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常設展示
幻視されるケルト

展示
日 程 2009(平成21)年7月21日(火)?2010(平成22)年12月27日(月)
場 所 一橋大学附属図書館 公開展示室
入場時間 9:00?17:00(入場無料)(土・日・祝日は閉室)

アイルランドは「伝説と文学の島」とも呼ばれ、古来より大陸から移り住んだケルト人たちの文化の息づく島でした。中世以降、イングランドの支配の下で、ケルト文化は表舞台から姿を消しますが、19世紀にアイルランドの政治的・社会的混乱が深まると、ケルト文化を復興しようとする気運が高まります。この運動の中で、W・B・イェイツらが歴史の彼方に透かし視たケルトの幻影は、同時代の人々に新たな「記憶」を与え、アイルランドのアイデンティティの再生を支えたのでした。

今回の展示では、一橋大学附属図書館所蔵の岸野文庫より、アイルランド文学の歴史とケルト復興運動に焦点を当てて、W・B・イェイツの初版本等を含む貴重な資料を紹介します。(【 】内は附属図書館所蔵の請求記号です。)

展示パンフレット


1 岸野文庫について 

岸野文庫は、一橋大学の前身・東京商科大学の卒業生(大正14年)で、詩人日夏耿之介の門下生でもあった岸野知雄(1901-1974)の寄贈資料と購入資料の合計1,366冊からなるコレクションである。アイルランド・英国文学および関係文献がコレクションの中心となっている。

 

岸野は大学卒業後株式会社三省堂に入社し、編集者として『ローレル英和辞典』などの企画編集に携わった。その一方で大学在学中より日夏に師事し、燕石猷(えんせき ゆう)の雅号で『古酒』や『眞珠母』などに詩を発表している。昭和46年に日夏が亡くなったときは葬儀委員、また『日夏耿之介全集』の編集委員も務めた。昭和49年に他界したが、その後3冊の詩集が遺族により出版された。うち1冊は英米詩の翻訳集である。昭和56年に遺族より旧蔵資料717冊の寄贈があり、さらに同年「一橋大学創立百年記念募金」から649冊を購入し、合わせて岸野文庫として附属図書館に収められた。

 

文庫は主に、文学および歴史学、民俗学などの研究書と、アイルランドや英国などの文学者の著書から構成されており、特に詩集は、W・B・イェイツの著作約130点(多数の初版本を含む)のほか、ウィリアム・ブレイク、ジョン・キーツ、オスカー・ワイルド、T・S・エリオットなど、ロマン派からモダニズムの作品まで幅広く含んでいる。また、ラファエル前派の中心人物であるD・G・ロセッティ、クリスティーナ・ロセッティ兄妹の詩集、関係書が40点以上含まれるのも特徴である。

2 アイルランド文学とケルト復興運動

アイルランド文学はその歴史を反映して、大きく2つの源流をもつ。一つは、7~12世紀頃に栄え、口承文学に起源をもつケルト人による文学であり、もう一方は、イングランドからの植民者とその子孫を主な担い手とする、アングロ・アイリッシュによる文学である。

ケルト人はインド・ヨーロッパ語族に属する民族で、紀元前200年頃までにはブリテン諸島を含むヨーロッパの各地に広がっていた。ローマ帝国の支配が始まると、多くはローマ文化へと同化していったが、アイルランドはローマの支配を免れ、独自のケルト文化を発展させた。ケルト人は当初自らの文字を持たなかったため、その文学表現は口承文学の形態をとった。その後キリスト教の流入とともに、ラテン語を借用して書き言葉としてのアイルランド語が成立し、それを使用して多くの叙事詩、物語が編まれた。当時の代表的写本として『ドゥン・カウの書』(Lebor na hUidre)や『レンスターの書』などが知られており、アイルランド語文学の白眉となっている。

アイルランドはその後12世紀にノルマン人の侵入を受け、長きに渡ってイングランドの支配の下に入った。17世紀にはオリヴァー・クロムウェルの遠征によってイングランドによる植民地化が進み、文学の世界でも、イングランド植民者とその子孫である「アングロ・アイリッシュ」と呼ばれる人々がその主要な担い手となった。彼らの多くは、アイルランド語ではなく英語で著述を行い、アイルランドとイングランドの狭間で独自の表現活動を行った。『ガリヴァー旅行記』などで知られるジョナサン・スウィフトは、イングランド植民者の息子であったが、アイルランド人としての立場からイングランドに対する辛辣な諷刺を行っている。

19世紀、英国への併合(1801年)や、1840年代のジャガイモ飢饉等で、政治・社会の混乱が深まると、アイルランドではナショナリズムが高まりを見せた。文学や芸術の分野でも、「ケルト文化」を復興することによって、アイルランドのアイデンティティを再構築しようとする「ケルト復興運動」Celtic Revival が、アングロ・アイリッシュの作家たちを中心に盛んになった。彼らは、ゲール語(アイルランド語を含むケルト系の諸語)の保存と復興を目指した「ゲール同盟」や、アイルランドの国民劇場である「アベイ・シアター」を拠点に多くの戯曲や文学作品を発表し、アイルランド人の民族意識の高揚を背後から支えた。

