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平成21年度 企画展示
「一橋大学の歩み : キーワードで知る学園史 」

出品資料 

I. ホイットニー先生の来日 

大久保一翁宛て森有礼書簡、1875(明治8)年8月10日

1875(明治8)年8月3日にホイットニー一家が横浜に到着した旨を、森有礼が東京府知事大久保一翁に知らせた書簡。商法講習所の開設に際して森がしたためた文書としては、現存する唯一である。1957(昭和32)年秋、当時本学商学部教授であった片野一郎が東京の古書店で入手し、寄贈した。

愈御清穆奉恭賀候
陳者兼厚ク御配慮之
商法学教師米利堅人ホウヒツニー氏
去三日横浜着相成申候
就而者今日中御庁舘或ハ貴宅ニ於て
一寸拝晤相願度
御支之有無
並ニ時刻等伺度匆々如此頓首

八月十日          森有禮
大久保明府

【現代語訳】

ますますご清栄のことと謹んでお慶び申し上げます。
かねてより厚くご配慮いただいている
アメリカ人商法学教師のホイットニー氏が
去る3日横浜に到着しました。
つきましては今日、御庁舘かあなた様の家で
ちょっと会っていただきたく存じます。
差支えがないか、
またお会いいただける場合は、時刻についてもお伺いできれば幸いです。

歌川広重(3世)「東京名所之内銀座通煉瓦造 鉄道馬車往復図」に見る銀座煉瓦街の様子
東京都編『銀座煉瓦街の建設:市区改正の端緒』1955(昭和30)年 掲載

鈴木吉兵衛の鯛味噌屋「きのくにや」
野田幸内編『東京諸商業繁栄録』開成社、1883(明治16)年 国立国会図書館所蔵

その2階に商法講習所の尾張町仮校舎が開かれたと伝聞する、鈴木吉兵衛の鯛味噌屋の図。同図絵が掲載された『東京諸商業繁栄録』は東京府下の諸商家の住所・姓名・商品名を網羅した書であり、鈴木の鯛味噌屋は「味噌之部」に分類されている。

だがこの鯛味噌屋は商法講習所の開所届にある番地と1番違いの22番地であり、この地に出店したのは1877(明治10)年末から1878年初頭と見られている。結論として、尾張町仮校舎は「鈴木吉兵衛の鯛味噌屋」の2階には存在しえず、これに先んじて存在した別の鯛味噌屋の2階であったか、あるいは木挽町校舎に移転して後に尾張町に出店した鈴木の鯛味噌屋と混同されたと思われる。

なお『東京諸商業繁栄録』は国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」(http://kindai.ndl.go.jp) にて全文が公開されている。

内国勧業博覧会売物店主 鈴木吉兵衛 金花堂の広告 (上)
『東京日日新聞』1877(明治10)年10月25日付

尾張町に開店した 鈴木吉兵衛 金花堂の広告 (下)
『朝野新聞』 1878(明治11)年2月6日付

鈴木吉兵衛は和歌山県の出身で、明治10年8月21日から11月30日にかけ上野公園を会場に開催された第1回内国勧業博覧会の出品者であった。『明治十年内国勧業博覧会出品目録』和歌山県の箇所には、「有田郡湯浅村鈴木吉兵衛」が金海鼠(きんこ)味噌と金海鼠糖を出品した記録がある。博覧会期中は会場表門の前に「博覧会場附属売物店」が並び、そこで展示品と同じ物を売ることができた。上の広告は、鈴木吉兵衛が自身の売店を宣伝したものである。この後で鈴木は上京し、銀座尾張町に店舗を構えたと考えられる。

下の広告は尾張町出店以後のもので、内国博覧会に出品したところ大変好評であったため開店の運びになったと書いてある。したがって鈴木吉兵衛が尾張町2丁目22番地に店を持ったのは、明治10年12月から明治11年2月6日のあいだと考えられる

 

II. 商法講習所 

福澤諭吉「商学校ヲ建ルノ主意」 全文
1874(明治7)年11月1日
原本は国立公文書館所蔵、17.8×11.9cm

駐米弁務公使の役務(1870-1873)を終えて帰国し外務大丞となった森は、1874(明治7)年10月に福澤諭吉を訪ね、商法講習所の設立趣意書の執筆を依頼した。これに応じて福澤は、翌月に趣意書を書きあげた。

