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常設展示
戦時下の一橋

展示
日 程 2009(平成21)年1月29日(木)?
場 所 一橋大学附属図書館 公開展示室
入場時間 9:00?16:00(入場無料)(土・日・祝日は閉室)

丸山泰男『戦争の時代と一橋:昭和12年1月?昭和20年8月』(1989年)によると、この8年間は、短いが明るい上田貞次郎学長の時期と、暗く長い高瀬荘太郎学長の時期に分かれるという。前者は白票事件(1935?1936年)が終結したのちで、学園は再建の意欲に満ち、世間は軍需による好景気に湧いた時期である。しかし上田学長が逝去し高瀬学長の就任する(1940年)ころ、東京商科大学にも戦争の不穏な足音が迫っていた。

一橋はいくつかの戦争を経てきたが、日中戦争から第二次世界大戦終結までをとくに「受難時代」、「最大難局」と呼んでいる。戦局の悪化のため学徒は動員、学園の建物は接収されたうえに、「東京産業大学」との改称に迫られたとき、東京商科大学は物心両面の存立基盤を揺るがされたのであった。 この時代を、1. 一橋会の解散(1941年)、2. 学徒動員(1943年)、3. 「東京産業大学」への改称(1944年) に分けて紹介する。

展示パンフレット


1 一橋会の解散

一橋会は1902(明治35)年に発足した、学生によるはじめての自治組織である。1920(大正9)年の東京商科大学への昇格後も会は継続し、1923年には本科・予科・専門部の3科に分立、1926年には社団法人化を果たした。学生の自治精神を体現、保障する同組織は一橋のリベラルな校風の象徴でもあり、1941(昭和16)年の解散は「積極的」と報じられるも戦争の暗い闇を宿していた。ここに学部・予科・専門部の各報国団が、翌年にはより軍事色の強い3科全一橋の報国隊が結成された。

決議

光輝ある伝統の六十有余年
教学の本旨に則り、建学の精神に従ひ、一橋は師弟協力して、其の国家的使命遂行に邁進す
而して時流滔々橋畔に来る
将に国家非常の秋、邦国の運命はかかりて吾人青年学徒の双肩にあり、顧みれば一橋は国士たる経済人が揺籃の学園
其の最高学府たる任、又極めて重し
依ってここに吾人は時代の本質的動察し、且又国家なる最高理念のもとに、以って積極的に大学の本質を昴揚し、現下の急務たる高度国防国家建設の一翼を担はんとす
ここに東京商科大学修練組織一橋会の結成を見たるは吾人の欣快にして、依って東京商科大学社団法人一橋会を解散
而して其の業たるや悉く同人の自覚、精進に俟つ
ここに吾人は相共に携へて、其の実を揚げん事を期す

昭和十六年二月十一日
東京商科大学社団法人一橋会

2 学徒動員

兵役法では満20歳の男子は徴兵検査を受けること、ただし専門学校・高等学校・大学などに在籍する学生には26歳まで徴兵猶予を与えることが定められていた。しかし戦局の悪化に伴いそのような特別措置を講じる余裕はなくなり、1941年10月には大学・専門学校・実業学校などの修業年限を3か月短縮して12月の繰上卒業とする勅令が出され、同月に一橋では学部、専門部の繰上卒業生の臨時徴兵検査が実施された。1942年には予科・高校を加え6か月短縮し、9月の繰上卒業との勅令が出された。

1943年には、「戦時学徒体育訓練実施要綱」「学徒戦時動員体制確立要綱」「在学徴集延期臨時特例」「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が立て続けに発表され、10月21日には明治神宮外苑競技場で、東条英機首相・岡部長景文相観閲のもと、都下77校の学生全員参加の学徒出陣壮行会が行われた。その4日後の10月25日から11月5日にかけ臨時徴兵検査が行われ、12月1日の入営となった。