【展示資料】

画像:最新展示

A social history of ancient Ireland / by P.W. Joyce. Dublin : Gill & Son, 1920 【Kishino/210/K-4B:36(1)】

P・W・ジョイス『古代アイルランドの社会史』。古代アイルランドの政治、宗教、法律から交易、慣習、芸術までを概観した歴史書。P・W・ジョイスは歴史家で、他にもアイルランド語文法書や、ケルト古地名の起源に関する研究書など幅広い分野の著作を残しており、岸野文庫にも9点が収録されている。

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Fingal : an ancient epic poem, in six books : together with several other poems, composed by Ossian the son of Fingal / translated from the Galic language by James Macpherson. London : Printed for T. Becket and P.A. De Hondt, 1762 【Kishino/210/K-7:10】

ジェイムズ・マクファーソン訳『フィンガル』。古代の詩人オシアンによってゲール語の叙事詩にまとめ上げられたとされる英雄フィンガルの物語を、18世紀のスコットランドの詩人ジェイムズ・マクファーソンが英訳したもの。出版当初よりその真偽について激しい論争が巻き起こり、現在では、マクファーソンが自身の作品にゲール語の断片を織り交ぜたものとみなす学者も多い。真偽とは別に、その優れた作品性は大きな反響を呼び、ヨーロッパ各地で翻訳版が出版された。また、アイルランドでは古代・中世の古文書研究が盛んになるきっかけとなり、19世紀半ばの「オシアン協会」の設立に結びついた。イェイツのデビュー作であり、ケルト復興運動の端緒ともなった物語詩『オシーンの放浪』もオシアンを主題としたものであった。

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Gulliver's travels and selected writings in prose & verse / Swift ; edited by John Hayward. New York : Random House, 1934 【Kishino/210/K-6:394】

ジョン・ヘイワード編『ガリヴァー旅行記およびスウィフト著作選』。イギリスの批評家・編集者で、T・S・エリオットとの交友でも知られるジョン・ヘイワードによるスウィフト選集。前半は『ガリヴァー旅行記』を初めとした散文作品および書簡、後半は詩14篇からなっている。

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The educational pronouncing dictionary of the Irish language / compiled by Seamus O Duirinne and Padraig O Dalaigh. Dublin : Educational Company of Ireland, 1922 【Kishino/210/K-1:6】

『アイルランド語学習用発音辞典』。学生や旅行者などを対象に、日常的なアイルランド語語彙の意味と発音を調べられるよう、ポケットサイズに製本された辞書。約7,000語が収録されている。


3 イェイツと幻視されるケルト

ウィリアム・バトラー・イェイツ (William Butler Yeats 1865-1939)は、プロテスタント系アングロ・アイリッシュの詩人・劇作家。画家J・B・イェイツの子としてダブリンに生まれる。「ケルト復興運動」の中心人物の一人で、生涯に約80点の作品を残す。1923年、ノーベル文学賞を受賞。

イェイツは、ケルト文化の復興を論じた評論集『ケルトの薄明』の中で、アイルランド西部に伝わる伝説、神話、民話を紹介し、アイルランド精神の基底をなすケルト文化を明らかにしようとした。また、自らの詩作においても、自然信仰とそれに根差す神々と妖精(エルフ)のモチーフを好んで用い、神秘主義的な霊感に満ちた多くの作品を残した。イェイツのケルト観には、エルネスト・ルナン (Ernest Renan 1823-1892) やマシュー・アーノルド (Matthew Arnold 1822-1888) らの影響がしばしば指摘されるが、イェイツにとってのケルトの概念は、先人から育まれた深い憧憬の対象であると同時に、アイルランドの文化の統一を回復し、失われたアイルランドのアイデンティティを復興する有力な手段でもあった。『ケルトの薄明』の序説で述べられている「私は幻想の中でアイルランドの顔らしきものを描き出したい」という一節は、彼の目指すところを余すところなく伝えている。

プロテスタントを信仰するイングランド植民者の子孫でありながら、自らを「ケルト人」と呼んで憚らなかったイェイツによって幻視されたケルトは、アイルランドとそこに生きる人々のアイデンティティを再構築し、新たな拠り所を与えた。

【展示資料】

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Plays and controversies / by W.B. Yeats. London : Macmillan, 1923 【Kishino/210/K-6:502】

W・B・イェイツ『演劇と論争』。イェイツが文芸復興運動と並んで深く関わったアイルランド演劇運動についての文章と、アイルランドのナショナル・シアターであるアベイ・シアターの創設(1904年)前後に書かれた6つの戯曲からなる。肖像画はアメリカ出身の著名な肖像画家ジョン・サージェントの手になるもの。

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The cat and the moon and certain poems / by William Butler Yeats. Dublin : Cuala Press, 1924【Kishino/210/K-6:472】ほか

W・B・イェイツ『猫と月』ほか。Cuala Pressから発行されたイェイツの詩集の初版本。Cuala Pressは、イェイツの妹エリザベスによって1908年に設立された出版社で、出版を通じてケルト復興運動を支えることを目的としていた。1946年に活動を停止するまで、イェイツの著作48点を含む70点以上の作品を出版し、その多くは手刷りによる少部数発行の限定本である。