福澤は日本の商業の遅れを手厳しく指摘した後で、しかし何事も最初から上達するわけではないので、商人はまず商法を懸命に学ぶところから始めよと説いている。アメリカの商法学士ホイットニーには、日本で商法を教授する意志があるので、富商たちがそれぞれ分相応の資金を出してくれるならば、森有礼と富田鉄之助がその実現のために尽くすだろうと締めくくっている。 続く「商法学校科目並要領」では、商法学校の生徒は、読み書きそろばんに精進することがいわれ、銀行、船問屋、製造品問屋からなる商業模擬実践にも言及がある。

商法講習所木挽町校舎 写真
1876(明治 9)年5月15日~1885(明治18)年9月21日

商法講習所は半年ほど尾張町仮校舎にあり、1876(明治 9)年5月15日に木挽町10丁目13番地の新校舎に移転した。校舎の様子について、ホイットニー門下で後に滋賀県立八幡商業学校校長になった倉西松次郎は、以下のとおりに証言を残している。

明治九年に移つた木挽町の校舎は、十丁目にあつてなんでも森有禮の私邸だつたと聞いている。今の精養軒のすぐ南で、木造の西洋造りだつた。表門は両開きになつていて校舎に行くまではかなり広い前庭で、校長矢野二郎先生が勢ひよく馬車を駆け入れたものである。門の向つて左側に控家があつて西田耕平といふ学校の書記さんが住まつていた。本館へ這入ると右に校長室があつたが、なにしろ広い建物だからそこに職員も書記も一緒に事務を執つていた。校長室を通り抜けると教室で、その二階が実践室、その脇が今でいふ講堂だつた。廊下を隔てて中二階の建増しがあつて、それが珠算室だ。珠算の先生は村林建蔵といつて、元蔵前の札差だつたがそれを矢野先生が引張つて来られた。校舎の裏手は運動場でその脇に一軒の西洋造りの家屋があつた。そこに米人ホイツトニーが家族連れで住んでいた。この家屋はホイツトニーの帰国の後、寄宿舎になつて十四五人の生徒が寄宿していた。むろん自分もその一人だつた。舎室は二十四五畳くらいで洋風の窓が並んでいて、その窓下に机を並べ、まあ勉強するといふ事になつていたが、なかなか自習などする者はない。なにしろ裏が広いので相撲を取つたり、走り回つたりしていた。 川上卯治郎編『八幡商業五十五年史』1941年、52頁。

森有禮『日本の教育』
Mori, Arinori. Education in Japan: a Series of Letters Addressed by Prominent Americans to Arinori Mori.
New York: Appleton, and Company, 1873.
上沼八郎・犬塚孝明編『新修森有禮全集』第5巻、 文泉堂書店、1997年、131-385頁

駐米日本代理公使になった森有礼は1872(明治5)年2月に、アメリカの有識者たちに教育の効果を問う手紙を出し13名から回答を得た。森が問うたのは一国の

i) 物資的繁栄、ii) 商業、iii) 農業と工業、iv) 国民の社会的・道徳的・身体的な水準、 v) 法律と政府に対し教育がもたらす効果であった。一般論以上の回答は戻ってこないなか、デイヴィッド・マレー David Murray (1830-1908) の 回答は目を引く内容で、彼を文部省学監として日本に招こうと岩倉具視らが決意した最大の根拠になった。ニュージャージー州のラトガース大学 Rutgers Collegeで教鞭を執っていた彼は、薩摩藩の留学生であった吉田清成、畠山義成、松村淳蔵らと交流があった。手紙では国際比較の視点が貫かれ、そのなかで日本の現状が記されている。 教育の商業に対する効果について述べた箇所では、商業面からみた日本の優位が挙げられている。肥沃な土地、整備された港と交通網がそれである。マレーによれば地理的条件はきわめて優位で、アジア大陸にしてアメリカの西海岸である日本はちょうど、ヨーロッパ大陸にしてアメリカの東海岸であるイングランドと同様に、唯一無二の位置を占めるのだという。これらの好条件を生かすには、商業的利益を追求する国民精神を養う教育が必要であると締めくくっている。

『ブライアントとストラットンの コモン・スクール用簿記 』
Bryant, H.B., H.D. Stratton, and S.S. Packard.
Bryant and Stratton's Common School Book-keeping.
New York: Ivison, Blakeman, Taylor & Co., 1861.

