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平成25年度 一橋大学附属図書館企画展示
「2013 お肉のススメ:肉食禁忌と食の文明開化」

出品資料  (PDF:240KB)

  1. 肉食の禁忌
  2. 薬喰いとももんじ屋
  3. 肉食の解禁と奨励
  4. 牛鍋の流行
  5. 上流階層における西洋料理の普及
  6. 家庭料理と洋食
  7. 海外渡航者の食日記
  8. 映像資料

I. 肉食の禁忌

原田信男『歴史のなかの米と肉:食物と天皇・差別』平凡社、2005年
請求記号:【0800:36:541

おもな肉食禁止令・殺生禁断令(抜粋)

 ここでは天武天皇4年(675)以降に発布された肉食禁止令・殺生禁断令の一部をまとめている。長い歴史のなかで肉食禁止令・殺生禁断令は幾度も発布され、肉食忌避の浸透を促していった。

おもな肉食禁止令・殺生禁断令(抜粋)(PDF:151KB)

おもな物忌令(抜粋)

 鎌倉期から室町期には、主要な神社では相次いで物忌令が成文化された。本表では主要な神社の物忌令の中から、肉食に関する規定の部分をまとめている。いくつかの物忌令には合火規定が記されている。「合火」とは、獣肉を食べたことにより穢れている者と、一緒に食事をした別の者にも穢れが伝染することである。神社によっては、一緒に食事をした者に対する物忌み期間も定められていた。

神社名 年代 内容 出典
八幡社鎌倉末~室町初鹿・猪100日合火30日、猿90日
狸・兎・鳥11日、魚3日
続群書類従3下
稲荷社鎌倉末~室町初鹿75日、猪33日
鹿-干肉70日、生肉30日
続群書類従3下
春日社康永3年(1344)合火食間7日・食後3日
同座食間50日
鹿・猪50日合火30日又合火21日
故実叢書
御霊社応永10年(1403)四足獣7日、羚(かもしか)5日
鳥3日、魚―
大日本史料7-6
新羅社応永32年(1425)四足獣33日、大鳥7日、小鳥3日続群書類従3下
大神宮永享12年(1440)鹿・猪100日合火11日続群書類従3下
日光権現嘉吉2年(1442)鹿21日、猪・兎・鳥7日続群書類従3下
大神宮応仁2年(1468)鹿100日合火21日又合火7日続群書類従3下
吉田神道長享2年(1488)鹿・猪・猿・狐・里犬70日
合火50日又合火30日同室5日
兎・狸・狼・羚(かもしか)5日
続群書類従3下
大神宮永正10年(1513)鹿100日合火21日又合火7日群書類従29

原田信男『歴史のなかの米と肉』(2005)120頁より作成

塙保己一編・太田藤四郎補『続群書類従』第3輯 経済雑誌社、1903年
請求記号:【参考書/022:3:続3下

 江戸時代後期、塙保己一は小冊のため散逸の恐れが高い古典的著作1276種を編纂して整版刷り665冊に収めた「群書類従」を出版した。「続群書類従」はその続編であり、第80巻において諸社の物忌規定がまとめられている。八幡社の規定をみると、物忌期間は鹿・猪を口にした者で100日間、鹿・猪の合火は30日間、猿では90日間、狸・兎・鳥では11日間、魚では3日間と記されている。

ジアン・クラセ著(太政官翻訳係訳述)『日本西教史』坂上半七、1878年
請求記号:【明治文庫/Xg:78:上

 仏宣教師ジアン・クラセJean Crassetは戦国時代末期から江戸時代初期までの日本のキリスト教会史を記した『日本西教史』(原著1689)において、日本人の肉食状況についても触れている。同書において、クラセは日本人の牛肉、豚肉、羊肉に対する嫌悪はフランス人の馬肉に対するものと等しく、牛は農業等に用いるのみである、と記しており、肉食に対する庶民の様子を窺い知ることが出来る。

小田切春江編『凶荒図録』愛知同好社、1883年
請求記号:【Tsuchiya/III:1007

 江戸時代の享保・天明・天保の大飢饉の様子を絵入りで説明している。挿絵は木村金秋(1833-1917)によるものである。今回展示している頁は、「奥州凶歳飢民牛馬を喰う図」であり、飢饉時には牛馬や犬猫を食べざるを得なかった様子が描かれている。

II. 薬喰いとももんじ屋

喜多村信節撰 ; 近藤圭造校訂『嬉遊笑覧』名著刊行会、1970年
請求記号:【Tsuchiya/V:428

 江戸後期の国学者、喜多村信節による随筆。原著は文政13(1830)年成立、12巻・付録1巻。江戸時代の風俗習慣を中心に社会万般の記事を集め、28項目に類別して考証を加えたものである。
 10巻上「飲食」の項に、江戸初期に四谷で野獣肉が販売されていたとの記事、「獣市」が収録されている。

