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¿『ドン・キホーテ』は本当に面白いか?

セルバンテス没後400周年を機会に古典を読んでみる

髙本善四郎氏助成図書コーナー 小展示 第38回
TZ〈ほんの窓〉 第38号 (2016.3.1)

1.読むからには通読しなければならない、という考えにこだわらず、寿司のようにつまんでみる。

 読んだことがなくてもなんとなく知っているような気分になっている、けれども実際に読んだ人は少ない有名作品。

 「世界の名著の知名度にひかれ、教養人としての義務感にせかれて誰もが一度は手を伸ばすドン・キホーテ」「しかし期待したほどのおもしろさではない」1)。無理して読む必要はありません2)。 「読書三昧(ざんまい)がたたって脳味噌がからからに干からび、ついには正気を失って」3)しまっても困りますし。

 徒手空拳で読破に挑むのは、風車に突撃する(前篇第8章)ようなものです。ガイドブック4)や注釈5)を参照すると、寿司に醤油やワサビを付けるように、味が断然違ってきます。

 店のメニューの全種類の完食を目指すが如くページの順に先頭から通読しようとして挫折する6)代わりに、各人の好みに応じて興味関心を引く部分だけ跳び跳びに、寿司のようにつまんでみると、おいしいネタがいろいろとみつかります。

 なお、専門家や高名な文学者の書いた解説でも、誤読や勘違い、訂正を要する不正確な情報がしばしば混在していますから、留意が必要です。

  1. 岩根圀和『贋作ドン・キホーテ : ラ・マンチャの男の偽者騒動』東京 : 中央公論社, 1997 (中公新書 ; 1395), p.ii【0800:25:1395】
  2. Bayard, Pierre(2007). Comment parler des livres que l'on n'a pas lus? ピエール・バイヤール ; 大浦康介訳『読んでいない本について堂々と語る方法』東京 : 筑摩書房, 2008【0100:563】
  3. Cervantes(1605). El ingenioso hidalgo Don Quijote de la Mancha. セルバンテス作 ; 牛島信明訳『ドン・キホーテ』前篇1. 東京 : 岩波書店, 2001 (岩波文庫 ; 赤721-1), 第1章よりp.46【0800:32:C/1016/1】
  4. 清水憲男『ドン・キホーテの世紀 : スペイン黄金時代を読む』東京 : 岩波書店, 1990【235:93】
  5. 注が特に豊富なのは、セルバンテス作 ; 永田寛定譯『ドン・キホーテ』正編1,2,3;続編1,2,3. 東京 : 岩波書店, 1948-1977 (岩波文庫 ; 赤721-1,2,3,4,5,6)(※続編3は高橋正武訳)【0800:32:C/794】
  6. 牛島信明「『ドン・キホーテ』は日本人にとって本当におもしろいか」. 牛島信明『反=ドン・キホーテ論 : セルバンテスの方法を求めて』東京 : 弘文堂, 1989, p.5-17【235:105】

2.「セルバンテスはシェイクスピアと奇しくも、同じ年の同じ月の同じ日に歿したのである」1)というのは誤解です。

 イギリスでは1752年までユリウス暦を使用していました。シェイクスピアの命日の1616年4月23日はグレゴリオ暦では5月3日にあたります。セルバンテスは4月22日金曜日に亡くなりましたが、彼の教区サン・セバスティアンの戸籍簿に記載された死亡の日付は、埋葬の日付のみを書きとめるという当時の習慣に従って、23日土曜日になっています2)

 「ああ、世にたぐいなき大胆不敵の気高き男子を物の見事に降したる騎士、この銀色の月に照らされて皓々たる騎士こそは、一個の仮装せる理髪師であった!」3)などと、得業士サンソン・カラスコを床屋のニコラス親方と混同したハイネの序文の頓珍漢を誰も咎め立てしてくれませんでした。ドイツの編集者も読んでいなかったとしか思えません。