ブライアント Bryant, Henry Beadman (1824-1892)、ストラットン Stratton, Henry Dwight (1824-1867)、パッカード Packard, Silas Sadler (1826-1898) は共著で簿記書 3 部作を執筆し、本書は初級編に相当する。この後に中級編 Bryant & Stratton's National Book-keeping, 1860、上級編 Bryant & Stratton's Counting House Book-keeping,1863 が続く。これらの簿記書は「商業学校の教科書」を意図して作られたもので、複式簿記は厳密な理論に基づく「科学」であるという立場が貫かれている。同初級編では、一取引が日記帳 Day Book、仕訳帳 Journal、元帳 Ledger の順に転記されていく 3 帳簿制(イタリア式貸借簿記・ヴェネツィア式簿記)をとっている。

福澤諭吉訳『帳合之法』全4巻
慶應義塾出版局、1873(明治6)~1874(明治7)年

『ブライアントとストラットンのコモン・スクール用簿記 』の翻訳。使用された原書は、1871年版。原書の 2 部構成を踏襲し、単式簿記は「初編 一、二」に、複式簿記は「二編 三、四」に収録されている。複式簿記を扱う本邦初の書である点を考慮し、福澤は様々の工夫を凝らしている。簿記用語の訳出に関して、おもなものは以下の通り。

book-keeping「帳合」 debit 「借」 capital  「元金」 single-entry 「略式」(単記) credit 「貸」 interest 「利足」 double-entry 「本式」(復記)  account 「勘定」 exchange「為替」「両替」

数字の表記に関しては、原書にある横書きのアラビア数字を縦書きで表現するにあたり、0 (ゼロ)を使用した。これにより「縦帳への縦書き」という新しい記帳方法が可能になった。

展示は「初編 一」の凡例と、「二編 四」の平均表 (貸借対照表balance sheet)である。

「東京府商法講習所畧則」
1881(明治14)年

「商業模擬実践の図」
1881(明治14)年

同図絵は、「東京府商法講習所畧則」の裏面に描かれている。

1876(明治9)年8月、移転後間もない木挽町校舎の2階を模様替えし、教室内にバンク帳場、郵便局、銀行仲買、物品仲買が設けられた。商業実践では学生が一経営主体となり、商取引の模擬体験を通じて学習する。

III. ベルリン宣言 

石川巌ら8名「商科大学設立ノ必要」(ベルリン宣言) 全文
1901(明治34)年2月

通称「ベルリン宣言」として知られる「商科大学設立ノ必要」は、ヨーロッパ留学中の高等商業学校教員8名(署名順に、石川巌・石川文吾・神田乃武・瀧本美夫・津村秀松・福田徳三・志田鉀太郎・関一)によって1901(明治34)年1月末に起草された。

欧米では既存の商業高等学校より上位の、大学レベルの商業教育機関を求める動きがあると述べ、日本にも「事業の主宰となり商務の枢機に参ずるに堪ゆる人材」を養成する機関はないため、商科大学の設立は「刻下の急務」であるとする。

 なお同資料を含む『福田徳三関係資料』は、一橋大学機関リポジトリ(HERMES-IR)にて全文の閲覧が可能である。URLは、以下の通り。 http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/da/

石川文吾「商科大学問題に関する留学生一同の意見」
『東京高等商業学校同窓会会誌』第15号、
1901(明治34)年4月、39-44頁

『「商科大学設立ノ必要」(ベルリン宣言)の8名の起案者による「ベルリン会議」の様子を伝える通信文。議題は6つ。すなわち、
1. 高等商業学校より高等な商業教育機関が必要かどうか
2. もし必要であればどの程度の学校を設けるべきか
3. その学校は、今ある学校とどういう関係にあるべきか
4. その学校の学年・学科分類・入学資格をどう定めるか
5. 今ある高等商業学校をどう扱うべきか
6. こうした最高等の商業学校を実現化するにはどういう策を取るべきか。

1に関して満場一致で可決、2に関して「帝国大学と同程度」、3に関して「従来の大学内にさらに1科を加えて商科大学となす」とし、4に関して学年を制定しないが3年以上籍を置く、学科は「商業経営部」「銀行部」「交通部」「保険部」「商政部」とし、高等学校卒業生に限って無試験入学を許可するとしている。5に関して存続を認めるが、商科大学設立と類似の目的を持つ専攻部は廃止すべきとし、6に関して意見書を草し学科目時間割を付して、文部高等官・高等商業学校校長・その他官民の関係者に訴えるとしている。

