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平成21年度 企画展示
「一橋大学の歩み : キーワードで知る学園史 」

コラム 

[コラム1] 商法講習所の学生たち

開校当初(1875年)の商法講習所には、年齢や服装など様々な学生が集まっていたが、学生の気風はおおむね二つの型に分かれていたという。一つは質朴粗野な書生風、もう一つは商家出身の町人風であった。質素で意気盛んな書生派に対し、商人派は「着流しに前垂れがけ」の服装で「丁稚(店の小僧)に弁当箱を持たせ」て通学するなど、若旦那然としていたようである。書生風の学生はまだ少数派で、商法講習所に流れる空気は商人風だった。

10月の恵比寿講(商売繁盛を祈念して恵比寿神を祭る行事)には学校が休みになるなど、江戸時代の町人的な雰囲気を残していたという。

参考: 酒井龍男編『一橋五十年史』東京商科大学一橋會、1925年

[コラム2] 大学昇格運動 

制度上、高等商業学校(1887-1902)は専門学校であったが、商業教育機関としての充実に伴い、大学と同格になりたいという思いが学生たちの間に湧き上がっていった。その意思はしばしば東京帝国大学、及び予備門の第一高等学校(共に東京大学の前身)への対抗心となって現れた。とりわけ一高とのボートレースは大変な盛り上がりを見せ、両校応援団の過熱のあまり、1890年に対抗戦が中止されてしまった。

1902年には全学的組織である一橋会(ケース11参照)が発足し、機関誌『一橋会雑誌』には学制のあり方についての投書が頻繁に寄せられた。上野の韻松亭で催された「投書家懇親会」には校内の論客が集まり、大学昇格をめぐる議論の場としての役割を果たしていく。「ベルリン宣言」で商科大学設立の必要を訴えた福田徳三もしばしば出席し、名演説で学生たちを沸かせた。

参考: 一橋大学学園史編纂委員会編『一橋会資料集 : 明治35年〜大正9年3月』 一橋大学学園史編纂委員会、1986年

[コラム3] 申酉事件下の学生たち 

申酉事件で総退学を毅然と決議した学生たちであったが、その心中は決して穏やかではなかった。「校を去るの辞」を読み上げて母校を離れた彼らは、近隣の店に集って悲憤を紛らわせた。店の主人は「平素、比較的静かな紳士的の高商学生にしては珍しく活気を呈していました」と語ったそうである。一方で、田舎に帰って教員にでもなろうか、と失意のあまり弱気な声を漏らす者もいた。

一橋会は学生たちを統括するため、神田の青年会館を借り受け、当局との交渉や学生間の連絡確保に努めた。この仮事務所には早稲田大学、明治大学、東京帝国大学などの有志学生から慰問状が寄せられた。

学生たちの復学のため、商議員代表の渋沢栄一は「実業教育という事は30年前は甚だ冷淡であった」と母校が一朝一夕に出来たものではないことを述べ、早まって将来を犠牲にしてはならないと諭した。説得の甲斐あって学生たちは復学し、文部省は専攻部の廃止を撤回した。

参考: 「一橋申酉誌」(東京高等商業学校一橋会『一橋会雑誌』第128号付録、1917年)

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