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常設展示
ナルミノブンガク -鳴海文庫(鳴海完造氏旧蔵ロシア関係資料)より-

展示
日 程 2010(平成22)年7月13日(火)?
場 所 一橋大学附属図書館 公開展示室
入場時間 10:00?17:00(入場無料)(土・日・祝日・休館日は閉室)

鳴海文庫には、ロシア近代文学作品及び文献学研究書を中心に多様な資料が収められています。これらはロシア革命期から内戦終結後までの時代を反映する出版物で、その後は国外持出し禁止となったものを数多く含んでいます。

 今回の常設展示では、一橋大学附属図書館所蔵の鳴海文庫より、ロシア文学書の中から一般に馴染みの深い作品を中心に紹介します。(【 】内は附属図書館所蔵の請求記号です。)

展示パンフレット


1 鳴海文庫について 

鳴海文庫は、市井のロシア文学研究家であった鳴海完造(1899-1974)氏の旧蔵書のうち、一橋大学附属図書館へ収蔵された計4,392冊により構成されています。氏はモスクワやレニングラードに滞在中(1927-1935)にロシア近代文学作品及び文献学研究書を中心に多様な資料を収集しました。これらはロシア革命期から内戦終結後までの時代を反映する出版物で、その後は国外持出し禁止となったものを数多く含んでいます。特にロシア近代文学の先駆者ともされるプーシキンについては、『エヴゲーニイ・オネーギン』や『ボリス・ゴドゥノフ』などの主要著作の初版本ならびにその後の異本を含んでいるのが際立った特徴といえます。またゴーゴリやドストエフスキー、チェーホフといったロシア文学を代表する作家の諸作品も広範に集められています。
文学以外にもロシア史、社会思想史、民俗学関係の文献やパンフレットなどが含まれていますが、今回の常設展示では、氏が特に情熱を傾けて蒐集したロシア文学書の中から一般に馴染みの深い作品を中心に紹介します。

 

2 鳴海完造について 

1889年(明治32年)、青森県南津軽郡黒石町(現在の黒石市)に生まれる。実家は裕福な呉服商であったが、のちに没落した。鳴海は弘前中学卒業後、家業を手伝っていたが、当時翻訳が出版され始めたドストエフスキーを読んで感激し、ロシア文学を志す。1917年(大正6年)、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)露語学科に入学。1921年(大正10年)卒業。さらに早稲田大学ロシア文学科に籍を置いたが、一年あまりで中退し、故郷で英語教師の職に就いた。1927年(昭和2年)、同郷の先輩である秋田雨雀の秘書兼ロシア語通訳として、ロシア革命十周年記念式典出席のため訪ソ。そのままソビエトにとどまり、9年にわたって日本語教師などをしながら研究を重ねた。1936年(昭和11年)帰国。貿易会社の調査員などを務め、上海出張中に敗戦を迎えた。弘前大学図書館、東海大学図書館に勤務し、両大学でロシア語も教えた。1974年(昭和49年)12月、死去。75歳。
鳴海の蔵書は、ソビエト滞在時代に収集した文献に加えて、帰国してから晩年に至るまで弛まず、決して豊かとはいえない家計から相当額を割いて、ロシアの知人を通じて買い求めたものである。とりわけプーシキンにかかわる資料は貴重なものが含まれる。愛書家であるにとどまらず、語学的な関心は厳格をきわめ、なかでもロシア人名のアクセントについての調査は外国語学校時代以来終生続けられた。死後、蔵書の整理にあたった中村喜和・本学教授(現・名誉教授)は、膨大なコレクションを前に驚嘆するとともに、深い博識が世に知られないまま散逸することを惜しみ、鳴海が編纂した『ロシア・ソビエト姓名辞典』の刊行に尽力した。

 

3 作品紹介

【展示資料】

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プーシキン著、ベノワ画『スペードの女王』
А.С. Пушкин ; иллюстрац?и Александра Н. Бенуа. Пиковая дама. [Петроградъ], [1917] 【NARUMI/C3:1036】