4 ケルトと幻想文学

ケルト復興運動において提示されたケルト像は、参照された資料の偏りや、ケルト=「神秘・幻想」というステレオタイプによって歴史家らの批判を受けたが、一方で後世の芸術、特に幻想文学を中心とした文学作品のインスピレーションの源ともなった。

ケルト文化を様々な形で咀嚼し、現代につながるファンタジーの基礎を築いた人物として、ロード・ダンセイニ(Lord Dunsany 1878-1957)、C・S・ルイス(Clive Staples Lewis 1898-1963)、J・R・R・トールキン(John Ronald Reuel Tolkien 1892-1973)の3人を挙げることができる。

ダンセイニは、ダブリン近郊にあるプランケット城城主で、イェイツらとの交流の中で、ケルト神話に影響を受けた数多くの戯曲や幻想小説を残した。代表作『ペガーナの神々』や『エルフランドの王女』は、以降のファンタジーの原型となり、ルイス、トールキンのほか、「クトゥルフ神話」で知られるH・P・ラヴクラフト、『ゲド戦記』で知られるアーシュラ・K・ル=グウィンらに大きな影響を与えた。

C・S・ルイスとJ・R・R・トールキンは、それぞれ『ナルニア国ものがたり』、『指輪物語』で現代ファンタジーの祖となった。二人は共にオックスフォードに学び、ルイスを中心とした文芸サークル「インクリングス」で、30年に渡って互いの作品を朗読し批評し合う間柄であった。彼らの作品は、ギリシアや北欧の神話などから幅広く着想を得ているが、ケルト神話からは妖精など重要なモチーフを数多く導入している。特にトールキンは、ケルト復興運動によって作り出された「ケルト的イメージ」と中世アイルランド語原典から得られる知識を区別した上で、自覚的にそれらを取捨しつつ自らの作品に取り込み、重厚な作品世界を構築した。

【展示資料】

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Plays of Gods and Men / Lord Dunsany. Dublin : Talbot Press, 1918【216:268】

ロード・ダンセイニ『神々と人間の戯曲』。1910年から13年にかけて執筆された4つの戯曲を収録。アラビアやバビロニア、エジプトを舞台にした異国趣味の濃厚な作品となっている。我が国における受容の歴史は古く、初版出版からわずか4年後の大正10年には、歌人松村みね子による全訳が刊行されている。

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The allegory of love / by C.S. Lewis. London : Oxford University Press, 1951【Kishino/210/K-3A:55】

C・S・ルイス『愛のアレゴリー』。寓話の表現形式が、中世の恋愛詩においてなぜ好んで用いられたかを論じた中世文学論。C・S・ルイスは、『ナルニア』をはじめとしたファンタジー作品以外にも、ケンブリッジ大学の中世・ルネサンス英文学教授として、文学、神学に関する専門書を数多く残している。


【主要参考文献】

  • 安藤聡「C・S・ルイスとJ・R・R・トールキン」『言語と文化』(愛知大学語学教育研究室)20、2009年 pp.55-68
  • W・B・イエイツ著 ; 井村君江訳『ケルトの薄明』筑摩書房、1993年(ちくま文庫)【3800:683】
  • 井村君江『ケルト妖精学』講談社、1996年(講談社学術文庫)【0800:34:1243】
  • 井村君江『妖精学入門』講談社、1998年(講談社現代新書;1419)
  • 海老澤邦江「イェイツの描いたケルト的風景」『エール』23、2003年 pp.135-137
  • 京都アイルランド語研究会編『今を生きるケルト : アイルランドの言語と文学』英宝社、2007年【8900:58】
  • 日下隆平「イェイツとケルト文化復興」『桃山学院大学総合研究所紀要』29(1)、2003年 pp.1-14
  • 日下隆平「W.B.イェイツとフォークロア」『英米評論』(桃山学院大学)19、2005年 pp.167-189
  • エドワード・W・サイード「イェイツと脱植民地化」『民族主義・植民地主義と文学』テリー・イーグルトンほか、法政大学出版局、1996年pp.79-114【9300:827】
  • 中央大学人文科学研究所編『ケルト復興』中央大学出版部、2001年【2330:130】
  • 鶴岡真弓『ケルト/装飾的思考』筑摩書房、1989年【Pc:905】【280:213】
  • 田文揚「アイルランド文学と文化に糾う二律背反性と互酬性」『経済文化研究所紀要』12、2007年 pp.3-31
  • 藤本黎時「象徴主義者W.B.イェイツと「アイルランド文芸復興運動」」『言語文化研究』(広島大学)17、1991年 pp.114-130
  • 辺見葉子「「ケルト」神話とファンタジー」『月刊言語』35(6)、2006年 pp.29-37【ZP:176】
  • 山崎弘行「ケルト復興運動と都市文化」『都市のフィクションと現実』芝原宏治ほか編、2005年 pp.201-211
  • ECG編集室編集『アイルランド : パブとギネスと音楽と』トラベルジャーナル、1998年

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