[高田与清著] ; 国書刊行会編輯 『松屋筆記』国書刊行会、1908年
請求記号:【Tsuchiya/V:939

 江戸後期の国学者、小山田与清による全120巻の随筆。文政15(1818)年から-弘化2(1845)年ごろにかけて古今の書物から抜き書きし、考証・論評などを付した筆録である。
 小山田は大の肉食反対論者であり、巻之九十七の五十八「肉市」で、獣肉食の流行を蘭学者の悪風と断じ、肉食が江戸の町に穢れを充満させ、火災を引き起こしていると憤っている。

寺門静軒 [著] ; 日野龍夫校注『江戸繁昌記』岩波書店、1989年
請求記号:【PAe:290:100

 江戸後期の儒者・漢詩人、寺門静軒による風俗書。原著は1832(天保3)年-1836(天保7)年刊。5編5冊。
 名所や名物、遊興地など、江戸市中の繁栄を狂体漢文(世話にくだけた漢文)で描いたもので、初篇の「山鯨」には、種々の獣肉鍋を供する店内で大いに飲食が行われたももんじ屋の盛況が活写されている。天保の改革では、著者の諧謔と風刺をきかせた文体が災いし、風俗をやぶる書とみなされ発禁処分を受けた。

Aimé Humbert Le Japon Illustré, t. 2. Libr. de L. Hachette, 1870
請求記号:【Qf:492

 スイスの時計生産者組合会長エメ・アンベール Aime Humbertは、文久3(1863)年、修好通商条約締結のため使節団長として来日し、滞在期間中当時の日本の風俗・習慣を書き綴った資料をもとに、帰国後『世界一周』誌 Le Tour du Mondeに連載をもった。
 本書は、これが後に2巻本の『幕末日本絵図』Le Japon illustreとして、フランスで刊行されたものである。

三谷一馬『江戸商売図絵』青蛙房、1963年
請求記号:【Tsuchiya/VI:974:本編

 日本画家であった三谷一馬は、戦前時代小説の挿絵画家として活躍した後、江戸風俗を絵画に再現することを志し、資料画に専念した。
 本書は、江戸時代の商人や職人の多様な生業風俗を、当時の浮世絵などの絵画資料から復元し1冊にまとめたもので、展示の「ももんじ屋」は、歌川国芳によって描かれた合巻『御無事忠臣蔵』(1814)の挿絵を元にした作品である。

堀晃明『江戸切絵図で歩く広重の大江戸名所百景散歩 : 嘉永・安政江戸の風景119』人文社、1996年
請求記号:【2910:132:3

 展示の作品は、安政3(1856)年-同5(1858)年にかけて、浮世絵師の歌川広重が描いた連作「名所江戸百景」の複製である。
 絵の手前左側にある「山くじら」の看板を出している店は、北紺屋町(現、中央区八重洲)のももんじ屋「尾張屋」がモデルといわれている。

井伊家より彦根牛肉献上贈呈年表(PDF:234KB)
『彦根市史』中冊 彦根市役所、昭和37(1962)年、266頁より作成
請求記号:【Qff:781

 彦根特産の牛肉は美味で滋養に富むとの評判は早くから知られており、同藩から将軍家への献上品、および諸候への贈答品に用いられた。肉食禁制の時代下にあって、薬用の「御養生肉」と称し主に寒中御見舞に贈られていたといわれる。
 年表は『井伊家御用留』(井伊家文書)に掲載された、牛肉贈呈に関する記事を一覧にしたものである。

III. 肉食の解禁と奨励

『新聞雑誌』第26巻 日新堂、1872年
請求記号:【明治文庫/XAz:106:21-40

 明治天皇が初めて肉を食べたことを伝える記事である。「我朝ニテハ中古以来肉食ヲ禁セラレシニ恐多クモ天皇無謂儀ニ思召レ自今肉食ヲ遊バサルゝ旨宮内ニテ御定メ之アリタリト云(朝廷は中古の時代より肉食を禁じていたが、天皇は肉食を禁じる理由がないと思い、今後は宮内で肉を食べることを定めた。)」 とある。『明治天皇紀』には明治4(1872)年12月17日に肉を食べたと記されているが、国民に報道されたのはおよそ1か月後であった。

