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保険の歴史(日本)

髙本善四郎氏助成図書コーナー 小展示 第36回 解説 (商学研究科教授 米山 高生)
( TZ〈ほんの窓〉 第36号 (2015.7.1) [pdf]

一橋大学は、戦前から保険会社に多くの人材を輩出してきました。現在でも、保険会社は人気の就職先のひとつです。このコーナーでは、先輩たちの軌跡をたどりながら、わが国の保険の歴史を中心に紹介したいと思います。

1 近代保険の導入 海上保険会社の出現

 海上保険は日本の近代化・工業化のためのインフラとして明治維新後に西洋から導入されました。日本最初の保険会社として、東京海上が明治12年(1879)に設立されました。続いて、日本海陸保険(1893)、帝国海上(1893)、そして少し後に日本海上(1896)が参入しました。先陣を切って、営業の拡大のために海外営業に進出したのは東京海上でした。日本海陸も東京海上に追随しましたが、両社とも最初は好調なすべりだしでした。しかし、しばらくすると大変な損失が生じていることが判明しました。折から、保険積立金の充実を求めた保険業法が1900年に施行されたことにより、海外業務をいち早く整理し、合理的な経営改革に努めていた東京海上が生き残り、対応が遅れた日本海陸は清算されることになりました。

 この時、ロンドン営業の整理にあたったのが、東京高商を首席で卒業した各務鎌吉(注1)でした。各務はその後、東京海上の支配人、取締役、社長として、わが国の損害保険業に大きな足跡を残します。業界第3位であった帝国海上は、村瀬春雄支配人(注2)のもとで慎重な海上保険営業を行っていたため破綻はしませんでしたが、営業規模は小さく、東京海上は、保険業法施行後において、海上保険のトップ企業として地位を着実に固めることに成功しました。

~展示資料~

  • 東京海上百二十五年史 - 東京 : 東京海上日動火災保険 , 2005.10 【Vqfb:2:5】
  • 東京海上八十年史 - 東京 : 東京海上火災保険 , 1964.4 【Vqfb:2:2】
  • 東京海上火災保險株式會社六十年史 - 東京 : 東京海上火災保険 , 1940.10 【Vqfb:2:1】
  • 東京海上火災保険株式会社百年史 上,下. - 東京 : 東京海上火災保険 , 1979.8-1982.3 【Vqfb:2:3-1】【Vqfb:2:3-2】
  • 東京海上ロンドン支店 / 小島直記著 上巻,下巻. - 東京 : 新潮社 , 1980.3 【VQb:60:(3)-1】【VQb:60:(3)-2】
  • 「各務氏の手記」と「滞英中の報告及び意見書」 / [各務鎌吉述] ; 稲垣末三郎編 - 東京 : 東京海上火災保険 , 1951.5 【He:119】
  • 平生釟三郎日記抄 : 大正期損害保険経営者の足跡 / 三島康雄編 ; 上, 下. - 京都 : 思文閣, 1990.5. 【Hb:213:上】【Hb:213:下】

2 火災保険会社の設立

 対照的に、火災保険の導入の最初の試みは公営保険でした。お雇い外国人のパウル・マイエット(注3)が、国営火災保険を提案しました。この試みは、政治的な理由により失敗しましたが、この際に作成された資料などをもとに、民間の火災保険会社設立の試みが行われたとされています。  この資料を利用したのは、柳川清助という人であり、その後、鵜殿長らと共に明治20年(1887)に、有限責任東京火災保険会社を設立しました。この会社は、主として民間の家屋を対象とした火災保険会社であり、十分な資本を持っていなかったことから、経営がうまくいかず、後に安田財閥が資本に参加してはじめて安定した火災保険営業を行えるようになりました。同社は、後の安田火災、現在の損保ジャパンの前身会社です。

 同じころに明治生命を設立した人々、すなわち主として三菱を背景にした人々の中から火災保険会社設立という企画が生まれました。火災保険では、初期営業においてリスクを十分に分散できないことから、事業が挫折する恐れがありますので、最初は、三菱の関連企業の物件をあつめて自家保険することにしました。この結果、大変優良な成績が収められたので、自家保険を脱して一般の物件も引き受けることのできる火災保険会社の設立をしました。社名は、明治火災保険というものでした。設立者の多くが明治生命関係の人々だったため、本社は明治生命と同じ社屋(日本橋区阪本町)に置かれました。その後、明治28年に明治生命とともに、丸の内の新社屋に移転しましたが、なんとこの社屋の東側には東京海上が、西側には明治火災が本社を構え、正面中央部分に明治生命の本社が置かれていました。この地は、現在の明治生命本社が所在している場所です。同社は、後に戦時期の損害保険産業の統合過程で、同じ三菱系の東京海上と合併しました。