出陣学徒壮行会の東京商科大学生 毎日新聞

1943(昭和18)年9月23日、理工系を除く学生に対する徴兵猶予が停止され、約10万の学生がペンに代えて銃を持ち、戦場へ赴くことになった。全国各地で出陣行事が行われるなか、東京では10月21日、文部省主催の「出陣学徒壮行会」が明治神宮外苑の陸上競技場で挙行され、折からの秋雨のなか、東京商科大学を含む東京周辺77校の出陣学徒2万5,000が参加した。

展示の2枚の写真は、競技場内および壮行会後に市内を行進する東京商大生を、毎日新聞社のカメラがとらえたものである。『一億人の昭和史3:太平洋戦争』(毎日新聞社、1976年)によると、右写真の撮影場所は、信濃町から四谷3丁目にかけてで、沿道で小旗を振っているのは四谷第二国民学校の児童である。

画像:最新展示

米軍艦載機来襲により被弾した大閲覧室スタンド傘と薬莢

1945年に、本学の兼松講堂や本部建物などが中島飛行機を中心とした第一軍需工廠等に接収された。これは米軍の爆撃目標にされかねないことを意味していた。米軍艦載機は1945(昭和20)年2月16・17両日にかけ関東・東海各地に来襲し、17日午前10時10分には附属図書館が機銃掃射された。人命を含め深刻な被害はなかったものの、米軍によって放たれた1弾が大閲覧室のスタンド傘を貫通した。

3 「東京産業大学」への改称

学徒動員が始まり、学園の建物も次々と軍部に接収されていき、一橋はその伝統をも奪い去られる危機に立たされた。軍需生産の重視と戦時統制下の商業軽視の風潮にあって軍部を中心に「商業教育無用論」が提唱され、商科大学は批判対象になった。1944年9月26日には「官立商業大学官制」が「官立経済大学官制」に改められ、官立の経済大学は東京産業大学(旧東京商科大学)と神戸経済大学(旧神戸商科大学)となった。ちなみに商学専門部は、「官立商業大学官制」の一部改に伴い、1944年4月「附属工業経営専門部」に改称された。

「官立経済大学官制」の名前からして東京経済大学との改称が求められたとも予想されるが、高瀬学長はこれを選択しなかった。産業大学の名を選んだ理由として、第1に軍需生産第一主義の精神にそぐうこと、第2に経済・経営・行政・技術の4科すべてに産業が深く関わっていること、第3に東京大学経済学部への吸収・合併を回避することがあったといわれている。高瀬はのちに、この改称は廃校を免れるための「窮余の策」であったと語った。

「東京産業大学」とは、1944年9月26日から1947年3月24日にかけてわずか2年半のみの名称であり、その後「東京商科大学」に復帰、1949年5月には新制「一橋大学」として歩みをスタートさせた。

高瀬荘太郎「校名改称に就て」『如水会会報』第242号、1944年

1944年10月より大学名が改められるのに先立ち、高瀬学長がその経緯を記した文章。この時点では、「単なる商業中心の大学たるよりは、寧ろ広く商、工、農の産業全体に亘る経済、経営、行政を中心とする大学たるの実質と使命を担うに至った」と説明しており、自発的かつ積極的な改称である旨が述べられている。

高瀬荘太郎(写真) 『Hitotsubashi in Pictures』一橋創立七十五周年記念アルバム委員会、1951年

「回想」と題する小文には、戦争を大義名分にして学生と校舎までもが奪われていった時代に、母校の伝統を守り抜こうと必死で闘った記憶が語られている。改称の理由については、「実は起死回生の窮策にほかならなかった」と書いている。

『東京産業大学一覧:自昭和十八年度至昭和二十年度』1947(昭和22)年11月発行

学年暦、沿革、大学関係法令、大学諸規則、諸統計、職員、在学生徒、卒業生、関係諸団体(一橋会、如水会など)に関して記した一覧。『東京商科大学一覧:昭和十七年度』と比較すると、大学関係法令の箇所で「官立商業大学官制」が「官立経済大学官制」に変更され、「実業学校令」に代わって「官立工業経営専門学校規定」が新たに定められている点が注目される。