 長い年月の間にいろいろな人々が、この究極のメタフィクションをめぐって、さまざまなことを書いてきました。

 「おそらく『ドン・キホーテ』は、それ自体の本質的な価値においてよりも、その並々ならぬ普及ぶりにおいて、より重要であるような書物の一つに数えられるであろう」4)

  1. 会田由訳『セルバンテス』東京 : 筑摩書房, 1972 (筑摩世界文學大系 ; 15), p.717-728「解説」よりp.725【9080:14:15】
  2. Canavaggio, Jean(1986). Cervantes. ジャン・カナヴァジオ ; 円子千代訳『セルバンテス』東京 : 法政大学出版局, 2000 (叢書・ウニベルシタス ; 689), p.446【9600:96】
  3. Heine, Heinrich(1837). ハインリヒ・ハイネ ; 山下肇訳「『ドン・キホーテ』の序」『世界批評大系』1「近代批評の成立」東京 : 筑摩書房, 1974, p.351-365よりp.352【9000:18:1】
  4. Nabokov, Vladimir; Bowers, Fredson(ed.)(1983). Lectures on Don Quixote. ウラジーミル・ナボコフ ; 行方昭夫, 河島弘美訳『ナボコフのドン・キホーテ講義』東京 : 晶文社, 1992, p.230【9600:71】

3.才智あふるる従士サンチョ・パンサ。鋭い洞察力や、ワインの利き酒の特技も持ち合わせています。

 (おつむ)に塩気がとてもちょっぴりな(de muy poca sal en la mollera)近所の農民サンチョを、(インスラ)の太守に取り立ててやる、と口車に乗せてドン・キホーテは従士に雇って遍歴の旅に連れ出しました(前篇第7章)。ところが、公刊された『ドン・キホーテ』前篇を読んだ公爵夫妻が、からかいのつもりで、けれども本当に、バラタリヤ島へ派遣してみると、法廷(さばきのにわ)で難題を次々に見事に捌いていきます。「その場の者はみな驚嘆し、自分たちの領主を賢王ソロモンの生まれかわりかと思ったのである。」「サンチョは、自分の村の司祭からこのたびの係争と同じような話1)を聞いたことがあり、おまけに、彼はなかなか優れた記憶力の持主だったのである。実際、彼がこれは覚えておこうと思ったところすべてを覚えていたとするなら、その島のどこを探しても彼ほど記憶力のよい者は見つからなかったであろう」(後篇第45章)。

 金持ちカマチョの婚礼では、恋敵バシリオの狂言自殺に一同すっかりだまされていたところへ、「この若い衆はうんとひでえ怪我をしてるにしちゃ」「えらくしゃべるだ」と逸早く指摘しました(後篇第21章)。

 「わしは利き酒ってものに、生れつきのするどい勘をもってるんで、 (にお)いをかぐだけでね、産地と種類、味と古さ、樽をかえた度数、そのほか、ぶどう酒に大事なことを、なんでも当てるだが、(てえ)したもんでがしょう。」「わしの血筋には、父方の方に、ラ・マンチャが長い年月のあいだに知った、利き酒の飛びきりの名人が二人も出てるだからさ」(後篇第13章)。

  1. Jacobus de Voragine. Legenda aurea. ヤコブス・デ・ウォラギネ著 ; 前田敬作, 今村孝訳『黄金伝説』1. 東京 : 平凡社, 2006 (平凡社ライブラリー ; 574), p.65-81「聖ニコラウス」【0800:36:574】

4.「ロシナンテ」は馬の名前です。驢馬ではありません。

 英単語 donkey の語呂に引きずられてか「ドン・キホーテ」を「ドンキー・ホーテ」と読み間違え、「ロシナンテ」を驢馬の名前と錯覚している人も多いかもしれませんが、Rocinante は驢馬ではなく、キホーテ殿(「ドン」Don +「キホーテ」Quijote)が痩せ馬に付けた名前です。驢馬に騎るのは従士サンチョ・パンサ。「大好きな仲間、苦労や難儀をともにした友だち」(後篇第55章)を単なる驢馬 asno 呼ばわりしたくなくて「いつも灰毛と呼ぶことにしてるんです」(後篇第33章)。この「灰毛」rucio (ルシオ)は普通名詞です。固有名詞としての名前ではありません。