明治天皇の肉食報道までの経緯

 明治天皇が明治4(1871)年に初めて「西洋料理」を食べたといわれてから、肉食解禁の報道までを『明治天皇紀』などから年表で時系列に表した。肉食解禁の報道の約半年前より明治天皇は西洋料理を食べていたことがわかる。『明治天皇紀』には明治6(1873)年7月にナイフやフォークの使い方を習った記録があることから、年表にある当時は、西洋料理のマナーもままならない状況だったことが想像できる。

年月日(西暦) 天皇の西洋料理・肉食にまつわる記録
明治4年8月18日
(1871年10月2日)
浜離宮の延遼館で大臣・参議らと「西洋料理」を食べた。
明治4年11月21日
(1872年1月1日)
横須賀造船所に行幸した折,品川戦艦上で昼食に「西洋料理」を食べた。
明治4年12月4日
(1872年1月13日)
皇后が牛乳を飲み始める。天皇はそれより一か月ほど早く飲み始める。
明治4年12月17日
(1872年1月26日)
「肉食の禁」が解かれ,牛肉,羊肉を常食とするようになった。
明治5年1月
(1872年2月発行)
『新聞雑誌』において「我朝ニテハ・・・」報道がなされ、国民が肉食解禁を知ることとなる。

宮内庁編『明治天皇紀』第2(1969)、『新聞雑誌』(1872)に基づき作成

明治天皇の食生活を知る証言類(抜粋)

 明治天皇は14歳に践祚(せんそ)(天皇の位を継承すること)し、長年続いていた皇室の生活習慣を踏襲していたそうだが、食生活もその例外ではなかった。西洋料理または肉料理を食べはじめたのは、明治天皇が20歳前後であるが、野菜や魚料理を好んでいたことは、当時明治天皇に仕えていた日野西、山川の回顧録やその他の文献から見てとれる。また淡水魚のヒガイは明治天皇が特に好んで賞味したことから「鰉」という字をあてている。

早稲田大學會科學研究所『中御門家文書』上巻 早稲田大學會科學研究所、1964年
請求記号:【Tsuchiya/VI:837:上

 明治5(1872)年2月7日付けで松平慶永(幕末から明治時代初期の元越前藩主および政治家)が中御門経之(幕末から明治期の公卿、華族)に宛てた手紙の復刻版である。文中に「宮中之御模様にて政治始こと くビイドロ障子ニ相なり不殘板椽ニ相なり敷物ニ御さ候尤皆椅子ニ御さ候 ... 」とあるように、ガラス障子や西洋風の椅子等宮中の様子が描写されている。さらに手紙では宮中の床が畳から板敷や敷物にかわっていることが述べられている。

日野西資博『明治天皇の御日常 : 臨時帝室編修局ニ於ケル談話速記』新学社教友館、1976年
本学所蔵なし

「御好きな物は魚類で,鮎とか鯉・鱧,若狭物は小鯛でも鰈でも非常に好きでありました。(中略)鶉は能く召し上がりました。これは全体を叩きまして召し上がりました。別して京都方面から取り寄せました物を御好みになりました。京都で召上つたのでありませうが,嫁菜(よめな・蒲公英(たんぽぽ)・独活(うど),それから西洋物で「アスパラガス」を御取寄せになつて召上がりました。」

p.86

山川三千子『女官』実業之日本社、1960年
本学所蔵なし

「お上はどちらかといえば、濃厚な方をお好みになりましたので、同じお魚を差し上げるにしても、つけ焼きとか、煮付けで、皇后宮様は塩焼や、お刺身、またはからすみなどといった物がお好きでございました。」

p.63

秋偲会『天皇家の饗宴』秋山徳蔵記念刊行会、1983年
請求記号:【2800:2210

「和食の場合の献立は,朝,昼が二汁三菜,夕が二汁五菜。二汁はみそ汁,醤油汁で,菜のほうは刺身,照焼,塩焼,煮付けかまぼこ,蒲焼・・・・・・となっている。特にお好きだったのは,浜焼鯛,鮎,ナスの丸煮だったとか。皇后さまはお味噌がお好きで,朝は白味噌だった。」

p.35

『太政官日誌』第12号 御用御書物所[他]、1872年
請求記号:【明治文庫/Xaz:17B:M5/1-23

 『太政官日誌』は明治政府が出版した官版日誌類の最初のもので現 在の『官報』の前身ともいわれている。明治5年第12号には壬申2月18日に御岳行者事件についての掲載があり、白装束をまとった10人が大手御門より皇居に侵入しようとしたと記述されている。なお、本学に所蔵はないが 『明治五年公文録』にはこの事件の尋問調書があり、主犯の利兵衛が犯行する前に「当今、西洋人が渡来して以降、日本人はもっぱら肉食をするようになったため、地は穢れ、神の居所がなくなってしまった... 」と仲間に話したとある。