「商科大学設立ノ必要」写、 学科課程案
『福田徳三関係資料』より、1901(明治34)年2月

ベルリンでの津村秀松、関一福田徳三、瀧本美夫 (左から順に)
芝村篤樹『関一:都市思想のパイオニア』 松籟社、1989(平成元)年 掲載

「商科大学学科及時間表」案
『東京高等商業学校同窓会会誌』第15号
1901(明治34)年4月、59-62頁 より作成

「商科大学設立ノ必要」と学科課程表案は、『東京高等商業学校同窓会会誌』に活字で掲載された。後者のドイツ語で書かれた学科課程表案は、「商科大学学科及時間表」と改められている。同表は、展示に際し見やすく再構成した。

IV. 申酉事件 

「校を去るの辞」
1909(明治42)年5月11日 起草

「総退学の宣言書」
1909(明治42)年5月15日

東京高等商業学校の専攻部廃止を 伝える『官報』
『官報』第7756号、1909(明治42)年5月6日

専攻部廃止の撤回を伝える『官報』
『官報』第8626号、1912(明治45)年3月25日

東京商科大学官制を伝える『官報』
『官報』第2297号、1920(大正9)年4月1日

V. 国立への移転 

「国立大学町」航空写真
1927(昭和2)~1928(昭和3)年頃
くにたち郷土文化館所蔵

国立駅舎と駅前広場、大学通り、旭通り、富士見通り、箱根土地(株)本社などが写った航空写真。中央線沿いの道路には電柱が立ち並び、東区には建物が建ち始めている。

大学西キャンパスには陸上競技グランド(1925年竣工)と兼松講堂(1927年8月31日竣工)が見えるが、附属図書館(1929年3月20日起工)と本科本館(同年9月30日起工)の工事は始まっていない。

町全体がうっそうとした緑に覆われている様子がよく分かる。緑が濃い時期の撮影であろう。

「国立の大学町鳥瞰図」
箱根土地(株)による商大関係者宛ダイレクト・メール 裏面
1925(大正14)年
くにたち郷土文化館所蔵

ダイレクト・メール裏面に描かれた国立の鳥瞰図。駅から左手に伸びる旭通り東側の地割りが現状と異なるが、鳥瞰図下段の説明文には駅前広場の面積、大学通りなどの幅員が明示されている。また開発地の名称は「国立の大学町」、鳥瞰図左下の「大学町交通図」でも単に「大学町」で、まだ「国立大学町」にはなっていない。

国立大学町分譲地「土地買受證」
1926(大正15)年5月10日付
一橋大学学園史資料室所蔵

文書中の「所在地」が北多摩郡谷保村ではなく、開発地の名称である「国立大学町」となっている。谷保村に代えて「国立大学町」が用いられている例は『一橋会会員名簿』にも認められる。また「府下国立大学町」で郵便物が届いたという住民の回想もある。

「国立大学町」の名称が決まった時期は詳らかではないが、佐野善作学長が堤康次郎に宛てた1924(大正13)年9月25日付の書簡で、経営地の名称などについて27日までに面談したいと申し入れているので、それ以降と考えられる。

文書中の「区画番号」は大学通り東側の場所だが、坪数1200坪は佐野書院と同じなので、佐野学長の自邸用地購入時のものと思われる。

「谷保村東京商科大学移転地ノ位置」
1925(大正14)年6月16日付「本学移転ノ件稟申」添付
一橋大学学園史資料室所蔵

大学が文部省に提出した移転認可申請書類に綴り込まれていた地形図。大学キャンパスの位置、大学通りが書き込まれている。

国立移転に関する文部省と大学との正式な手続きは1925(大正14)年6月から始まったが、大学は前年の2月に、箱根土地(株)との間で、箱根土地が「経営セントスル約壱百万坪ノ内」、大学が「取得セント欲スル地点役場台帳面約七万五千坪」を神田一ツ橋の土地と交換する契約を結び、文部省とも交渉が行われているので、この地図も前年に作られた可能性が高い。

青鉛筆で書き込まれたキャンパスの形状は現状と異なるが、この地図から、国立大学町の開発がキャンパスの位置決めから始まったことが分かる。

佐野善作・堤康次郎のあいだで交わされた土地交換「契約書」
1925(大正14)年9月9日付
一橋大学学園史資料室所蔵

大学と箱根土地(株)との契約書である。内容は、神田一ツ橋の大学敷地と国立大学町の大学敷地との交換に関すること(第1条から第5条)のほかに、多摩蘭坂から国分寺駅までの道路開削(第6条)、国立駅新設(第7条)、大学町の開発とインフラ整備(第8条)、石神井予科との連絡線の新設(現・西武多摩湖線) (第9条)、キャンパス周辺の扱い(第10条)などが定められ、第13条では、前年に結ばれた仮契約の失効が謳われている。