賭博好きだったプーシキンが、友人の一家に伝わる奇談をもとに書き上げた短編小説 (1834年初版)。工兵士官の青年ゲルマンは、トランプ賭博で大金を手に出来る「三枚の勝ち札」の秘密をある老伯爵夫人が知っている、と耳にする。野心に取り憑かれた彼は、伯爵夫人の養女リザヴェータを利用して、強引に秘密を聞き出そうとするが…。優れた幻想小説として評価され、チャイコフスキーの作曲で1890年にオペラ化された。
プーシキン (Александр Сергеевич Пушкин, 1799-1837) は近代ロシア文学を代表する国民的詩人・作家。古い貴族の家に生まれ、若くして文壇の寵児となり、ロシア語の美しさを駆使した詩・小説を数多く残した。社交界でも華々しく活躍する一方、自由主義的な思想から官憲に監視され、美貌の妻をめぐる決闘事件によって夭折した(政治的陰謀という説もある)。
本品の挿絵を手がけたベノワ (Александр Николаевич Бенуа, 1870-1960) はフランス系ロシア人の画家で、舞台美術監督としても活躍した。プーシキン『青銅の騎士』の挿絵も手がけている。
鳴海文庫には『オネーギン』初版本をはじめ、プーシキンの著作・研究書が数多く所蔵されている。鳴海はロシアの古本街で『オネーギン』の初版本を発見し、何とか代金を工面して手に入れたという。


【展示資料】

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 【ゴーゴリ肖像画】

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ゴーゴリ 『鼻』
Н.В. Гоголь. Носъ : пов?сть. Москва, 1921. 【NARUMI/C3:321】

ゴーゴリの代表的な短編小説 (1836年初版)。八等官コワリョーフは、目覚めると鼻がなくなっていることに気づく。その鼻はなぜか人間の姿になって街を歩き回り…という奇想天外な変身譚。一説によると、ゴーゴリは自分の大きな鼻がコンプレックスだったという。
ゴーゴリ (Николай Васильевич Гоголь, 1809-1852) はウクライナの地主の家に生まれた。詩人を志してペテルブルクに上京するが評価されず、下級官吏として勤めながら創作を行った。故郷の伝承に題材をとった小説『ディカーニカ近郊夜話』(1831) がプーシキンに賞賛されたことから注目を集め、『狂人日記』(1835)『外套』(1842) などの佳作を執筆した。役人の腐敗を諷刺した喜劇『検察官』 (1836年初演) が物議を醸したことから海外での生活を余儀なくされ、長編『死せる魂』の執筆に励むが心身を病み、1852年に死去した。
庶民の生活を描いたゴーゴリはロシア自然主義の祖と称され、ドストエフスキーの初期の作品『貧しき人々』『虐げられた人々』に強い影響を与えた。
鳴海はゴーゴリの作品を積極的に収集し、『検察官』の初版本も購入した(早稲田大学演劇博物館所蔵)。


【展示資料】

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 【ドストエフスキー肖像画】

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ドストエフスキー 『罪と罰』
Ф. М. Достоевский. Преступление и наказание. Москва, 1929. 【NARUMI/C3:462】

ドストエフスキーの代表的な長編小説。貧しい青年ラスコーリニコフは、高利貸しの老婆を殺害し、その財産を社会のために役立てようとするが、偶然居合わせた老婆の妹も殺害してしまう。
ドストエフスキー (Фёдор Михайлович Достоевский, 1821-1881) は帝政ロシア末期の作家。処女作『貧しき人々』(1846) によって「新しいゴーゴリの出現」と絶賛されるが、社会主義運動に関わったことで逮捕され、シベリアへの流刑に処せられる。1859年に帰還し、雑誌「時代」「世紀」を刊行して活発な言論活動を展開。政府からの監視、持病、金欠などに苦しみながら、『地下室の手記』(1864)、『罪と罰』(1866)、『白痴』(1868)などの作品群を発表して大きな反響を呼んだ。その後も『未成年』(1875)、『カラマーゾフの兄弟』(1879) などの長編によって名声を博するが、1881年に病死した。
鳴海はドストエフスキーの『虐げられた人々』『白痴』などを読んで感動し、ロシア文学を志したという。


【展示資料】

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【劇場の半券】          【配役の切り抜き】

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チェーホフ 『桜の園』
А.П. Чехов. Вишневый сад : комедия в 4 действиях. Москва, 1929 【NARUMI/C3:1419】