 火災保険には、海上保険と異なり、法人市場ばかりでなく、大衆物件の市場も存在したため、数多くの火災保険会社が市場に参入しました。追随企業のうちで主要な企業には、日本火災、千代田火災などがあります。中には、大衆物件のうち特に小口な火災保険や動産の担保に特徴をもつ簡易火災保険というマーケットが伸長し、普通火災保険とは異なる約款による特別の火災保険が誕生しました。この中には、戦後に日動火災、大東京火災、富士火災という普通火災保険会社に発展した会社もありました。なお戦前の火災保険の市場構造に変化を与えたのは、東京海上の火災保険進出と関東大震災ですが、その影響は後に触れます。

~展示資料~

  • パァウル・マエヨット述,寺田勇吉譯「日本家屋保險論」『經濟資料日本家屋保險國營論』(有斐閣, 1925.5), p.1-71 【Hb:33】
  • 東京火災保險株式會社五十年誌 / 志津野眞二編 - 東京 : 東京火災保險, 1938.11 【Vqfb:8:1】
  • 明治火災保險株式會社五十年 - 東京 : 明治火災海上保険, 1942.6 【Vqfb:1:1】

3 生命保険の紹介と導入

 福沢諭吉が当時のベストセラー『西洋旅案内』において、保険を紹介したという話は有名です。この本では、生命保険のことを「生命請合」と呼んでいます。生命を請け合ってくれるというので、長生きを保証してくれる会社と勘違いされたという笑い話があります。Insurance やAssurance に類似する無尽や頼母子といった制度が、日本になかったわけではありませんが、西洋の保険と同じものではありませんので「請合」という言葉をあてたのでしょう。

 近代生命保険を提供する会社も福沢の弟子たちから誕生しました。1881年(明治14年)に設立された明治生命です。明治生命以前に二つの生命保険会社設立の企画がありました。ひとつは、若山儀一の保生会社、もうひとつは共済500名社です。若山の試みは、会社を設立するに至ったのですが、初期営業が不振で失敗しています。共済500名社は、安田善次郎の肝いりで出来た共済組合で、メンバーを500名に制限し保険給付が生じるごとに生存メンバーが給付を共同して負担するという賦課式保険であり、その意味では近代保険とは言えません。しかし、この共済組合が発展的解消されて、旧安田生命の前身である共済生命保険となったことは記憶すべきでしょう。現在は、明治生命と安田生命が合併して明治安田生命となっています。

 明治生命に追随してその後主要会社となる二社設立されました。1888(明治21年)に設立された帝国生命(現朝日生命)と1889年(明治22年)に設立された日本生命です。さらにその後数多くの生命保険会社が設立され、その多くが零細なものでしたが、中には戦前の生命保険市場において中堅会社として重要な存在であった会社もありました。

~展示資料~

  • 福澤諭吉著「西洋旅案内」『福澤全集』第2巻(國民圖書, 1926.5), p.129-194 【Xb:89:2】
  • 明治生命百年史 / 杉山和雄, 志村嘉一執筆 - 東京 : 明治生命保険相互会社, 1981.7 【Vqfb:4:7】
  • 明治生命百年史資料 : 明治14年7月~昭和57年3月 - 東京 : 明治生命保険相互会社, 1982.11 【Vqfb:4:9】
  • 明治生命百二十年史, 1881-2001, 補遺 2002-2003. - 東京 : 明治生命保険相互会社, 2003.3-2004.3 【Vqfb:4:12】【Vqfb:4:13】
  • 六十年史 / 安田生命保險株式會社 [編] - 東京 : 安田生命保険, 1942.3 【Vqfb:11:1】
  • 八十年史 / 安田生命保険相互会社社史編纂委員会編 - 東京 : 安田生命保険, 1961.12 【Vqfb:11:2】
  • 安田生命百年史 / 安田生命一〇〇年史編さん委員会編 - 東京 : 安田生命保険, 1980.12 【Vqfb:11:3】
  • 安田生命123年史 / 安田生命保険相互会社 [編] - 東京 : 安田生命保険相互会社, 2003.9 【Vqfb:11:3】
  • 竹村吉右衛門追想録 / 故竹村相談役追想録刊行委員会編 - 東京 : 安田生命保険相互会社, 1986.5 【Qb:B161】

