学にはそれ以上の情報はないようでした。
 お問い合わせいただいた方からの情報によると、ジー・ホルムスは栃木県初のお雇い外国人教師で、明治21年5月から明治23年3月末まで、尋常中学校(現宇都宮高校)に在任とのことです。
 なお、さらにgoogleで調べてみると、
  http://www.ii-idea.com/jp/pro/photo/n1_i5_48.html
が見つかりました。
 この「イー・アル・ホルムス or ジャバス・ホームス?」が、同一人物かどうか確定はできませんが、墓を建てたと思われる森岡昌純という人は、神戸商業講習所の設立に関し、福沢諭吉などとも関係していることから、当時の高等商業学校とのつながりがあっても不思議ではなさそうです。
 なお、このお墓は青山墓地ですが、
 東京都広報 平成18年7月28日(金) 定刊13746号
http://www.tokyoto-koho.metro.tokyo.jp/file/koho/id/490/f/1146/13746.pdf
 によれば、すでに使用許可を取り消されていて、墓自体はなくなっている可能性が高いようです。
 はるばる日本にまで来て、無縁仏になってしまったのは かわいそうな気もいたします。
 

城山三郎の学生生活

 小説家の城山三郎(本名:杉浦英一)に関して調査依頼(レファレンス)がありました。
 城山三郎は昭和21年一橋大学の前身である東京商科大学の予科に入学,昭和27年3月に学部を卒業しています。在学中の出来事を題材とした自伝的小説「大義の末」では,皇太子殿下(今上天皇)の一橋訪問の場面が登場しますが,このことは学生新聞である一橋新聞の昭和22年6月15日に「専門部の文化祭賑う-皇太子さまを迎えて」というタイトルの記事で確認ができます。
 当時は予科が小平に,本科と専門部が国立に設置されていたので,前半の三年間は小平で,後半の二年間は国立で授業を受けたと思われます。『東京商科大学予科の精神と風土』【3700:2621】には予科が石神井から小平へ移転したこと(p.78),予科生の期間が三年間であったこと(p.83)の記述があります。
※当時の進学段階については以下の表をご参照ください。
東京商科大学の機構図(pdf)
(平成21年度 企画展示) 「一橋大学の歩み : キーワードで知る学園史」】より。

 彼は予科入学後一橋寮へ入寮しましたが昭和23年1月18日にはその建物が全焼してしまいます。(『一橋大学年譜II』に記述があります。)
彼は予科入学なので小平で授業を受けていましたが,この災難に遭った一橋寮は昭和19年3月31日に国立の専門部Aホールに移転した記録があります。(『一橋大学年譜I』より。)従って,国立で寮生活を送りながら,自転車で片道30分くらいの小平キャンパスまで通学していたことが想像されます。

 さて実は今回は,もうひとつ質問「従来の彼の年譜には所属学部が明記されていません。経済学部卒業でよろしいでしょうか。」がありました。
 彼の卒業論文から確認できるのは指導教官名(山田雄三先生)のみなのですが,他の資料を調べてみると学内の制度改革との関係が浮かび上がってきました。
 当時の一橋大学はちょうど東京商科大学から一橋大学へと移行する時期にあり,彼を含めて東京商科大学時代に入学して一橋大学時代に卒業した学生達は制度としては学部が分かれていない最後の時代の卒業生なのでした。このことは「一橋大学学制史資料」第9巻【Az:180】のp.73-及びp.172で確認できます。
 従ってこの時期の卒業生は本学OB名簿の表記に従えば「昭27経卒」ではなく,「昭27学卒」ということになるようです。
 

818 A.2d 914

Omnicare, Inc. v. NCS Healthcare, Inc., 818 A.2d 914 (Del. 2003).
というアメリカの判例ですが、
当ブログ「アメリカの判例」で触れたとおり、
A.2d という判例集の
818巻の
914ページ
という風に読みます。
A.2d は、「アメリカ-判例集・裁決集・法令集等の略号(引用形) 」などによれば、”Atlantic Reporter 2nd ”ということがわかるので、これをHERMESで検索します。
または、lexis.com の Shepard's にそのまま818 A.2d 914と入力しても検索できます。
 

波多野重太郎(1853(嘉永6年)-没年不詳)

 三菱商業学校を卒業した波多野重太郎氏(1853(嘉永6年)-没年不詳)について、当館WEBサイトで「巌松堂創業者」としていたのは、1875年生まれ1958年ご逝去の同名異人でした。ご関係の皆様にはご迷惑をおかけいたしました。お詫びして訂正いたします。