チェーホフ四大戯曲の一つ。「桜の園」と呼ばれる美しい荘園に、領主のラネーフスカヤ夫人が5年ぶりに帰国する。しかし領地は既に抵当に入り、間もなく競売にかけられる運命にあった。実業家ロパーヒンは、桜の園を貸し出すように夫人を説得するが、為す術もないままに競売の日はやって来て…。没落していく貴族の哀歓を描き、ロシアで最も愛されている戯曲の一つ。
チェーホフ (Антон Павлович Чехов, 1860-1904) は雑貨商の三男として生まれ、モスクワ大学を出て医師となった。生家は決して豊かではなかったため、在学中から短編小説を執筆して家計を支えていた。開業後もコレラ防疫や社会活動に力を尽くしながら、短編『中二階のある家』(1896) などの佳作を発表。モスクワ芸術座にも関わり、戯曲『かもめ』(1896年初演)、『ワーニャ伯父さん』(1899年初演)、『三人姉妹』(1901年初演) の成功で名声を得るが、持病の結核が悪化し、『桜の園』(1904年初演) を最後の戯曲として永眠した。
鳴海はロシア滞在中、しばしば劇場にも招待され、観劇を楽しんでいた。
本品には劇場の半券と、配役を記した切り抜きが貼り付けられている。


【展示資料】

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アンナ・グルースキナ訳『万葉集』
Манъёсюё, перевод с японского, вступительная статья и комментарии А.Е. Глускиной, в 3-х томах, Москва, Главная редакция восточной литературы, 1971-1972 【NARUMI-D3-96】

アンナ・グルースキナ(Анна. Е. Глускина、1904-1994)は1922年にペトログラード大学の現用東方語学院で日本語を学んだ。1928年に日本に留学し、佐々木信綱に学ぶ。1937年には夫がソビエト当局からスパイの嫌疑をかけられたまま獄死するという悲運にも遭遇した。
本書はロシア初の『万葉集』の翻訳。枕詞や韻律の翻訳の是非についてまで周到に検討を重ねて訳語を吟味されており、翻訳の域を超えて、半世紀にわたる研究の成果と呼べるものであった。
鳴海は1927年に十月革命10周年式典に出席する秋田雨雀に随行してレニングラード(ペトログラード)を訪れ、グルースキナと会ったことがあった。「[グルースキナは]日本語が素敵にうまい」と鳴海の日記にある。
グルースキナ訳『万葉集』は三巻本だが、鳴海文庫には最初の二冊しか所蔵されていない。また、グルースキナによる古今集の抄訳も鳴海文庫は所蔵している。


【展示資料】

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マールコヴァ他訳『井原西鶴作品集』
Ихара Сайкаку, Новеллы, перевод с японского Е. Пинус и В. Марковой, Москва, Государственное Издательство Художественной Литературы, 1959 【NARUMI-D3-287】

西鶴の『好色一代女』と『好色五人女』の初めてのロシア語訳。『好色一代女』を訳したマールコヴァ(Вера Николаевна Маркова, 1907-1995)はグルースキナと並び、ペトログラード大学の現用東方語学院で日本語を学び、ロシアにおける第二次世界大戦後の日本の古典詩歌の研究翻訳をリードした女性研究者である。ロシアにおける日本文学研究は二〇世紀初頭からの長い歴史をもつが、初期の翻訳は小林多喜二等のプロレタリア文学が中心で、古典文学や近世文学の翻訳出版は1950年代を待たなければならなかった。
マールコヴァは鳴海がレニングラードで日本語教師をしていた時代の教え子で、鳴海の帰国後も親交を続け、鳴海のロシア関係書籍の蒐集を手伝った。また鳴海も、マールコヴァの求めに応じて日本で出版されている書籍を数多く贈っている。本書は日頃の親交への謝礼としてマールコヴァから贈られたもので、鳴海への献辞が書かれている。鳴海文庫には本書のほか啄木、近松、芭蕉などのマールコヴァの訳した書籍が所蔵されている。


【WEB展示資料】

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フレーブニコフ『海岸』フレーブニコフ友の会編
Морской берег, Москва, Изд. "Группы друзей Хлебникова", 1930 【NARUMI-C3-1382-19】