昭和18年度はまだ「東京商科大学」のはずだが、『東京産業大学一覧』の収録範囲となっている。前号の『東京商科大学一覧:昭和十七年度』は1943(昭和18)年2月発行であるのに対し、『東京産業大学一覧』は1947(昭和22)年11月発行と遅れがあることや、毎年の発行が通例であった一覧がこの時期に限り3年度分をまとめて収録していることは、戦時中の混乱を示していよう。

画像:第二回疎開ギルケ文庫其他帰着調査書

「第二回疎開ギルケ文庫其他帰着調査書」1945年12月21日

戦火を免れるため長野県に疎開していたギールケ文庫などが、戦後になり無事に戻された際のチェック・リスト。同調査書には、「東京産業大学」の用箋が使用されている。

爆撃などによって大学の所蔵する貴重資料が失われることを危惧し、1945(昭和20)年、上伊那郡教育会図書館(長野県伊那町)武井方介方の生糸倉庫(長野県辰野町)を借り受け、図書館の貴重な蔵書を疎開させた。疎開は、3月10日、3月30日、6月15日の3回に分けられ、メンガー文庫18,602冊、ギールケ文庫9,858冊、左右田文庫6,509冊、貴重洋書5,000冊が運び出された。貴重書を安全に運搬するため、頑丈な木箱(大きさは90x 45.5x 30cmなど)を800近くも調達した苦労を当時図書館長であった山田雄三は回顧している(山田雄三「戦時中の図書館長」『如水会会報』第473号、1969年、4頁)。

【主要参考文献】

  • 丸山泰男『戦争の時代と一橋:昭和12年1月?昭和20年8月』如水会学園史刊行委員会、1989年
  • 一橋大学学園史刊行委員会編『一橋大学百二十年史:Captain of Industryをこえて』1995年
  • 一橋大学新聞部『一橋新聞』復刻版、不二出版、1988-1989年
  • 高瀬荘太郎先生記念事業会編『高瀬荘太郎』高瀬荘太郎先生記念事業会、1970年
  • 高瀬荘太郎「校名改称に就て」『如水会会報』第242号、1944年
  • 高瀬荘太郎、川島照三『春服』序文、大庭一郎追悼誌刊行会、1962年
  • 一橋大学学園史刊行委員会編『一橋大学学制史資料』一橋大学学園史編集委員会、1982-1994年
  • 田中一幸編『Hitotsubashi in Pictures』一橋大学内一橋創立七十五周年記念アルバム委員会、1951年
  • 山田雄三「戦時中の図書館長」『如水会会報』第473号、1969年、4-5頁
  • 一橋専門部教員養成所史編纂委員会編『一橋専門部教員養成所史』一橋専門部教員養成所史編纂委員会、1951年
  • 一橋大学学園史編纂事業委員会編『戦後と一橋』一橋大学学園史編纂事業委員会、1983年
  • 尾高煌之助「戦時体制下の学問と教育」如水会フォーラム第68期、2008年7月8日

【出品リスト】

  1. 一橋会の解散
    • 一橋会の解散を伝える一橋新聞 1940(昭和15)年9月10日 (第313号)
    • 一橋会解散の決議文(全文)1941(昭和16)年2月10日付 『一橋新聞』第323号、1941年3月10日
  2. 学徒動員
    • 出陣学徒壮行会の東京商科大学生 毎日新聞
    • 米軍艦載機来襲により被弾した大閲覧室スタンド傘と薬莢 1945(昭和20)年2月17日
    • 佐藤弘「Dark Age: 不況・思想弾圧・戦争」『Hitotsubashi in Pictures』一橋創立七十五周年記念アルバム委員会、1951年
    • 「戦没学友の碑」除幕式『如水会会報』第841号、2000年
  3. 「東京産業大学」への改称
    • 高瀬荘太郎「校名改称に就て」『如水会会報』第242号、1944年
    • 高瀬荘太郎(写真) 『Hitotsubashi in Pictures』一橋創立七十五周年記念アルバム委員会、1951年
    • 『東京産業大学一覧:自昭和十八年度至昭和二十年度』1947(昭和22)年11月発行
    • 「第二回疎開ギルケ文庫其他帰着調査書」1945年12月21日
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