セルバンテス作 ; 牛島信明訳『ドン・キホーテ』前篇. 1. 東京 : 岩波書店, 2001 (岩波文庫 ; 赤721-1)

 「自分は長い道のりを歩くことには慣れていないので、家で飼っているなかなか性質(たち)のよい驢馬(ろば)に乗っていくつもりだ、とも言った。驢馬と聞いたドン・キホーテは、しばらく考えこんだ。だれか遍歴の騎士で、驢馬にまたがった従士を連れていた者がいたかどうか思い出そうとしたのである。結局、いくら考えても、一人として記憶に浮かんではこなかったが、それでも彼は、サンチョの思いどおりに驢馬で行かせることにした。いずれ従士にもっと体裁(ていさい)のいい乗り物をあてがってやろう、つまり、そのうちに無礼な騎士に出くわすようなこともあろうから、出くわした最初の騎士から馬を取りあげてサンチョに与えればよかろう、と考えたからである。」(前篇第7章よりp.136-137)

5.マルクスが『資本論』で言及していたマリトルネスとはどんな人物か、および、その他の引用句の出典。

 「だから、生まれながらの水平派であり犬儒学派である商品は、他のどの商品とも、たとえそれがマリトルネスよりまずい容姿をしていても、魂だけでなくからだまでも取り替えようと絶えず待ちかまえている」1)

 「旅籠にはまた、顔が横に広くて首が短く、鼻はぺっちゃんこで片目がつぶれ、おまけに残った目もあまりきれいとは言えないアストゥリアス生まれの若い娘が、女中として働いていた。もっとも、彼女のいかにも愛敬(あいきょう)のあるしぐさが、こうした欠点を補っているのも事実であった」「そして心やさしいマリトルネスは、従士の疲労(ひろう)困憊(こんぱい)の様子を見てとると、この際彼に必要なのは冷たい水であろうと判断し、わざわざ井戸まで行って水差しに水を汲んできた」(前篇第16章)。

 「一本の歯はひと粒のダイヤモンドよりはるかに貴重」(前篇第18章)、「だらしのない衣服は、心のだらしなさの証拠」(後篇第43章)、朝礼の訓話に引用したくなるような台詞です。ただし、「ローマは一日にして成らず」の出典を『ドン・キホーテ』とするのは、英語からの重訳で紛れ込んだ誤り2)なのでご注意ください。

  1. Marx, Karl(1867). Das Kapital. マルクス ; 資本論翻訳委員会訳『資本論』第1巻a. 東京 : 新日本出版社, 1997, 第1部 資本の生産過程 第1篇 商品と貨幣 第2章 交換過程 より p.144【3316:118:1a】
  2. 高橋正武「ローマは一日にして成らず (研究ノート)」『朝日新聞』1983年11月25日 金曜日 夕刊, p.5【ZZ:5】

6.ドン・キホーテの博物誌。

 「まったく取得(とりえ)がないほど悪い本などありませんよ」(後篇第3章)、「読んでも悪くはないでしょう。だって、何かしらよいところのないほど悪い本などありませんからね」(後篇第59章)という台詞は、古代ローマの大プリニウスがいつもそのように言っていたものだ、と甥の小プリニウスが『プリニウス書簡集』3.5.10で伝えていることに由来します。

Nihil enim legit quod non excerperet; dicere etiam solebat
nullum esse librum tam malum ut non aliqua parte prodesset.