さらに大学は3日後の9月12日、この「契約書」の第7条と第8条に関する「覚書」を箱根土地と結んでいる。「覚書」では、駅前広場の面積や駅舎の造作、旭通り・富士見通り・大学通りとそれ以外の道路の配置と幅員、上下水道、電力供給について具体的に定め、箱根土地が「右之通実行可致」とされている。

契約書と覚書から、大学は、大学敷地の配置や分散したキャンパス間の連絡の便だけでなく、国立大学町全体にも意を用いていたことが分かる。

堤康次郎名義のビラ(上)と、同名義の 商大卒業生への招待状(下)
1925(大正14)年、1926(大正15)年
くにたち郷土文化館所蔵

ビラは飛行機から撒かれたもの。撒かれた時期は不詳だが、1925(大正14)年6月に行われたグランド開きの時のものか。

ビラと招待状にはそれぞれ、「我国最初のユニヴアシテー、タウン」「我国創始のユニヴァーシティタウン」とあり、国立が大学町として開発されたこと、大学町は日本初であることが謳われている。

箱根土地(株)による 商大関係者宛ダイレクト・メール
1925(大正14)年
くにたち郷土文化館所蔵

同ダイレクト・メールは、4つ折りにするとちょうど葉書サイズになる。裏面には「国立の大学町鳥瞰図」が掲載されている。

1924(大正13)年2月に大学と箱根土地(株)の間で交わされた覚書には、1925年末までに一般分譲に先立ち、商大関係者向けに優待分譲を行うことが定められており、それに基づいて送られたと見られる。一般分譲は翌1925年から始まっている。

VI. 籠城事件 

「籠城の声明書」
1931(昭和6)年10月6日 発表

籠城事件冩眞帖
1961(昭和36)年
一橋大学学園史資料室所蔵

井上準之助蔵相と会見した学生代表のひとりである藤本恒雄が、1961(昭和36)年12月、籠城事件30周年を機に往時の写真70枚複製して作成した写真帳。時系列に並べられた写真に付されたキャプションに加え、適宜挿入された「籠城事件日誌」により、緊迫した数日間の様子がよく伝わってくる。

本帳の最初には、根岸佶(元東京高等商業学校・東京商科大学教授)による「細心果決」の題字があり、桐箱の箱書は、当時の一橋大学長高橋泰蔵によるものである。

VII. 戦時下の一橋 

「出陣学徒壮行会」での東京商科大学生
1943(昭和18)年10月21日

1943年9月23日、理工系を除く学生に対する徴兵猶予が停止され、約10万の学生がペンに代えて銃を持ち、戦場へ赴くことになった。全国各地で出陣行事が行われるなか、東京では10月21日、文部省主催の「出陣学徒壮行会」が明治神宮外苑の陸上競技場で挙行され、折からの秋雨のなか、東京商科大学を含む東京周辺77校の出陣学徒2万5,000が参加した。

展示の2枚の写真は、競技場内および壮行会後に市内を行進する東京商大生を、毎日新聞社のカメラがとらえたものである。『一億人の昭和史3:太平洋戦争』(毎日新聞社、1976年)によると、右写真の撮影場所は、信濃町から四谷3丁目にかけてで、沿道で小旗を振っているのは四谷第二国民学校の児童である。

佐藤弘「Dark Age: 不況・思想弾圧・戦争」
『Hitotsubashi in Pictures』
一橋創立七十五周年記念アルバム委員会、 1951(昭和26)年、88-91頁

東京産業大学への改称を
伝える『官報』 『官報』第5312号、1944(昭和19)年9月27日

高瀬荘太郎「校名改称に就て」
『如水会会報』第242号、1944(昭和19)年、1頁

1944(昭和19)年10月より大学名が改められるのに先立ち、高瀬学長がその経緯を記した文章。この時点では、「単なる商業中心の大学たるよりは、寧ろ広く商、工、農の産業全体に亘る経済、経営、行政を中心とする大学たるの実質と使命を担うに至った」と説明しており、自発的かつ積極的な改称である旨が述べられている。

『東京産業大学一覧:自昭和十八年度 至昭和二十年度』
1947(昭和22)年11月発行

学年暦、沿革、大学関係法令、大学諸規則、諸統計、職員、在学生徒、卒業生、関係諸団体(一橋会、如水会など)に関して記した一覧。『東京商科大学一覧:昭和十七年度』と比較すると、大学関係法令の箇所で「官立商業大学官制」が「官立経済大学官制」に変更され、「実業学校令」に代わって「官立工業経営専門学校規定」が新たに定められている点が注目される。