片山淳之助『西洋衣食住』1867年
請求記号:【Tsuchiya/I:8

 著者の片 山淳之介は、福澤諭吉(ふくざわ・ゆきち 1834- 1901)のペンネームである。彼は使節団の一員として、欧米 を歴訪し、諸外国の文化を見聞した。本書はその経験をもとに書かれたもので、西洋人が用いる衣服・ 食器・室内調度品などについて、簡単な図を用い 説明されている。食事のマナー のまったく異なる西洋料理の扱いに苦労する日本人に対して、西洋料理の正しい知識をいち早く伝えたとされている。

敬学堂主人『西洋料理指南』『近代料理書集成 第1巻 西洋料理』所収 クレス出版、2012年
請求記号:【5900:110:1

 本書は明治期になり 、はじめて刊行された翻訳西洋料理書である。上巻には、西洋料理の調理器具・食器・食卓用器具や献立の例が記されている。下巻には、魚類・獣類・野菜・菓子類など材料ごとに料理法が載っている。展示資料にある図 は、子牛の油煮(今でいうミラノ風カツレツ)を作る時の、肉の切り方を紹介している 。翻訳者の敬学堂主人については不詳である。

仮名垣魯文『西洋料理通』『近代料理書集成 第1巻 西洋料理』所収 クレス出版、2012年
請求記号:【5900:110:1

 『西洋料理指南』と同様、明治期になり、はじめて刊行された翻訳西洋料理書である。著者 の仮名垣魯文(かながき・ろぶん 1829- 1894)は、江戸時代末期・明治期 に活躍した戯作者で、本書は横浜居留地で雇われた使用人に調理を命じる手控え帳を翻訳したものである。第80等 (章)には、牛の心臓の焼き方が示されている。挿絵は、江戸時代末期・明治期に活躍した浮世絵師の河鍋暁斎(かわなべ・きょうさい 1831-1889)による。

小川為治『開化問答』和泉屋勘右衞門、1874-1875年
請求記号:【明治文庫/Xb:25

 小川為治(おがわ・ためじ  生没年不詳)は、通俗的な啓蒙書を得意とし、本書では廃藩置県・四民平等・外国交際・衣食住などの様々な問題について保守派の旧平と開化派の開次郎による調子の良い議論がかわされている。旧平は、牛鍋・豚鍋・牛乳を口にするような者は、どんなに神棚に向かって拝礼したところで神様は決して許してはくれないだろうと主張し、開次郎は、日本人は牛 肉・豚肉・鶏肉といった滋養の高い食べ物を食べないから西洋人のように蒸気船や電信機などの大発明をすることができないと反論している。挿絵は『西洋料理通』と同じく 河鍋暁斎による。

IV. 牛鍋の流行

石井研堂『明治事物起源』改訂増訂版 春陽堂、1944年
請求記号:【明治文庫/貴X:117A

 『明治事物起源』の執筆は 、明治・大正期の明治文化研究家にして 、ジャーナリストであった石井研堂(いしい・けんどう 1865 -1943)のライフワークで、 明治に新しく登場した 様々な事物・事象について、起源や歴史を解説した書である。「最初の牛鍋店」の章によると 、東京で初めて牛鍋店が開店した当時は、来客どころか単なる通行人までもが目と鼻を押さえて走り去るさまだったと伝えている。当館では昭和11年(1936)年に刊行された改訂版と、同19年に刊行された増補改訂版を所蔵している。

八百屋八兵衛「牧牛論」『魯文珍報』第7号 [パネル]開珍社、1878年
本学所蔵なし

 『魯文珍報』は仮名垣魯文が主宰した戯作雑誌である。その第7号のこの「牧牛論」は当時牛鍋屋の繁盛ぶりが描かれているが、同時に牛鍋の作り方を知ることができる。
 これによると、牛鍋は現在の醤油や砂糖ではなく、味噌を味付けに用いたようである。また味噌は牛肉の臭みをとる役目があり、さらに葱や山椒も加えているようである。

(一部抜粋)
葱を五分切りにして先味噌を投じ鉄鍋ジヤ 肉片甚薄く少しく山椒を投ずれば臭気を消すに足るといえども雖壚火を盛にすれば焼付の憂を免れずそこで大安樂で一杯傾けるから姉さん酌を頼みますと半熟の肉片未だ少しく赤みを帯ざる處五分切の白葱全く辛味を失はざる時何人にても一度箸を内れば鳴呼美なる哉牛肉の味ひと不叫もの幾希矣