  • 弓削達『素顔のローマ人』東京 : 河出書房新社, 1975 (生活の世界歴史 ; 4)【2090:128】【Qd:454:4】

「というのは、彼は抜萃しないようないかなる本も読まなかったからです。そればかりか、如何なる本も、いずれかの部分において役に立つことがないほどに悪いものはない、といつも言っていました。」(p.217)

 ドン・キホーテは博識なので、さりげない会話の中にも、古典に典拠のあるエピソードがすらすら出てきます。

  • セルバンテス ; 堀口大学訳『ドン・キホーテ』東京 : 講談社, 1976 (世界文学全集 ; 6) 【9080:15:6】
    「あの異教徒め、(あじ)な細工をやりおった。海狸(ビーヴァー)を真似たというわけだ。海狸という奴、猟師においつめられ、進退きわまったと気がつくと、自分が何のために追いかけられるかを本能的に知っていて、肛門の近くにある貴重な薬品となる分泌物の入った袋を、自分で噛み切ってしまうというが、まさにあれじゃて。サンチョ、この兜を拾っておくがよいぞ。」(前篇第21章より p.179)
  • セルバンテス作 ; 牛島信明訳『ドン・キホーテ』前篇1. 東京 : 岩波書店, 2001 (岩波文庫 ; 赤721-1) 【0800:32:C/1016/1】
    「三九一 噛み切って置き去る——民間信仰によれば睾丸(こうがん)を噛み切ると考えられていた。ビーバーは高価な香水の原料となる鼠径部(睾丸ではない)からの貴重な分泌物ゆえに珍重され、捕獲されていた。」(p.430-431)
  • Plinius. Naturalis historia. 中野定雄, 中野里美, 中野美代訳『プリニウスの博物誌』1. 東京 : 雄山閣, 1986【Scc:334:1】
    ビーバー
    [109]四七  黒海地域にいるビーバーは危険に取り巻かれると、問題の器官を自己切断する。それは自分たちが狩られるのは医学名でビーバーオイルと呼ばれる、その器官の分泌物であることを知っているからである。」 (第8巻よりp.367)
  • Plinius. Naturalis historia. 中野定雄, 中野里美, 中野美代訳『プリニウスの博物誌』3. 東京 : 雄山閣, 1986【Scc:334:3】
    ビーバーから得られる薬
    [26]一三  同じように著しいものは、ビーバーのような、同じく水陸両棲の動物における自然の力である。これはカストルと呼ばれ、それの睾丸はカストレウムと呼ばれる。きわめて周到な薬物の研究家セクスティウスは、ビーバー自身は捕えられようとしているとき自分自身の睾丸を噛みちぎるといわれているのは嘘だと言っている。彼は言う、反対にその睾丸は小さくがっちり固まって脊柱に付着しており、その動物の生命を絶つことなしにはちぎり取ることはできないと。」 (第32巻よりp.1303)
  • 自然窮理家(Physiologos) 第23話 ビーバー(zoion kastor)について
  • Der Physiologus : Tiere und ihre Symbolik / übertragen und erläuter von Otto Seel. 2. Aufl. Zürich, 1967
    オットー・ゼール [訳・解説] ; 梶田昭訳『フィシオログス』東京 : 博品社, 1994 (Documenta historiae naturalium)
    p.70-72「23 ビーバー」
    「ビーバーと呼ばれる動物は、ひどくおだやかでもの静かだ。その性器は薬として使われる。ビーバーは、狩人に追いかけられ、自分を捕まえようとしているのに気つくと、性器をかみ切って放り出す。さらにほかの狩人に出会うと、かれは仰向けにころがるのだ。狩人はビーバーが性器を持っていない、と知ると、そのまま立ち去る。」(p.71)

    「1 ビーバーについて同じような話がアイリアノス(『動物誌』六・三四)、プリニウス(『博物誌』八 109〔邦訳一巻三六七頁〕)、ホラポロン(『ヒエログリュフィカ』二・六五)にある。キケロ ... (『スカウルスのための演説』九)、ユウェナリス ... (『風刺集』一二・三六)は、ビーバーが自分でからだを傷つけることを、すでに周知のこととして扱っている。」(p.71)