昭和18年度はまだ「東京商科大学」のはずだが、『東京産業大学一覧』の収録範囲となっている。前号の『東京商科大学一覧:昭和十七年度』は1943(昭和18)年2月発行であるのに対し、『東京産業大学一覧』は1947(昭和22)年11月発行と遅れがあることや、毎年の発行が通例であった一覧がこの時期に限り3年度分をまとめて収録していることは、戦時中の混乱を示していよう。

米軍艦載機来襲により被弾した大閲覧室ランプシェードと薬莢
1945(昭和20)年2月17日

本学の兼松講堂や本部建物等は1945年(昭和20)に、中島飛行機を中心とした第一軍需工廠等に接収された。これは米軍の爆撃目標にされかねないことを意味していた。同年2月16・17両日にかけ米軍艦載機は関東・東海各地に来襲し、17日午前10時10分には附属図書館が機銃掃射された。人命を含め深刻な被害はなかったものの、米軍によって放たれた1弾が大閲覧室のランプシェードを貫通した。

貴重書の疎開に使用された木箱の設計図
[1944(昭和19)年]
附属図書館古書類(疎開関係)より

貴重書を運搬するための木箱は、第一軍需工廠として兼松講堂を使用していた中島飛行機 (株) に直接依頼して作成された。設計図は尺貫法による表記で、メートル法で換算すると、約75×42×27cm となる。欄外に記された寸法は一回り大きく、約90×45×30cm である。木箱は、形状・寸法ともに、同設計図に忠実に作成されている。貴重書を上伊那に避難させるため、こうした木箱が700から800箱も用意された。

貴重書の疎開に使用された木箱
[1944(昭和19)年ないし1945年]
附属図書館古書類(疎開関係)より

「ギルケ文庫其他(左右田文庫 札差記録) 疎開記録書」
1945(昭和20)年3月30日
附属図書館古書類(疎開関係)より

第1期第2回の貴重書疎開に際して作成された記録書。木箱と、それに詰められる図書の対応関係を記してある。同種の記録書は、第1期第1回のメンガー文庫の疎開に際しても作成された。

設計図に従って作成された木箱。寸法は、約75×42×27cmと設計図に正確である。「福田博士手稿」と書かれているが、福田徳三の手稿類を疎開させた記録は見当たらないため、戦後そのような二次的使用があったのではないかと推測される。

「第二回疎開ギルケ文庫其他帰着調査書」
1945(昭和20)年12月21日
附属図書館古書類(疎開関係)より

戦火を免れるため疎開していたギールケ文庫などが、戦後になり無事に戻された際のチェックリスト。同種のリストは、メンガー文庫に関しても存在する。なお、使用されているのは「東京産業大学」の用箋である。

国立駅から伊那駅までの鉄道路線図
『日本列島地図帖(東海大学情報技術センター編)』
(1984年刊行)【2910:146】No.29 より

「中央線及飯田線時間表」
[1944(昭和19)年ないし1945年]

VIII. 新制一橋大学 

「東京商科大学新制度化要綱」 全文
1947(昭和22)年12月15日 発表
『一橋大学学制史資料』第9巻、1986(昭和61)年、69頁

高島善哉「社會學部の生い立」
田中一幸編『Hitotsubashi in Pictures』
1951(昭和26)年、122-123頁

IX. 一橋のゼミナール 

「東京商科大学学則」
『東京商科大学一覧』、1921(大正10)年、88-89頁

今日のゼミナールの原型である「研究指導」は、大学昇格時に必修科目となった。1922年の学則改正で選択科目となるが、研究指導を履修しない学生は少数だったようである。「ゼミナール」という呼び名は愛称的なもので、ドイツ語に由来している。

ゼミナール生の回想
「ゼミナール素描」(『一橋のゼミナール』1983年)より

孫田ゼミナール 写真
『東京高等商業学校卒業記念写真帖』1926年

田中誠二ゼミナール 写真
『東京商科大学卒業記念写真帖』1941年

村松恒一郎ゼミナール 写真
『一橋大学卒業記念写真帖』1953年

X. 一橋の評判 

「東京高等商業学校」紹介文
博文館編集局編『官公私立諸学校 改訂就学案内』32-33頁
1904(明治37)年 (復刻版)