 三菱商業学校とは、「三菱と簿記、そして日本郵船へ(巨大帳簿)」にあるとおり、明治維新後の我が国商業教育の揺籃期、一橋大学の嚆矢・商法講習所と同時代に、三菱の岩崎彌太郎(1835-1885)によってつくられた学校です。
   『三菱社史』【Dbb:A122】 の明治11年の項には、三菱商業学校の規則や、教員等の記載があります。
 また、当館西川文庫の旧蔵者・西川孝治郎による「三菱の発祥と複式簿記」『商学集志』36(2・3) (1967.04) 【ZD:158】に記述があります。さらに、西川論文の出典は『岩崎久彌傳』【Qb:A206】p.184  で、三菱商業学校についても比較的詳しく触れられています。
  また、岩崎弥太郎のいとこで久弥の補佐役であった豊川良平は、三菱商業学校の幹事を務め、その伝記  『豊川良平』【Uyeda:Ee:78】  には、三菱商業学校についてさらに詳しい記述があり、波多野重太郎を含む卒業生等についても写真入りで記載があります(写真は、廃校後だいぶ経ってからの明治45年当時に開かれた 「三菱商業明治義塾旧友会」での集合写真)。

 三菱商業学校は比較的短期で閉校し、教員など明治義塾に引き継がれ、また明治義塾も英吉利法律学校(現・中央大学)に引き継がれることになります。波多野重太郎も明治義塾の発起人の一人でした。  

  波多野重太郎については、『日本紳士録』大正十六年用【QAd:1】によれば、「東京高等工藝学校、横浜高等工業学校各事務嘱託」  とあります(ちなみに大正16年用には、巌松堂書店主も別項で隣に並んでいます)。また、『明治人名事典』上巻【2800:346:1/上】によれば、「君は岡山県の人亡行蔵氏の二男にして嘉永六年十二月を以て生る、現に東京高等工業学校教授なり…」とあります。『明治人名事典』の底本が大正元年版で、東京高等工業学校から分かれて東京高等工藝学校ができるのが大正10年なので、大正16年時には東京高等工藝学校移っていたのだろう。

 国立公文書館のサイトによれば、以下の文書がありました。
  • 明治29年「東京工業学校助教授兼東京工業学校書記波多野重太郎滋賀県商業 学校長ニ被任ノ件」
  • 明治31年「滋賀県商業学校長波多野重太郎休職ノ件」
  • 大正10年「東京高等工業学校教授波多野重太郎依願免本官ノ件」
  • 大正10年「元東京高等工業学校教授波多野重太郎」として叙勲。
 その他、高野房太郎が横浜商法学校で波多野に教わったという記述(二村一夫「高野房太郎とその時代(一七)」) や、

静岡商の「百年史」によると、滋賀県商の7代目校長の故・波多野重太郎氏 が、静岡市に商業学校設立のため請われて赴任。1899(明治32)年から2 年4カ月間、初代校長として校風を確立した。教諭も兼ね、商業算術を教えたと される。「国家繁栄には海外貿易が重要」との考えを持ち、静岡の生徒に「士魂 商才」の四文字を掲げて商人の使命を説いた。人柄は厳格で「卑屈なる根性を憎 み、通学途中にあっても学生は学生らしく堂々と闊歩(かっぽ)せよ」と教えた という。」 (asahi.com「実は100年超す縁 監督ら、交流継続を誓う」

などもありました。
 

お染風

 「一橋大学年譜 I」明治24年1月にこうあります。
「「インフルエンザ」流行のため1月末より2週間休業。この年、該病が社会に妨害を与えたことは実に甚だしかった」

 当時、一橋は高等商業学校といっていましたが、明治23年末から24年にかけての日本でもインフルエンザが大流行していたようです。
 当時は「インフルエンザ」というよりは「流感(流行性感冒の略)」とか「お染風」とか言っていたようです(「流感」は私の子供のころはまだ使っていましたが)。

 「青空文庫」という、著作権の消滅した作品と、「自由に読んでもらってかまわない」とされたものをテキストで提供している電子図書館がありますが、そこに
『綺堂むかし語り』  / 岡本綺堂
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1306_14484.html
 がありました。それによると、以下のとおりです。

日本で初めて此の病いがはやり出したのは明治二十三年の冬で、二十四年の春に至ってますます猖獗しょうけつになった。われわれは其の時初めてインフルエンザという病いを知って、これはフランスの船から横浜に輸入されたものだと云う噂を聞いた。しかし其の当時はインフルエンザと呼ばずに普通はお染風そめかぜと云っていた。なぜお染という可愛らしい名をかぶらせたかと詮議せんぎすると、江戸時代にもやはりこれによく似た感冒が非常に流行して、その時に誰かがお染という名を付けてしまった。今度の流行性感冒もそれから縁を引いてお染と呼ぶようになったのだろうと、或る老人が説明してくれた。(以下略)
 ご興味のある向きはつづきを読んでみてください。
 