4 第一次世界大戦と関東大震災が、わが国保険市場に与えた影響

 第一次世界大戦と関東大震災は、大量の死者や負傷者を出しましたが、生命保険会社の経営に与えた影響は大きいものではありませんでした。通常の生命保険約款では、戦争における死亡は免責になっていました。また関東大震災の死亡者についても、生命保険契約全体の規模から考えればリスク分散できる程度のものでした。

 これに対して、第一次世界大戦と関東大震災がわが国の損害保険市場に与えた影響は、はるかに大きいものでした。第一次世界大戦が勃発すると、わが国の海上保険会社は、戦争リスクの引き受けについて、一定の困難を感じました。戦争勃発によって、船価が高騰して保険料収入が増大しましたが、保険会社は過剰な戦争リスクを引き受けるほどの資本を保有していなかったのです。これに対して、政府は、戦時海上保険補償法を設定し、海上保険会社が戦争リスクを引き受けられるように配慮しました。その結果、わが国の海上保険会社は、戦時中の海上保険を引き受けることが出来ましたが、第一次世界大戦の主戦場がヨーロッパであったため、保険事故が少なく、海上保険の成績は非常に好調でした。第一次世界大戦は、結果的に、わが国の海上保険市場に未曽有の利益をもたらしたのです。

 この時とりわけ大きな利益を享受したのは、各務鎌吉らの働きで、海外営業の困難を克服していた東京海上でした。好調な海上保険市場を狙って、新規参入企業が登場し、また既存の火災保険会社が海上保険に進出しましたが、これらの企業が海上保険市場で大きな収益を獲得する前に、第一次大戦によるブームは終結し、海上保険市場の競争が激化しました。

 東京海上は、これにより強化された財務基盤を背景に、当時、保険料率協定をめぐって混乱していた火災保険に進出しました。保険料率協定とは、価格カルテルです。自由競争市場では、独占禁止法により価格協定は認められていません。しかし保険は、将来の保険事故に給付するという特徴を持っている故に、過当競争に陥りやすいという理由で、協定価格によって合理的な保険料率(価格)を維持することが認められていました。

 明治火災の支配人であった原錦吾(注4)が、外国会社を含めた火災保険料率協定の成立に責任を負っていましたが、首尾よく運ばなかったために、原錦吾にかわって、東京海上の各務鎌吉のリーダーシップで料率協定の成立が試みられ、大正5年に火災保険料率協定が成立しました。これによって、火災保険市場の熾烈な料率競争は影をひそめ、火災保険会社各社の経営が安定することになりました。

 火災保険各社が財政基盤を固めようとした矢先に生じたのが関東大震災でした。火災保険約款では、地震による被害はカバーしないことになっていました。しかし、関東大震災の被害は、周知のように震災後の火災による被害が甚大でした。保険会社は、地震を原因とする火災に対しては保険金を支払わないとしましたが、当時の被害状況を見れば、地震が主原因であるとはいえ、飛び火などによって焼失した家屋が多く、約款の厳密な解釈がどのていど通用するかが問題となりました。いわゆる「震火災による保険金支払い問題」です。

 火災保険会社の経営的立場からいえば、約款の解釈の問題ではなく、会社存続にかかわる大問題でした。つまり震火災による被害に対する保険金額推定額は、火災保険会社全社の総資産の合計額をはるかに上回るものでした。いいかえれば、震火災による被害に保険金を支払えば、ほとんどの火災保険会社が破綻に追い込まれる状況であったということです。

 このような深刻な局面において、政治も混乱していました。その結果、政府が火災保険会社に対して50年という長期の低利借款を実施するかわりに、火災保険会社は、原則として火災保険金額の1割の震火災見舞金を支払うということになりました。外国火災保険会社は、この決定に従わず、保険料を返還するという形で対応しました。

 これは、まさに政治決着といってよいのですが、政府からの借款なしに、震火災見舞金を支払ったのは、危険準備金を充分に備えていた東京海上の他、新規開業したためほとんど契約を保有していなかった大成火災など数社でした。その結果、震災後の火災保険市場は、資本的に自由の利く東京海上が強い業界のリーダーシップを発揮することになりました。東京海上は、その後戦時期に至るまで、海上保険および火災保険事業において、日本を代表する保険会社として、海外保険ネットワークとの窓口としての役割を担ったのです。