官公立・私立の諸学校を紹介する明治時代の学校案内書。各校の沿革・教育内容・入学試験・卒業生の進路などを詳しく解説している。

一橋大学の前身である東京高等商業学校(1902-1920)は商業・語学の教育に定評があり、実業界を志す者のエリートコースとして紹介されている。

卒業生は実業界のほかにも、海軍主計官や商業学校の教員等、語学と商業の知識を生かした分野で活躍していた。同書には希望する職業別の案内もあり、「外交官志望者に告ぐ」の欄では外交官試験の及第者が最も多い学校として本校が挙げられている。

明治時代後期から大正期にかけて、産業の発展に伴い商業教育の需要が増加していた。同書には「近き将来において商業大学の設けらるべしといふはもっとも確かなる事である。高等商業は必ず大学となるに違いない」(40頁)とあり、商業大学設立に向けて高まる気運がうかがえる。

昭和七ケ年間(本科予科専門部養成所) 入学試験問題集並解答集
一橋消費組合受験相談部編『東京商科大學入學要覽』
東京商科大学一橋消費組合、1933(昭和8)年

東京商科大学(1920-1944)本科・予科・専門部・教員養成所の受験を希望する者のために、理念・学則・募集要項等を紹介した入学ガイドブック。教授陣からのメッセージや部活動紹介、試験会場までの交通案内等も掲載されている。

附録の「入学試験問題集並解答集」は1926(昭和元)年から1932(昭和7)年までの各科入試問題と解答、および試験結果についての講評を収録している。

予科と専門部・教員養成所の入試問題は、おもに外国語(英・独・仏語から選択)、数学、国語(現代文・漢文)から成っていた。本科では数学か簿記かを選択することが可能で、国語に代わり論文が課せられた。上は昭和元年度の本科入試問題(簿記、論文)。

「一ツ橋(高等商業)出身者の活動方面」
錦谷秋堂著『大学と人物 : 各大学卒業生月旦』
国光印刷出版部、1914年、317頁
京都大学文学研究科図書館所蔵

大正時代初期の主な大学・専門学校における卒業生の活躍分野を紹介した冊子。

当時の実業界を「いやしくも第一流と称せられる企業の重役達は大抵慶應と赤門出を占めて居る。しかして支配人とか課長とかになると必ず高商派の有るに帰して居る」と評している。 一橋出身者の主な就職先として、三井物産や日本郵船などの貿易・海運業、銀行、保険業を挙げている。

XI. 部活動と一橋会 

第5回十大学対抗競漕(インターカレッジ)再度優勝記念絵葉書
東京商科大學一橋會端艇部、1925(大正14)年
一橋大学学園史資料室所蔵

1925(大正14)年9月26・27日に開催された、第5回十大学対抗競漕(インターカレッジ)での優勝を祝した絵葉書。1920(大正9)年の大学昇格後、第2回十大学対抗競漕(1921)で初優勝を果たした東京商科大学は、ボート界での黄金時代を迎えていた。

第5回インターカレッジの参加校は本学、大倉高等商業学校(現・東京経済大学)、慶應義塾大学、東京外国語学校(現・東京外国語大学)、東京高等工業学校(現・東京工業大学)、東京高等師範学校(現・筑波大学)、東京帝国大学(現・東京大学)、日本大学、明治大学、早稲田大学の10校だった。

決勝レースでは本学と明治大学のボートが接触する事態があった。審判長は明治大学がコースを外れたとしてファウル判定を下し、東京商科大学が優勝した。明治大学側から再レースの依頼もあったが、審判長の判定に背く例を残さないために実現されなかった。この接触レースは論争を呼び新聞紙上でも取り上げられたが、判定が覆ることはなかった。

絵葉書の写真はまさに決勝レースでの接触の瞬間をとらえている。

ほか3枚は、左から優勝した本学クルー、東京帝国大学との準決勝レース、補欠選手と応援団の様子。

本品は1968(昭和43)年8月に畑弘平氏より寄贈された。

庭球部の活動風景 写真
『東京高等商業学校卒業記念写真帖』、1905(明治38)年掲載

庭球部(1894年頃発足)は端艇部に次いで古い歴史を持つ運動部である。 テニスが日本にもたらされたのは1878年といわれ、安価な軟式ボールの出現によって日本人の間にも徐々に普及した。

一橋庭球部の対抗試合は、1898年に高等師範学校との間で行われたのが最初である。のちに慶應義塾大学、早稲田大学とも対抗戦が始まり、応援合戦とともに大きな盛り上がりを見せた。また1920年にウィンブルドンに進出した清水善三選手、1921年にデビス・カップ(男子の国別対抗戦)で活躍した柏尾誠一郎選手など著名な国際選手を輩出した。