公取の審決評釈が見たい

公正取引委員会の審決についての評釈について問い合わせがありました。
具体的には、 (株)ソニー・ミュージックエンタテインメントほか3名に対する件 < 審判審決 >
(平成17年(判)第11号 平成20年07月24日) についての評釈についてでした。

審決そのものは、公正取引委員会のサイトにデータベースがあり、「平成17年(判)第11号」という事件番号を入れると見ることができました。

CiNiiを引くと、株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメントほか3社に対する審決(平成17年(判)第11号) (「エスエムイー」ほか3社に独禁法違反認定する審判審決--公取委、被審人4社の主張斥ける 着うた配信共同妨害事件)という「公正取引情報」に掲載された記事がありましたがこれは一橋では所蔵していません。

月刊「公正取引」総索引を見ると、「土田和博, 着うた共同取引拒絶事件(公正取引委員会平成20年7月24日審判審決:(株)ソニー・ミュージックエンタテインメントほか3社に対する件)(
2008/12、698号)という記事があり、こちらは【ZD:106】で所蔵していました。

審決の調べ方については、京都大学の日本の法律文献・政府行政文書の調べ方を参考にしました。
 

市制町村制公布時についていた理由書が見たい

市制町村制は1888年(明治21年)に制定され、1947年(昭和22年)の地方自治法施行まで地方自治制度の骨格となりました。
それには、理由書がついていて趣旨が書かれているが、どうしたら見られますか、という相談がありました。

法律そのものの原本は、国立公文書館のデジタルアーカイブで見られますが、
http://www.digital.archives.go.jp/
理由書はありませんでした。

結論としては、以下の図書にありました。
 ・市制町村制正義 【本館3階 NBC:257】
 ・大都市制度史 1 【Kg:502:1】p.18
 # ほかにも掲載された図書はあるようです。
 
 また、単に読むだけでしたら、以下ほかにもありました。
 http://www.town.minobu.lg.jp/chosei/choushi/minobu/T05_C01_S02_1.htm


 

引用・参考文献の書き方

藤田節子, レポート・論文作成のための引用・参考文献の書き方, 日外アソシエーツ , 2009. 143p.【8100:958】
という本が出ています。

 図書館のガイダンスでもご紹介しているとおり、引用・参考文献には学問分野や学会等によっていろいろな書き方がありますが、要は「それぞれの資料に対して、識別性のある必要十分な書誌要素が書かれていることである。」「このことさえ満たされていれば、引用のしかたによって書誌要素の順番が多少違っていても、ピリオドがコンマになっていても差し支えない」のですが、じゃぁ「識別性のある必要十分な書誌要素」ってなに、ということがこの本に書かれています。

 欧文の著者名は転置する(Kennedy, John F.のように)とか、論文がインターネットで流通することを前提とすれば、書名をイタリック体にしても区別がつかなくなったり、文字化けしたりすることもあるので、記号法(区切り記号)でわかるようにしましょう、とか、その他微に入り細に入り解説されています。

 引用・参考文献の書き方に困った時は、一度、手にとられてはいかがでしょうか。


 

シンクタンク系の報告書、マーケットシェアについて

1)2007年版 中古車流通総覧 - 矢野経済研究所
2)自動車アフターマーケット総覧 / 矢野経済研究所
について問い合わせがありました。

 一橋にはどちらもなく、1)についてはどこも所蔵なく、2)については1館所蔵あり、文献複写をお薦めしました。
 この手のいわゆるシンクタンク系の報告書は、調査を委託した企業等へ報告されていて公開されていなかったり、高額で販売している例が多く、なかなか手にすることができません。
 ただ、ジェトロビジネスライブラリー(赤坂)では、シンクタンク系の報告書なども比較的多く所蔵されているようです。

 また、一般的なシェアの調べ方は以下のようなものが利用できます。

日本マーケットシェア事典 【最新版は参考図書コーナー 6750:156】
第11次業種別審査事典 / 金融財政事情研究会編 【(本館2階)コード分類和書3385:123(全9巻)】
市場占有率 / 日経産業新聞編 【(本館3階)コード分類和書6750:323(各年版)】
Market share reporter 【(本館1階)参考図書コード分類6050:1:2009】

#国立国会図書館 > テーマ別調べ方案内 >業界動向の調べ方(シェア、ランキング等)
http://www.ndl.go.jp/jp/data/theme/theme_honbun_102076.html

 

ペリー日本遠征記

 あるところから、いわずとしれた黒船のペリーのサイン入り「日本遠征記」の原書が所蔵されているのではないか、という問い合わせがありました。
 結論としては、原書自体は版違いを含め3セット所蔵していますが、サイン入りはありませんでした(サイン入りは金沢大学にあるようです)。
 「日本遠征記」は、現在、岩波文庫【0800:32:D/343】で手軽に読むことができます。


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