~展示資料~

  • 大正大震火災誌 / 山本美編. - 東京 : 改造社, 1924.5 【旧分類/III-56:256】

5 戦前昭和期の保険業界

①五大生保と財閥系生保の伸張

 大正期の社会変化は、生命保険にとって大きな影響を与えました。その変化を簡単にいえば、都市化と大衆化です。現代と比べれば、人口においても経済においても農村の重要性は大きかったのですが、大正期の都市化は、その比重を大きく変えるものでした。政治の中心としての東京の発展、また京阪神の経済的な地位も大きなものでした。とりわけ、関東大震災の影響もあり、京阪神の経済の重要性は無視できないほど大きなものだったのです。工業化によって地方都市も発展しました。

 初期の生命保険は、官僚、軍人、技術者などの明治初期のエリート層を中核とするモノであり、明治生命や帝国生命(現朝日生命)はこのような階層に募集の狙いを定めていました。他方において、比較的経済的重要性が大きかった農村部でも小口の生命保険の募集が行われ、地域の名士を代理店にして、広く全国的に生命保険市場が広まりました。農村部を積極的に開拓したのは、日本生命でした。以上の三大生保に追随して誕生した中小生保の中には、三大生保が募集していなかったような、職業の人も含む小口の保険の募集に集中する会社もありました。

 日本ではじめての保険監督法である保険業法が1900年に施行されましたが、この法律で法認された相互会社形態の生命保険会社が誕生しました。最初は、第一生命保険相互会社(以後、第一生命と略記)であり、それに続いて千代田生命相互会社(以後、千代田生命)が設立されました。その他に、いくつかの零細は相互会社(中央生命、蓬莱生命、東海生命、国光生命)も誕生しました。とりわけ、第一生命と千代田生命の両社は、大正期にはいると、三大生保に規模で肉薄するほど成長を遂げました。その理由の一つは、都市化の進展とそれにともなって裕福な中間階級が増大したことでした。要するに、都市の比較的富裕な中間階級のニーズが、この二社の提供した有配当の生命保険商品に向かったのです。とりわけ第一生命は、東京のような大都市で営業を急激に伸ばし、それまで首位の座にあった日本生命の地位を脅かすほどになりました。

 昭和金融恐慌と金解禁を経て満州事変までの時期における特徴は、契約が上記の五大生保に集中する傾向が強まったこと、および財閥系の生保が成長をしたことです。(高垣『生保コンツェルン』)他方において、明治以来長年検討してきた中堅生保の契約が伸びなくなり、破綻や吸収合併によって市場から姿を消した会社もありました。

②戦時経済と産業の再編成

 戦時経済となると、統制が強まり、また産業の合理化の観点から、保険業の統廃合が政府の主導で行われました。この動向のタイミングは、損害保険業の方が早く生じました。損保は戦後20社体制で再出発したが、戦時期の産業の再編成によって、ほとんどその原型ができあがっていました。

 これに対して生命保険の再編成のタイミングは遅れ、その結果、戦後の再出発時点で、規模の格差が大きくなりました。もっとも戦後の困難な時期における経営にとって、規模の大きさは、競争にとって大きな要因であるわけではありませんでした。

~展示資料~

  • 明治大正保險史料 / 生命保險會社協會編纂 全9冊 - 東京 : 生命保險會社協會 , 1934-1942 【Hc:11】
  • 生保コンツェルン讀本 / 高垣五一著(日本コンツェルン全書 ; 14) -- 東京 : 春秋社, 1938.6 【Dbc:22:14】
  • 生命保険業100年史論 / 宇佐見憲治著 -- 東京 : 有斐閣, 1984.5 【Hc:142】
  • 損害保険会社変遷史 / 黒田教治郎編 -- 名古屋 : 黒田教治郎 , 1943 【Hc:1】

6 戦後の出発

 生命保険も損害保険も敗戦によって大きな経営的打撃を蒙りました。保有していた戦時国債に対して十分な補償は行われず、戦時中に海外に残されていた資産は没収され、さらに軍事産業への融資の返済の見込みは立たず、しかも人的・物的資産を基盤とした保険営業の組織能力も衰えていました。生命保険と損害保険の決定的な相違は、保険需要でした。生命保険も損害保険も共通の困難を前提として、異なる市場環境のもとで、苦境から経営を立て直したのです。

○生命保険
 損害保険よりも貯蓄性の高い長期契約を行っているため、生命保険の資産は大きなものです。そのため戦時国債、軍需投資などが経営にもたらした打撃は、損害保険会社と比べ物にならないくらい大きなものでした。