英語部の劇上演風景 写真
東京高等商業学校卒業記念写真帖』、1914(大正3)年掲載

東京高等商業学校『一橋会雑誌』創刊号
1903(明治36)年3月

1902年に発足した一橋会は、従来の運動会・文化会を統合する一方で、全学的な事業を担当する新たな機関として「編纂部」と「研究部」を設けた。編纂部は学生の意思発表の場として雑誌を発行し、研究部は時事問題研究や演説会を行った。この編纂部によって1903年3月、初の全学的機関誌として『一橋会雑誌』が創刊された。

「発刊の辞」は、これから一橋会雑誌を「校風の源泉」とする決意を謳うとともに、「本誌の盛衰栄枯を制するものは、実に会員諸君なり」と、学生からの積極的な投稿を呼びかけている。当初は年3回発行だったが、投稿の増加に伴って隔月刊、月刊へと発行頻度を高めていった。

初期の誌面構成は、論説(学制・社会への意見)、学林(学術的記事)、雑録(随筆・紀行文)、文苑(創作小説・俳句・漢詩等)、雑報(最近のおもな出来事)、部報(部の活動報告)の各欄から成っていた。とりわけ論説欄への投稿は盛んで、学園のあり方をめぐる活発な意見が交わされた。ここから発生した投書家懇親会(ケース3のコラム参照)は、大学昇格運動の中で主導的な役割を担っていく。

東京商科大学への昇格を果たした1920(大正9)年、『一橋会雑誌』は第151号をもって終刊した。

内閣賞勲局が一橋会に贈った銀杯
1910(明治43)年3月16日

一橋会が1904-1905(明治37-38)年に行った寄付活動に対して、賞勲局から1910(明治43)年に贈られた桐紋の銀杯。
書状の現代語訳は以下の通り。

明治37-38年の戦役の際、報国の意をもって
出征軍人の家族・遺族および廃兵救護のために
帝国軍人援護会を経由して金605円余りを
寄附したこと、感心な行いなので、その賞のため
銀杯を一個下賜する。

「明治37-38年の戦役」は日露戦争を指すと思われる。寄付活動の記録は確認できないが、当時の『一橋会雑誌』(6号、1904年10月)には本校出身者の戦死を取り上げた記事がある。

賞勲局(1876年設置)は、内閣に属し勲位・勲章・褒章など栄典に関する事項を掌る官庁。1881(明治14)年の「褒章条例」により紅綬褒章・緑綬褒章・藍綬褒章が制定され、1918年には公益のため私財を寄付した者を対象とする紺綬褒章が追加された。これより以前は該当者に賞状または賞杯を授与していたとされる。

一橋消費組合の様子 写真
『東京高等商業学校卒業記念写真帖』、1919(大正8)年掲載

一橋消費組合(1912年設立)は学生の福祉増進を目的とする、一橋会の直属団体。食堂部と商品部から成り、食料品や教科書・学用品・制服などを安価で提供した。関東大震災後これに一橋互助会(1923年設立)が加わり、下宿先や学生職業(アルバイト)の紹介を行って、生活に苦しむ学生たちを援助した。

『一橋新聞』創刊号
1924(大正13)年6月15日

東京商科大学への昇格(1920年)後、一橋会は本科・予科・専門部の3つに分かれた。各科ごとに発行されるようになった『一橋会雑誌』に代わり、全学的機関誌としての役割を担ったのが『一橋新聞』である。

一橋新聞の前身は、関東大震災(1923)時に発行された『日刊一橋時報』である。地方在住者に状況を知らせるための緊急手段だったが、これが好評を博したことから、翌1924年に『一橋新聞』として創刊された。

震災後の発行は容易ではなかったが、新聞社に勤めていた卒業生の厚意により、全国紙の工場で『一橋新聞』を刷らせてもらったという。創刊号では「如水会先輩諸氏に白す」と題して、こうした援助への感謝を述べている。

『一橋新聞』は戦時下に発行の停止を余儀なくされたものの、戦後に復刊を果たした。現在も一橋新聞部によって刊行中である。2000年よりオンラインでも公開されている(http://www.hit-press.jp/)。

一橋会の解散を伝える一橋新聞
第313号、1940(昭和15)年9月10日

学生の自治を体現してきた一橋会は、リベラルな校風の象徴でもあった。1941(昭和16)年の解散は「積極的」と報じられるも、戦争の暗い闇を宿していた。その後学部・予科・専門部の各報国団が、翌年にはより軍事色の強い3科全一橋の報国隊が結成された。

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