(読み下し文)
葱を五分切りにして、まず味噌を投じ、鉄鍋ジャジャ、肉片はなはだ薄く、少しく山椒を投ずれば、臭気を消すに足るといえども、炉火を盛んにすれば、焼きつけの憂いを免れず。そこで大あぐらで、一杯傾けるから、姉さん、酌を頼みますと、半熟の肉片、いまだ少しく赤みを帯びたるところ五分切りの白葱、全く辛味を失わざる時、何人(なんぴと)にても、一度箸を入るれば、ああ、美なるかな、牛肉の味わいと、叫ばざるものほとんどまれなり候。

仮名垣魯文『牛店雑談安愚楽鍋』誠之堂、1871-1872年
請求記号:【明治文庫/X218:266

 『牛店雑談安愚楽鍋』は3篇5冊の小判和装から成る。初めの3冊は明治4(1871)年 に、後の2冊は翌年 に刊行された。著者 の仮名垣魯文(かながき・ろぶん 1829- 1894)は、江戸時代末期・明治期に活躍した戯作者である。落合芳幾(おちあい・よしいく 1833-1904)の挿絵とともに、牛肉屋に集まる さまざまな階級の人物やその当時の風俗 が描かれている。左の本のある西洋好きの男は「なぜ今までこんなにうまい滋養のある牛肉を食べなかったのか」と言い、右の本の歌妓(げいしゃ)は「初めて牛を食べて以来、3日も空けずに食べないと体の具合が悪い」などと言いながらそれぞれ牛鍋を楽しんでいる。中央の本には 店に来客する武士・商人・花魁・女中たちの姿が描かれている。



平出鏗二郎『東京風俗志』覆刻版 冨山房、1990年
請求記号:【Scd:1222

 本書は、国史・国文学者であった平出鏗二郎(ひらで・こうじろう 1869- 1911)によって著され、明治32- 35(1899-1902)年に出版されたものの復刻版である。松本洗耳(まつもと・せんじ 生没年不詳)による200点近い精緻な挿絵とともに、東京のありようや人々の暮らしが描かれている。図は牛鍋のチェーン店いろはが描かれている。いろはは牛鍋の大流行にのり、都内に16店舗まで展開した。2階の窓には、西洋館・異人館のステンドグラスを模した市松模様の5色ガラスが嵌めこまれ、当時としてはハイカラ な店構えであった。

服部誠一『東京新繁昌記』山城屋政吉、1874年
請求記号:【明治文庫/Xg:55, 明治文庫/X382:15

 服部誠一(はっとり・せいいち 1841-1908)は、明治期の文学者兼 ジャーナリストとして多くの政論誌を発刊した。本書は 6編6冊から成り、初編では学校や牛肉店、2編では待合茶屋や劇場、3編では鉄道や書店、4編では博覧会や西洋断髪舗、5編では電信や結婚・就職の斡旋業者、6編で上野公園や西洋料理店などを紹介している。本文には「肉の流行は、汽車に乗り、命令をつたえるより速やかに広まっている。」とあり、肉食が爆発的に庶民に広がった様子を伝えている。

V. 上流階層における西洋料理の普及

イエズス会編 ; 村上直次郎訳『イエズス会士日本通信』雄松堂、1968年
請求記号:【Qfc:314:1, Qfc:314:2

 16世紀に布教のため来日したイエズス会宣教師たちによる報告書をまとめたもの。このうち、「一五五七年十月二十八日〔弘治三年十月七日〕付、パードレ・ガスパル・ビレラが平戸よりインドおよびヨーロッパの耶蘇会のパードレおよびイルマン等に送りし書翰」の中で、復活祭において日本人信者に「(牛)肉とともに煮たる米」を供したというエピソードが紹介されている。

<抄訳>
その日は大いなる祝日であったため、約400人のキリシタン一同を食事に招いた。ただし多くのキリシタンはすでに去り、山口のキリシタンは来ない者が多かった。この食事のために私たちは牝牛一頭を買い、その肉とともに煮た米を彼らに振る舞ったが、みんな大いに満足して食べた。

p.131

司馬江漢『江漢西遊日記』平凡社、1986年
請求記号:【0800:12:461

 江戸時代の蘭学者である司馬江漢(しば・こうかん 1747-1818)によって記された日記の翻刻版。浮世絵師でもあった江漢自身による挿図も収録されている。天明8(1788)年10月26日には、長崎の宿で牛の生肉を食したことや、オランダ人が牛肉を裁く手順が書かれている。他にも豚肉を煮たものを食べて「至ってうまし」と評するなど、オランダ人の生活圏内では江戸時代になっても西洋料理を食べる文化が続いていたことがわかる。