ヴェリミール・フレーブニコフ(Велимир Хлебников、1885-1922)はロシアの実験的な詩人で、いわゆる未来派の創始者のひとり。日露戦争前夜から革命の勃発へと向かう変転の時代にあって、西欧近代への不信を貫きつつ、アジアやアフリカについての神話学的研究にも学んで、唯一無比の、どこにもない世界を想像した。ロシア革命を称賛したが、その独特のイメージは、ソビエトの公式的な学説とはどうにも接合しないものであった。戦時共産主義末期のソ連にあって窮乏を余儀なくされ、原因不明の病気により37歳の若さで死亡した。
1930年刊行のこの手書きガリ版刷りの冊子は、フレーブニコフのよき理解者であり、共に未来派運動を先導したクルチョーヌイフ(Алексей Елисеевич Кручёных, 1886-1968)が編纂にあたったもので、フレーブニコフの詩「海岸」が収められている。表紙もアヴァンギャルドの画家イヴァン・クリュン(Иван Васильевич Клюн, 1873-1943)によるもの。
ごく小部数しか印刷されなかったであろうこの冊子は鳴海の徹底した蒐集癖を物語る。


【展示資料】

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ザミャーチン『蚤』
Блоха, игра в 4 д. Евг. Замятина, Ленинград, 1927 【NARUMI-C3-515】

エヴゲーニイ・ザミャーチン(Евгений Иванович Замятин、1884-1937)は、ボルシェヴィークとして革命運動に参加した後、1908年から造船技師として働き、1913年に『ある地方の物語』で世に出てからも、作家との二足の草鞋を履いた。1910年代後半には一躍文壇のリーダー格となったが、メタファー(隠喩)を駆使した幻想的・諷刺的作風がプロレタリア派の掲げるリアリズムと鋭く対立するに至り、1920年代から不遇をかこった。1922年頃執筆された代表作『われら』はアンチ・ユートピアの傑作と言われているが、スターリン体制を批判されているとみなされ、ペレストロイカを経た1988年までソ連邦内での出版が叶わなかった。
戯曲『蚤』は1924年に書かれた作品で、レスコフ(Николай Семёнович Лесков, 1831-1895)の短編『左利き』(1881年)を抱腹絶倒の笑劇に翻案したもの。ザミャーチンは1920年代に入って演劇に活路を見出したが、本作は中でも大成功を収めた。1925年の初演以来モスクワやレニングラード等で数年のうちに3000回余り上演されたというから、鳴海も観ていたかもしれない。また鳴海はレニングラードで日本語教師をしながらロシア文学研究を続けていた時代に、ザミャーチン本人とも会っている。



【主要参考文献】

  • 金田一真澄編著『ロシア文学への扉--作品からロシア世界へ』慶應義塾大学出版会、2007年【9800:197】
  • 久保英雄『歴史のなかのロシア文学』ミネルヴァ書房、2005年【9800:184】
  • 池田健太郎「偉大なる書痴 鳴海完造」、『文芸春秋』第53巻第10号、1975年10月【ZA:59】
  • 中村喜和『ロシアの風--日露交流二百年を旅する』風行社、2001年【2380:102】
  • 中村喜和「鳴海完造のロシア--訪ソ日記から」、柳富子編著『ロシア文化の森へ--比較文化の総合研究』ナダ出版センター、2001年【9000:256】
  • 田辺佐保子「プーシキンとロシアオペラ第3回『スペードの女王』」、『窓』(ナウカ)第111巻、1999年12月
  • 亀山郁夫『終末と革命のロシア・ルネサンス』岩波現代文庫、2009年【0800:85:B/150】
  • 稲田定雄「異国の女流ふたり--マールコヴァとグルースキナ」、『短歌』角川書店、1975年
  • アレクサンドル・A・ドーリン「ソビエットの日本文学翻訳事情--古典から近代まで」(last access:2010-06-28)
  • ★図書館で翻訳が読めます

  • プーシキン作、神西清訳『スペードの女王 ; ベールキン物語』岩波書店、2005年【0800:32:C/1072】
  • ゴーゴリ著、浦雅春訳『鼻 ; 外套 ; 査察官』光文社、2006年【0800:110:Aコ1/1】
  • ドストエフスキー著、亀山郁夫訳『罪と罰』光文社、2008-2009年【0800:110:Aト1/7-9】
  • チェーホフ作、小野理子訳『桜の園』岩波書店、1998年【0800:32:C/742】
  • ザミャーチン作、川端香男里訳『われら』岩波書店、1992年【030:1:C-645-1】

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