 政府は、金融機関再建整備法によって、不良な資産と高額契約の負債からなる旧契約勘定と、優良な資産と小口および新規契約からなる新契約勘定に分離して、不良資産を整理しながら、保険募集活動をおこなえるようにしました。旧契約勘定の負債にあたる高額契約は凍結し、解約を許さず、また保険給付事由が生じても給付は留保されました。不良資産の整理を行った上で、資産の不足部分は政府が保証するというかたちで、新旧勘定を統合する予定でしたが、そのようなプロセスを待たず、一部の会社が、従来の会社が旧勘定を継承させ、新勘定を継承するものとして新会社を設立しました。最初の会社は日本生命でしたが、日本生命保険株式会社が旧勘定を継承し、新しく設立された日本生命保険相互会社が新勘定を継承しました。この方法は、他の生保会社も踏襲し、ここに戦後の生保の相互会社化が生じました。

 このようななし崩し的な相互会社化は、相互会社理念が優れているために生じたものというよりも、生命保険の加入どころではない、戦後のマーケットの中で、少しでも顧客を取り込みたいという生保の気持ちが、戦略的に表れたものと理解することができます。

○損害保険
 損害保険会社においては、グローバルなビジネス展開に特徴があるため、とくに海外資産の喪失が打撃でした。さらに、国際保険ネットワークからの断絶や専門的従業員の喪失も負の要素でした。生命保険と同様の再建過程を踏みましたが、生保に見られるような相互会社化はありませんでした。あるとしたら、共栄火災相互会社の誕生です。これは生保とは違い、株式会社であったものを保険業法の規定に基づいて相互会社に組織転換したケースであり、その意味でも相互会社の理念にもとづく火災保険会社を生み出すという意志によって生じたものと解釈できます。

 損害保険市場の置かれた状況は、戦後復興需要に対応するリスク引受の需要の増大を引き受けるだけの資本が欠如していたことです。資本が少ない状態では、損害保険会社は協調してリスクを引き受けていかざるをえず、これが戦後の損害保険業の協調体質を生んだ原因だと思われます。協調によるリスクのシェアリングと市場安定のための保険料率協定によって、戦後の厳しい歴史条件を切り抜けることができたのです。

~展示資料~

  • 昭和生命保険史料 / 生命保険協会編 全10冊 - 東京 : 生命保険協会 , 1970.12-1976.3 【Hc:11】


  1. 各務鎌吉(かがみ・けんきち, 1869-1939)
    東京高等商業(現一橋大学)を明治21年(1888)に首席で卒業後、京都府立商業学校の教師等をしていたが、矢野二郎などの勧めで明治24年(1891)に東京海上に入社し、手痛い損失を生み出したロンドン営業を整理して東京海上の存亡の危機を救った。各務がロンドン営業の整理に専念できたのは、同じく東京高商出身の平生釟三郎が入社し、国内営業を守ったためであった。小島直記『東京海上ロンドン支店』には、若き日の各務と平生の活躍が描かれている。
  2. 村瀬春雄(むらせ・はるお, 1871-1924)
    東京高等商業(現一橋大学)出身。卒業後ベルギーに留学して海上保険を学ぶ。帰国後に母校の教授に迎えられる。1895年に帝国海上の支配人に就任するが、母校および明治法律学校(現明治大学)で「海運」「海上保険」を講義。図書館にむかって右側の経済研究所に抜ける庭の一角に村瀬春雄氏の胸像が建立されている。
    ※ 参考 村瀬春雄先生
  3. ポール・マイエット(Mayet ,Paul Carl Heinrich, 1846-1920)
    お雇い外国人のひとりで、木戸孝允の知遇を得て来日し、1876年に東京医学校でドイツ語およびラテン語教師になるが、経済問題に造詣の深かった彼は、わが国に公営の家屋火災保険を導入することを建議する論文を書いた。この建議は実施に至らなかったが、後に『農業保険論』で、1889年にテュービンゲン大学から学位を授与されている。
  4. 原錦吾(はら・きんご, 1867-1936)
    東京高等商業(現一橋大学)を卒業後、母校の教授などを経て、明治火災に入社。1914年に同社の常務取締役を辞任。その後,日本共立保険という協定料率に所属しない火災保険会社を経営し、機動的な営業展開を試みるが、関東大震災で打撃を受ける。

一橋大学附属図書館 髙本善四郎氏助成図書コーナー「本の紹介」班

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