<抄訳>
天明8年10月26日
(略)宿へ帰って牛の生肉を食う。味は鴨のようであった。近頃オランダは出船前のため、牛をたくさん殺して塩漬けにしている。その牛はどれも赤牛である。オランダ人は鉄槌で牛のひたいを打ち殺す。また四足をしばり、横にしてのどを切り殺す。それから後ろ足をしばり、車で引きあげると、口から水が出る。足のところから段々と皮を開き、ことごとく肉を塩漬けにする。

p.117

合衆国海軍省編『ペリー提督日本遠征記』法政大学出版局、1953年
請求記号:【Qfc:158

 ペリー提督の訪日から日米条約の締結、そして帰国までの記録。提督やその部下の日誌、また報告等を編纂したもの。嘉永7(1854)に提督が日本の条約談判委員およびその随臣を米船ポーハタン号上に招き、西洋料理で饗応した際の記録では、招かれた日本人客が「魚肉も、獣肉も、家禽も、又シロップもスープも、果実も揚肉料理、焙肉も水煮も漬物も砂糖づけも、何もかもごっちゃにまぜて食べる」様子が記されている。

<引用>
提督は断然、日本人にアメリカ式のもてなしについて好印象を与えるつもりであったから、来るべき大宴会のために労をいとわず最も十分な用意をした。(中略)そこで彼はそのためにあらかじめ生きた牡牛、羊、猟獣や家禽等を保存しておいた。貯蔵した肉、魚、野菜、果物、よりぬき最上の酒等、普通の船倉の貯えで大宴会の用意に必要な物はすべて備えた。これらの豊富な材料は提督の料理頭の巧みな手際で殆どあらゆる種類の料理になり、目をひき食欲をそゝった。

p.276-277

<引用>
日本人の旺盛な食欲には、料理のえり好みとか、饗応の順序などには殆ど無とんちゃくで、又、魚肉も、獣肉も、家禽も、又シロップもスープも、果実も揚肉料理、焙肉も水煮も漬物も砂糖づけも、なにもかもごっちゃにまぜて食べる、実に驚き入った異端者たることを現していた。少しも惜まずに準備がとゝのえてあったので客人たちがたらふく食べた後に尚幾らか御馳走が残っていたが、その多くは日本人が例の風習に従って、持ち帰るために身体のどこかへしまいこんでしまった。

p.278-279

歌川広重(三代)『東亰名所内上野公園地不忍見晴図』早稲田大学図書館蔵、1876年

 3代目歌川広重(天保13(1842)年~明治27(1894)年)によって描かれた名所図の一つ。右奥の黒い屋根の建物が上野精養軒。

精養軒のおもな出来事

明治5(1872)年 岩倉具視の側用人である北村重威が馬場先門(現在の千代田区付近)に精養軒ホテルを開業する。
開店当日、「銀座の大火」により店舗が全焼する。
明治6(1873)年 采女町(現在の銀座付近)へ移転し、「築地精養軒」として本格開店する。
明治9(1876)年 上野公園の開場に伴い、支店「上野精養軒」が開店する。社交の場として重宝される。
明治16(1883)年 外務大臣井上馨の推進により鹿鳴館が完成する。夜会では精養軒の料理人が腕を振るう。
明治20(1887)年 外務大臣井上馨の辞職により鹿鳴館外交の幕が閉じる。
明治34(1901)年 新橋~神戸間の急行列車で食堂車を開業する。
明治41(1908)年 夏目漱石『三四郎』の作中に上野精養軒がしばしば登場する。
明治44(1911)年 銀座に『カフェー・ライオン』を出店する(後に大日本麦酒(株)へ経営が移る)。
大正3(1914)年 高村光太郎智恵子の結婚披露宴が築地精養軒で開かれる。
大正10(1921)年 平塚らいてうらの「新婦人協会」発会式が上野精養軒で開かれる。
大阪毎日新聞社特派員として中国に派遣される芥川龍之介の送別会が上野精養軒で開かれる。
大正12(1923)年 関東大震災により築地精養軒が焼失、上野精養軒が本店となる。
昭和11(1936)年 太宰治の処女作品集『晩年』の出版記念会が上野精養軒で開かれる。

VI. 家庭料理と洋食

敬学堂主人『西洋料理指南』(雁金書屋、1872年)『近代料理書集成 第1巻 西洋料理』所収 クレス出版、2012年
請求記号:【5900:110:1

 本書は明治期になり、はじめて刊行された翻訳西洋料理書である。妻や使用人といった、家庭において調理を行う者に向けて朝・昼・夕の食事について具体的なメニューが提案されている。