 ただし、民間の俗信に基づく内容は、科学的な事実とは必ずしも一致しません。

  • 会田由訳『ドン・キホーテ』前篇2. 東京 : 筑摩書房, 1987 (ちくま文庫)
    「自然科学者の説によると、白貂(しろてん)はまっ白な毛皮を有する小動物で、猟師がこれを捕りたいと思うと、こういう策略を用いるということだ。それは、白貂がいつも通ったり、よくやって来るところを調べておいて、そこらを泥でせきとめておき、それから獣を狩り出して、例の場所のほうへと追い立てる。白貂は泥のところまで来ると、泥だらけのところを通って、白い毛皮を台なしにしたりよごしたりするよりもと、立ちどまって捕えられるままになるのだが、これは自由や生命よりも、毛皮の白さを大事にしているからなんだ。しとやかでけがれのない女は、いわば白貂だよ、そして貞淑という美徳は、雪よりも白い純潔なものなのさ。」(前篇第33章よりp.120)

7.『吾輩は猫である』と同じくらい面白い。

   知っておくがよいぞ、サンチョ、東洋のインドに向けてカディスの港から乗り出したスペイン人やそのほかの国の人たちが、いま話した赤道を越えたかどうかを知る手だてのひとつはな、赤道を越えると、船に乗っておる人たちにたかっていた虱がみな死んでしまい、船じゅうどこを探しても、それこそ、金と取り換えようと言われても、一ぴきの虱も見つからなくなるという事実なのじゃ。だからな、サンチョ、お前も手をまわして(もも)のあたりを触ってみるがよい。まだ生きているやつにぶつかれば赤道はまだだということになるし、ぶつからなければ、もう越えたというわけじゃ。
(セルバンテス作 ; 牛島信明訳『ドン・キホーテ』後篇2. 岩波書店, 2001 (岩波文庫 ; 赤721-5), p.85-86【0800:32:C/1016/5】)

  後篇第29章の魔法の小船の冒険で語られるこの話は、滑稽小説という先入観で読んでしまうと、冗談か俗説のようにも見えますが、同時代のスペインの歴史家オビエド (Gonzalo Fernández de Oviedo y Valdés)は『インディアス博物誌摘要』 Sumario de la natural historia de las Indias(1526)の第81章で、「ある緯度の地点までくると、からだについていたシラミがいなくなり、帰国のおりには、おなじ緯度で、ふたたび、からだにシラミがとりつくこと」(ピエール=ジョゼフ・ビュショ ; 藤野邦夫訳『害蟲記』博品社, 1995, p.32)を指摘しています。

   『吾輩は猫である』の美学者迷亭たちのとりとめもない会話が、一見でたらめのように見せかけて実はいちいち古今東西の古典に出典があるのと同様に、 『ドン・キホーテ』の作中の数多の挿話も、博識な教養に裏打ちされた典拠をたどることができます。

   長くて退屈で読破できないと感じられるかもしれませんが、ページの順に先頭から通読しなければならない、という考えにこだわらず、夏目漱石『草枕』の「筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」という読み方に倣って、順不同で寿司でもつまむように跳び跳びに拾い読みすると、おいしいネタがあちこちに転がっています。

   一人の学生がマンサナーレス川の畔で本を読みながらからからと大爆笑しているのを、当時の国王フェリーペ三世が王宮の窓から眺めて、「あの男は狂っているか、それとも『ドン・キホーテ』を読んでいるのだ」と言った、というのは後世の作り話だそうですが1)、『ドン・キホーテ』は『吾輩は猫である』と同じくらい面白い作品です。

  1. Armas y Cárdenas, José de. Cervantes y el Quijote : el hombre, el libro y la época. Habana : La Moderna Poesía, 1905

一橋大学附属図書館 髙本善四郎氏助成図書コーナー「本の紹介」班

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