『西洋料理指南』における食事メニュー例

朝食 昼食 夕食
パンあるいはビスケット
牛酪(キユウラク)(バター)
半煮卵
冷肉
チヱー(現在のミルクティー)
パン
牛酪
牡蠣
脂煮の魚
雑部の魚
焼肉
野菜の部より2~3品
カヒーまたは茶・牛乳・砂糖
パン
牛酪
スープ
煮魚
雑の部より1品
煮肉あるいは焼肉
焙肉
野菜の部より3品
菓子
カヒー・茶・牛乳

復刻版『婦人世界』第1巻第8号目次(実業之日本社、1906年)『近代婦人雑誌目次総覧 Ⅱ期 第9巻 婦人世界』所収 大空社、1985年
請求記号:【Kk:203:9

 明治39(1906)年に創刊された婦人雑誌。『食道楽』の著者である村井弦斎が編集顧問を務めた。明治期以降変わりゆく生活様式の手引書となるような記事のほか、食や料理法に関する記事が散見される。

村井弦斎『食道楽』(秋)平凡社、1903年
請求記号:【明治文庫/Xx:33:秋

 報知新聞に明治36(1903)年から1年間連載された大衆小説。大食漢の主人公大原と料理上手なお登和の恋愛小説の体裁を取りつつも、その大部を占めるのは登場人物が語る料理の薀蓄や、和・洋・中630種類もの料理のレシピであり、大きな話題を集めた。
 連載後にまとめられた単行本は春・夏・秋・冬の各巻に分けられ、それぞれに色鮮やかな口絵が添えられた。本学が所蔵している『秋』の口絵は水野年方によるもので、「天長節夜会食卓の光景(帝国ホテル)」と題され、当時の華やかな社交の様子が垣間見える。

村井弦斎『食道楽』(上・下)岩波書店、2005年
請求記号:【0800:32:B/557/上, 0800:32:B/557/下

『食道楽』収録レシピの紹介
※ 一部標記を現代仮名遣いに改めました。

「牛の尾」のシチュー

  1. 牛の尾を骨の節から長さ3cmくらいずつに切り分け、骨の付いたまま水から4時間ほどゆでる。
  2. 別の鍋へバターを溶かし、小麦粉を焦げ目が付くまでよく炒めたら、刻んだタマネギを加え、きつね色になるまで炒める。
  3. 尾のゆで汁を1合と赤葡萄酒を1合加え、塩コショウで味を調える。
  4. 尾を加え1時間ほど弱火で煮る。
  5. 骨の付いたまま皿へ取り分け、パンを小さく切ったものをフライにして周りに盛り付けて出来上がり。

『食道楽(下)』p.194-195より作成

印度風のライスカレー

  1. 骨付きの鶏肉を3cmくらいに切り、バターを溶かしたフライ鍋で強火で炒める。
  2. 鶏肉を取り出して残った汁に再びバターを溶かし、ゆで卵を細かく切ったものを炒める。更に小麦粉、チャツネー、みじん切りにしたニンニク(あるいはタマネギとココナツ)、カレー粉を適量加え、よく炒める。
  3. スープを加えて薄めたら3~4時間ほど弱火で煮詰める。アクが浮いてきたら取り除く。
  4. 最後に新鮮なクリーム(あるいは牛乳)をお好みで加え、少し煮たら出来上がり。

『食道楽(下)』p.105-106より作成

VII. 海外渡航者の食日記

青淵漁夫[渋沢栄一]、靄山樵者[杉浦靄人]『航西日記』耐寒同社、1871年
請求記号:【明治文庫/貴X:45:1

 『航西日記』は渋沢栄一と杉浦靄人が慶応3年 (1867)年に遣欧特使だった水戸藩藩主徳川昭武(1853-1910)に随行して フランスを訪れた際の体験記である。ここでは渋沢がフランス汽船アルヘー 号に乗船した際に、船中の食事 について詳細に記述した箇所があり、肉や魚を調理した西洋料理や、コーヒーなどが提供されていたことがわ かる。

渋沢栄一(大江志乃夫訳)「航西日記」『世界ノンフィクション全集』14 [パネル]筑摩書房、1961年
請求記号:【PAe:126:14

[浜田彦蔵著] ; 明治文化研究會編『開國逸史アメリカ彦藏自叙傳』ぐろりあそさえて、1932年
請求記号:【Tsuchiya/V:931

 浜田彦蔵は、幕末に活躍した通訳、貿易商。播磨(兵庫県)に生まれ、アメリカに帰化してジョセフ・ヒコ Joseph Hecoと称した。アメリカ彦蔵ともいわれる。嘉永3(1850)年、栄力丸に乗船して江戸からの帰途海難にあい、漂流50余日でアメリカ船に救助され渡米、安政5(1958)年米国籍を取得した。
 本書は、当人の日記を元に上下二巻本に編纂された原著の英文自伝The narrative of a Japanese (上巻: 刊年不明、下巻: 明治28(1895)年)を翻訳刊行したものである。

浜田彦蔵日記
[アメリカ彦蔵著] ; 中川努, 山口修訳『アメリカ彦蔵自伝』1[パネル]平凡社、1964年、56-61頁
請求記号:【0800:12:13

栄力丸乗組員の肖像
『The illustrated news』Jan. 22, 1853 University of Texas at Austin 所蔵 [パネル]H.D. & A.E. Beach, 1853
本学所蔵なし

 アメリカの絵入り新聞『Illustrated news』は、1853年1月22日付の一面全体に、日本の漂流船「栄力丸」乗員17名の肖像を掲載した。彼らはこの時すでに東インド艦隊に同乗し帰国の途に就いていたが、滞米中に銀板写真が撮影されており、肖像画はそれを元にして描かれた。
 上段左から、民蔵(TAMETHO)、彦蔵(HECOTHO)、万蔵(MONTHO)、次作(GEESAHKOO)、中段左から、清太郎(SIMPAY)、岩吉(EWATHO)、仙太郎(SIMPATCH)、与太郎(DREHECHO)、喜代蔵(KEOTHO)、亀蔵(COMMETHO)、徳兵衛(KECHETHO)、下段左から、浅右衛門(AHSAHGODRO)、亀蔵(中段6人目と重複)、京助(SAYPATCH)、幾松(EKOTHO)、甚八(JIMPATCH)、安太郎(YASATAHRO)、長助(CHONOWSKI)である。

村垣淡叟著 ; 芝間 [チカ] 吉編纂『萬延元年第一遣米使節日記』日米協会、1918年
請求記号:【明治文庫/貴X:54

 村垣淡路守範正は、江戸末期の幕臣。日米修好通商条約批准書交換のため幕府がアメリカへ派遣する使節団、新見正興一行の副使を拝した。万延元(1860)年、米国軍艦ポーハタン号にて太平洋航路で出港、ワシントンで批准書を交換し大統領と会見の後、大西洋航路をとりナイアガラ号で帰国した。
 本書は、この間の出来事を詳細に書き記した公務日記の複製である。

村垣範正日記
村垣淡路守範正[著] ; 川村善二郎訳「遣米使日記」中野好夫 [ほか] 編『世界ノンフィクション全集』14[パネル]筑摩書房、1961年、251頁
請求記号:【PAe:126:14

[挿絵] 一行華府ウィラード・ホテル着食事
村垣淡路守範正著 ; 阿部隆一編 『遣米使日記』[パネル]文學社、1943年
請求記号:【Tsuchiya/I:850A

 万延元(1860)年閏3月25日、遣米使節一行は華府ワシントンに到着し、客舎のウィラード・ホテルで歓迎の宴に列席した。「立派成る饗應、例の酒肉をすすめけり」と、西洋料理でもてなしを受けた旨が記されている。

靑木梅蔵日記(PDF:142KB)
尾佐竹猛著『夷狄の國へ : 幕末遣外使節物語』[パネル]萬里閣書房、1929年、288-289頁
※引用文は、適宜現代表記に改め句読点を補いました。
請求記号:【Tsuchiya/IV:2241

 靑木梅蔵は、横浜鎖港交渉を目的とする遣仏使節、池田筑後守一行に随行した理髪師である。
 文久3(1864)年、一同は仏国公使が呼び寄せた軍艦ル・モンジュ号で横浜から上海に向け出港したが、船中の賄いは全て先方が用意する西洋料理であった。

VIII. 映像資料

荻上直子(監督・脚本) ; 飯島奈美(料理監修)「かもめ食堂」バップ、2006年

 単身フィンランドに渡りヘルシンキで開店したサチエ(小林聡美)の食堂が、満席の日を迎えるまでの物語。登場するのは、世界地図でヘルシンキを指さして訪れたミドリ、エアギター選手権に感動してフィンランドを訪れたマサコ、日本のサブカル好きな青年トンミ、コーヒー・グラインダーを盗みに来る男、わら人形を使って夫を取り戻す女など、少し風変わりな人々。
 和食にこだわる「かもめ食堂」でサチエが作るのは、おにぎり・鮭の塩焼き・肉じゃが・卵焼き・とんかつ・鶏のから揚げ・豚肉の生姜焼きと、何の変哲もない家庭料理の品々である。この食堂のメニューには、「昔からある和食」と「洋食」が自然と溶け合わさっている。

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